60. 第4章|1943年・アウシュヴィッツ

「どういうことだ、それは!」

 ユリウスは思わず伍長を怒鳴りつけた。

 ポーランド占領時にクラクフにいたニコは、そのまま街に留まっているに違いないというのがユリウスの考えだった。ニコのことだから居場所が変われば必ず知らせて来るに違いない。クラクフに住むユダヤ人は全員ゲットーに入れられているはずだから、そこへ行けばニコが見つかるのだと期待してここに来た。

 もちろん一部でゲットーから収容所への移送が行われていることは聞いていたが――クラクフゲットーが解体だと?

「……ど、どういうことと言われましても」

 ハンドルを握りしめた伍長の目に狼狽と怯えが浮かぶのを見てユリウスは小さく舌打ちした。目の前の男を怒鳴ることに意味がないのは自分でもよくわかっている。小さく息を吐いて、落ち着いた風を装いできるだけ情報を聞き出そうとする。

「ゲットーにいたユダヤ人は、全員ここで引き受けることに?」

「いえ、クラクフにはプワシュフという労働収容所があるので、働ける者はそっちへ。ここへ来るのは病人や年寄りが多いですね」

「……働けない人間は、どうなる?」

「一応ここへ来た時点で再度選別は行います。それでも労働不能と見なされた場合は……置いておく場所もないので、そのままガス室クレマトリウムへ」

 その言葉にすっと背中が冷たくなる。ゲットーのユダヤ人のうち働けない者はここに運ばれて来てそのまま死ぬ、というよりは殺すためにここに連れて来られるのだ。噂に聞いた〈ユダヤ人問題の最終的解決〉、その手段とは隔離でも追放でもなく容赦なく絶滅を目指すものだった――そのことに初めて気づき、ユリウスは愕然とした。

 ニコはどこへ移送されているんだろう。十七歳の若い男だから健康に問題さえなければ労働力と見なされてプワシュフとやらにいるのだろうか。しかしもし病気でもしていたら……。

 さっき目にした煙突のことを思い出す。クラクフゲットーからの大量移送はすでに昨年に二度、そして昨日も行われたのだという。昨日はどうだったか。あの煙突から煙は出ていたか。ユリウスは頭を振って最悪の想像を振り払おうとする。

 どうすればいいのだろう。プワシュフに問い合わせたところで、個別のユダヤ人の存否を教えてもらえるものだろうか。その前に一応ここにいないか確認してみるべきだろうか。そもそも移送者や収容者についてどこまでしっかり管理されているのだろうか。やっとニコの近くに行けると喜んでここへ来たはずなのに、希望はあっという間に絶望にすり替わる。

 今までだってニコの無事を信じて来たことには何の根拠もなかった。それでもどうにか希望を持ちたくて、ニコに限っては市街戦に巻き込まれるはずはない、ニコに限ってはゲットーの環境が悪くても病気になるはずがない。そんな風に自分に言い聞かせてきた。けれど今、ユリウスは目の前にニコの死を生々しく突きつけられている気分だった。

「准尉、具合でも?」

「何でもない……」

 車で数分で着いたビルケナウ収容所の入り口には大きな門があり、鉄道の線路が引き込まれている。わざわざ外部の駅を利用すれば、そこから移送者を運ぶ手間や脱走される危険性も高まる。収容所内に終着駅を作り、そこで降ろすというのは恐ろしく利口で、恐ろしく悪趣味なアイデアだ。

「できるだけ効率的に、あそこで列車から降りて来た移送者を並ばせそのまま労働可否の選別を行います」

 車を停めると、伍長はユリウスを列車の停車場の方へ案内する。ちょうど今、朝一番の移送便が荷を空にして引き返していくところだった。途中、ちょうど職員に先導されながらぞろぞろと歩いていく移送者の集団とすれ違った。小さな子どもを連れた女や老人の姿が目立つ。

「彼らは?」

 耳打ちをすると、伍長はやはり小さな声で答える。

「労働不可の判断が下されたグループです。あのまま処分します」

 彼らは今まさに死に向かって自らの足で歩いている。だが、行き先に待っているものについて知らされていないのか、誰もが不安げな表情を浮かべてはいるものの威圧的な職員の後を従順について歩いている。移送者の多くは疲れた顔をしているが、帽子をかぶり外套を着てよそ行きの格好をしていることに胸が苦しくなった。

「その……処分というのは苦しむのか?」

「いいえ、彼らは最後までただのシャワーだと思っています」

「シャワー?」

「ええ。衛生のために入所前にシャワーを浴びるのだと。処理室はシャワー室そっくりで、彼らは喜んで裸になって入って行くそうですよ」

 本物のシャワー室と違うのはただ、天井にあいた穴から出てくるのが湯でなく毒ガスであるだけ、というわけだ。さもそれを「良心的である」ように話す伍長に不快感を持つが、頭ごなしにこの男の言葉を欺瞞だと言い切ることもできない。さっき見た、痩せこけたひどい姿で労働に従事させられる男たち。あんな日々が続いた挙句に体を壊して命を落とすのと、今ここで何も知らずに死んでしまうのはどちらがましなのか。

 ユリウスはダミアンの言っていたことを理解しはじめていた。本来戦争に関係ないような一般市民に何かしらのレッテルを貼り、その絶滅を目指す。それはユリウスが学び想像していた政治とも戦争ともまったく異なるものだった。

 ここは地獄だ。ユリウスが漠然と思い描いていたよりよっぽどむごたらしい、本物の地獄なのだ。

 ふいに頭の中にレオの顔が浮かんだ。ユリウスのくだらない逆恨みのせいでゲシュタポに連行されていったレオ。彼はその後どうなったんだろうか。当局からの拷問を受けただろうか。収容所には送られただろうか。そこでは何をさせられただろうか。そして、今は――。

 さっき目にした疲れ切って若者か老人かもわからないような顔をした被収容者の顔にレオの顔が重なる。そこにさらにニコの顔までも二重写しになり、ユリウスはどうしようもない気分になった。

「ほら、ちょうど着きました」

 やがて汽笛をあげてやってきた新しい列車が止まった。すぐにぞろぞろと出てきはじめた人々を、制服を着た職員たちが器用に列に並ばせていく。列車の中にどれほどぎゅうぎゅうに詰め込まれていたのか、車両の大きさからは信じられないほどの人間がとめどなく吐き出されてくる。

「やあ」

 仕分けの責任者のような人間に、伍長が声をかける。

「これは、クラクフからの便か?」

「ええ。今日は次々到着予定なので、すぐ捌かなきゃならないんですよ。選別をお手伝いいただけるとか?」

「ああ、私と、こちらの新任のシュナイダー准尉も少し外の仕事を経験したいとかで」

 ユリウスは内心ぎょっとした。自分から外の仕事をやってみたいと言いはしたが、まさかこんなことを任される羽目になるとは思ってもみなかった。彼らが話しているのは働ける人間と働けない人間を分けていくことで、それはつまりのところ移送者の命の選別に他ならない。

 責任者の男はユリウスに敬礼をすると、淡々と仕事の説明をはじめた。

「難しいことではありません。顔色や姿勢、動きを見て問題がありそうならばこちらから見て右に、働けそうであれば左に行くように指を振るだけです。そこで再度列を作って、あとは担当者がそれぞれ連れて行きますから。あと、子どもについては基本的に十五歳未満は就労不能と見なします」

「もし判断を間違えたら?」

「大丈夫ですよ。あとで働けないとわかれば、そこでまた選別されるだけです。とにかく使い物にならない分を弾いて幾らか数を減らせれば良いんで難しく考える必要はありません。なんせ今夜入れておく部屋さえ十分じゃないんですから」

 自分の指先の一振りで、目の前に並んでいる人々の生死が決まる。ユリウスはそれを恐ろしいことだと思ったが、いまさら逃げるわけにはいかない。例えばここで下手な行動――例えば収容所のやり方を批判するとか、被収容者をあからさまに擁護するとか――をすれば、思想に問題ありとして、最悪ユリウス自身もあの縦縞の服を着せられる羽目になるかもしれないのだ。

 ユリウスは嫌々ながらひとつの列の前に立った。幸い最初の数人は、まだ若い男ばかりで歩き方や立ち姿もしっかりしていた。ユリウスは指を左に振る。その次にきたのが、片足を引きずった老人だった。一瞬助けを求めるように、そばで様子を見守っている責任者の男に視線を送る。彼は目線だけで「だめです」と合図をした。ユリウスはぎゅっと心臓を締めつけられるような思いの中で、震える指を右に振った。

 しかし、どんな残酷な行為も繰り返すたびに慣れてしまうものだ。しかも実際に残虐な処刑現場を見ているわけではないのだからなおさらだ。昼になる頃には、ユリウスは心を麻痺させほとんど機械的な動きで、指を左右に振るようになっていた。

 押し寄せる移送列車に、とにかく目の前の列を裁くことだけで頭がいっぱいになり、そこに並んでいるのが人間だという意識も希薄になる。人の顔や立ち姿はただの記号になり、ユリウスは頭を真っ白にしてそれを一定の決まりに従って振り分けていた。

 ――昼過ぎに、その日最後の列車が到着するまでは。

 クラクフからの最後の移送列車。そこから降りてきた大量のユダヤ人の中にユリウスは見覚えのある横顔を見つけた。決して見間違えることのない人物の顔を。

「……ニコ?」

 ユリウスは息を飲んだ。