59. 第4章|1943年・アウシュヴィッツ

 着任初日に変わり果てたダミアンと遭遇するという想定外の出来事はあったものの、ユリウスの収容所での生活は静かにはじまったと言っていい。

 あの日以降ダミアンの姿は見ていない。気になって翌日に医務室に行ったがすでに姿はなく、居場所を訊ねると軍医はつれなく首を振るだけだった。ここでは多くの隊員が任務についている。ひとりひとりの所属や宿舎割当など把握していないのは当然のことだった。もちろん大けがや大病であればカルテを書き人事に報告もするだろうが、気分不良程度では特段申し送りもないのだという。

 目下ここでユリウスが戦う相手は連合軍でも反乱分子でもなく、見慣れない経理書類や日々運びこまれる物資の山だ。書類とにらめっこしながら浮かない顔をしているユリウスの姿は周囲から見れば滑稽であるらしい。リーゼンフェルト大尉の秘書が笑いながら声をかけてくる。

「准尉、どうなさいました? 先ほどからここを通るたび、ため息ばかり聞こえてきますよ」

「事務仕事っていうのも、なかなか難しいものですね。ただ椅子に座っていればいいものかと思っていたけど、俺はずいぶん考えが甘かったみたいだ」

 そういえば学校では、戦争のやり方は散々習ったがこういった仕事についてはまったく教わらなかった。語学を除けば学業成績もそれなりに優秀で軍事訓練の評価も良かったから、どうやら自分は思い上がっていたらしい。ここでの実務においてはユリウスは今のところ、年下の女子事務員にすら劣る程度の能力しかなかった。

 体力的にも楽どころか、一日中座りっぱなしでいると夕方には肩や腰がだるく痛み、外で体を使うのとは違った種類の疲れを感じた。

「たまには外に出る仕事もあればいいんだが」

 一週間ほどが経つが、ユリウスは収容棟のある鉄条網の内側に入ったことも被収容者と出くわしたこともなかった。もちろんそこに広がるのが暗い世界だということはわかっているが、自分の勤務する場所についてほとんど何も知らないまま日々が経つことにも漠然と不安を感じた。

 すると、ユリウスの上席であるベルマンという少尉が鼻で笑う。

「シュナイダー准尉、そんなに外の仕事がやりたいなら一日くらい収容棟の仕事を手伝ってみたらどうだ。大尉はお気に入りの君を室内飼いにしたがっているようだが、せっかく現場に来たのにいつまでも温室暮らしというのも面白くないだろう」

 その言葉にもあからさまな皮肉が込められている。聞いた話ではこの少尉は貧しい家庭からの叩き上げで、士官学校出などのいわゆるエリートを忌み嫌っているらしい。何を言われても聞き流すよう忠告を受けてはいたが、退屈も相まってユリウスはその言葉に皮肉で返してしまう。

「そうですね。せっかく学校で何年も専門的な軍事教育を学んだのに、ここでは活かせることが少なく申し訳ない。こんな役立たずでもできることがあれば是非お手伝いしたいものです」

「……仕事ならいくらでも準備できるぞ。監視、看守、移送、どこも人手が足りずに困っている。君はまだ現場の見学もしていないわけだしちょうどいい、明日にでも外の仕事を手伝いに行けるよう手配しよう」

 その目にはどことなく残虐な光が灯っているようだった。

 とはいえベルマンの言っていることは正論でもある。アウシュヴィッツ=ビルケナウという収容所で働いているのだから一通りここで行われていることについて知る必要はある。それにダミアンの言葉も気にかかっていた。

 ――ここでは人を焼いているんだ。

 まさかとは思いつつ、あのダミアンが、いくら多少心のバランスを崩しているとはいえそんな出まかせを言うものだろうか。

「では、お願いします」

 ユリウスはベルマンの申し出をありがたく受けることにした。

 そして翌日、朝一番にユリウスは収容棟にいた。案内役の伍長は張り巡らされた有刺鉄線を指して言う。

「この有刺鉄線には電流が通っているので、かいくぐって逃げることはできません。誤って触れたら大変なことになりますので准尉もお気をつけて」

 一見普通の鉄線だが、そんな仕掛けがあるとは気づかなかった。有刺鉄線の柵沿いにはところどころに三角形をした監視所の建物があり、その前にはドクロマークと「立ち入るなhalt」と書かれた標識が立っていた。高圧電流で脱走を防ぐだけではなく、こうやって目視での監視も行なっているということなのだろう。

 そして柵の先には――別世界が広がっていた。

 ちょうど朝の点呼の時間帯なのだろう。平屋建ての収容棟それぞれの前に大量の被収容者が並ばされている。アウシュヴィッツに到着した日に痩せこけて覇気のない男たちを見てユリウスはそれを病人に違いないと思ったが、あれは間違いだった。

 規則正しく並ばされ直立不動の姿で立つ何百、何千、いやもしかしたらそれ以上の男たちのほとんどが、あの日ユリウスが見たのと同じくらい痩せて、汚らしく、疲れ果てていた。髪は全員丸刈りで、皮膚はそもそもの色なのか汚れなのかわからないくらいに黒ずんでいる。

 つぎはぎだらけの縦縞の囚人服にはそれぞれの身分を表す印がつけられている。区分のリストは執務室の壁にも貼ってあった。並んでいる人間の多くがつけている黄色いダビデの星はユダヤ人、ところどころにいる緑の逆三角形は犯罪者、赤の逆三角形は共産主義者、ピンクの逆三角形は同性愛者――。コートもなく足下はボロボロの靴というひどい格好で、まだまだ寒さの厳しい三月初旬のポーランドの朝に彼らは外に立たされ点呼を受けていた。

「彼らは、何をしているのですか?」

「朝の点呼です。この後でグループに分かれてそれぞれの仕事先に向かいます。土木作業から工場労働、危険性が少ない被収容者には管理棟の雑務をさせることもあります。見たことあるでしょう?」

「ええ」

 確かに、ユリウスの勤務する管理棟でも、ときどき縦縞の服を着たスタッフを見ることがあった。彼らは一様にうつむきがちで、怯えたようにひたすら言われた仕事だけをこなしている。ほとんどが掃除や機械修理といった作業だったが、中にはちょっとした書類仕事や通訳を頼まれている者もいる。

「ああいう仕事を任されるのは運がいいですよ。工場も比較的ましだ。野外作業は寒いしきついので、日々病人や死者が出ます」

 伍長は淡々と言った。あんな格好で一日中外で肉体仕事をさせれば、死人が出るのは当然のことだ。

「だから……焼却が……」

「え?」

 ユリウスのつぶやきが半端に耳に入ったようで、伍長が訊き返してくる。

「いえ、ここでは人を焼いていると聞いたから。この妙なにおいもそのせいなのだと」

「ああ、それは……まだご存知なかったですか。まあ遅かれ早かれ知ることにはなるでしょうが……」

 伍長はうつむき頭をかくと、少し遠くにあるひとつの建物を指し「あれがクレマトリウムです」と言った。一見収容棟と大きくは変わらない外見のそれは、ユリウスが何度か見上げた煙突のある建物だった。

「クレマトリウム?」

「労働不能者を処分するための施設です。興味があればご案内できるよう手配しますが、実際の運営はほとんど被収容者の労務部隊ゾンダーコマンドに任せているので、私も中までは」

「処分とは?」

「……ガスでまとめて処分し、そのまま焼却します」

 頑なに伍長は「処分」という言葉を使った。どうしても「殺害」と言いたくないのかもしれない。

 ダミアンは嘘をついてはいなかった。書類を見る限りアウシュヴィッツの収容人員はすでに満員と言っていい。なのに毎日各地から続々と新たな移送者がやってくる。明らかな矛盾の解決方法はただひとつ――働けない者は殺す。

 収容所入り口の「働けば自由になる」というメッセージを思い出す。働けば本当に自由になれるのか、その答えをユリウスはまだ知らない。しかし少なくとも、ここでは「働けなければ殺される」のだ。

 今はまだ煙突から煙は出ていないが、朝早いからだろう。あと一時間もすればあのクレマトリウムという施設は労働不能者を殺し、焼く仕事をはじめるのだろうか。これまで嗅いでいた「奇妙なにおい」の正体に胃がむかむかしてくるが、伍長の手前なんとか嘔吐をこらえる。

 伍長はユリウスが青い顔をして気分悪そうにしているのに気づいたようで、さりげなく話をそらす。

「准尉、ここはこのくらいにしてよろしければ第二収容所――ビルケナウを見に行きませんか? あそこには鉄道線が引き込まれていて新規の移送者を乗せた列車の到着場所になっています。ちょうど昨日今日と、大量移送があるので人が足りないと聞いていますから、よければあっちの手伝いを……」

 ユリウスはうなずいた。あの煙突から煙が出るところを見たくない。あの煙突から出る煙を吸いたくない。だったら移送の手伝いの方がよっぽどましに違いない。

「移送ってヨーロッパ中から来るんですよね。今日はどこから」

 移動のため乗せられた車の中でユリウスは何気なくそう訊ねた。ただの世間話のつもりだったが、返ってきた言葉は思いもよらないものだった。

「今日の便は近くからですよ。クラクフのゲットーが完全に解体されることになって、昨日と今日の二日に分けて大量にユダヤ人が運ばれてきているんです」

 聞き間違いではない。クラクフ、それはニコの暮らす街の名前だった。

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