61. 第4章|1943年・アウシュヴィッツ

  列車の中からなかば押し出されるようにしてよろめきながら飛び出てきた、それがニコだということは目をこらすまでもなくわかった。

  どんなに遠くても何年離れていてもユリウスにはニコを見分けることができる。それが単なる思い込みやうぬぼれではなかったことに自分でも驚いた。だがそれはユリウスに特殊な能力が備わっているからではなく、身長こそ多少は伸びているもののニコの全体的な背格好や身のこなしなどが驚くほど変わっていなかったからなのかもしれない。

 会いたかった。何としてでも、地獄に足を踏み入れてでもニコを見つけ、救い出して故郷の街に連れて帰ろうと思っていた。そして実際ニコは今まで無事でいて、こうして手の届く場所にやってきた。

 しかし――あれだけ再会を思い焦がれたニコの姿を遠目に見つけた瞬間、ユリウスの心に湧き上がったのは自分でも想像だにしなかった感情だった。

 ユリウスは思わずニコの側から自分が見つからないよう帽子のつばを引き下げ、顔をうつむけていた。さっと心を覆ったのは羞恥。今の自分をニコに見られたくない、瞬間的にそう思った。

 だって、今の俺を見たらニコはどう思うだろうか。

 ユリウスはついさっきまで親衛隊の制服を着ることや収容所に勤務することがどういうことなのか正しく理解できていなかった。たとえこの制服を着ていても自分だけは人とは違う、大切な相手を守るという崇高な目的を秘めた人間なのだと思い上がっていた。だが現実はそうではない。ユリウスはただの親衛隊員で、大量の人間を殺して焼いている施設の歯車のひとつに過ぎないのだ。

 褐色の制服。階級章。制帽。ユリウスは自分の姿を恥ずかしく、いたたまれないほど惨めだと感じた。移送者の列の前に立ち彼らの生死を冷酷に仕分けているのが偽らざる今の自分の姿。ユダヤ人たちの命を奪う作業に淡々と従事する冷酷な親衛隊員――ニコの目にユリウスはそれ以上にも以下にも映らないだろう。

 自分が思い描いていた再会はこんなものではなかった。ニコの命を仕分ける者として出会いたかったのではない。異国で辛い生活を送るニコの前に颯爽と現れ救う。子どもの頃にニコをいじめる意地の悪い少年たちを殴り倒したときのような英雄的な場面になるのだろうと甘美な妄想を抱いていた。そんなくだらない夢は粉々に打ち砕かれた。

 だが、一方で思う。今この瞬間の再会はユリウスにとって望まざるものであると同時に僥倖ぎょうこうでもあるのだと。

 親衛隊の制服に身を包んでこんな仕事をしている自分の姿をニコに見られたくはない。――しかし今ユリウスは、ニコの命を確実に「生」の方に振り分けることができる権力を手にしていた。

 軽蔑されることを恐れてニコの命を他人に委ねるか。それとも失望され嫌悪されることすら覚悟してニコの命を守るか。答えなど考えるまでもない。

 ユリウスはじっとニコの様子を観察した。手を伸ばして大人の女性と少女が列車から降りるのを手伝っている。遠目ではっきりとはわからないが、おそらくニコの母親と妹だろう。一緒にハンブルクを去ったはずの父親の姿はなぜか見当たらなかった。

 三人はプラットフォームに立つと戸惑いがちに周囲の様子をうかがった。収容所職員が大きな声を上げ出てくる移送者達を選別の列に誘導している。牧羊犬に追い立てられる羊のように、人々はそれぞれの列に流れていった。

「女はこっちだ、男はあっち。さっさとしろ! 立ち止まるな!」

 張り上げた声に促されるようにニコの母はレーナの手を引き、女性ばかりが並んでいる列へ向かった。何度も不安そうにニコの方を振り返り、ニコも同様になかなかその場を離れようとしない。やがて母娘がひとつの列に加わったのを見届けようやくニコも男性用の列の最後尾についた。それを見計らってユリウスは動き出した。

 ニコが並んだ列の先頭へ行き、選別作業をしている職員に声をかける。

「おい、向こうで人手が足りないらしい。呼ばれているぞ」

「え?」

 選別の手を止めた男はユリウスに怪訝な表情を向けた。幸い階級章は彼の立場がユリウスより低いことを示している。この男はたとえユリウスの指示をいぶかしんだとしても、反抗することはできない。

「向こうの手が足りないから来いと呼ばれているんだ。ここは俺が引き受ける」

「……え、でも。あの、どこで何を」

「行けばわかる。急げ」

 不審そうな目でユリウスを眺めた男は案の定、階級章が目に入るなり反論を止め、ユリウスが示す方向へ駆けだした。そこでユリウスは男に替わって選別作業をはじめた。

 右に、左に、指を動かす度に目の前の列からひとりずつ人間が消えていく。そして、その分だけニコがユリウスに近づいてくる。

 ニコと対面するのは四年前、冷たい冬の夜にユリウスの家の庭で別れて以来だ。しかし今はニコに気づかれたくない――こんな自分を見られたくない。

 ユリウスはずいぶん背が伸びた。厳しい軍事訓練のおかげで体格もたくましくなり姿勢や身のこなしも変わっただろう。選別作業では声を出す必要もないから、帽子を深く被ってすばやくやれば、ニコからはこれが幼なじみであると気づかれずにすむのではないか、それはユリウスにとって最後の希望だった。

 ここでは知らない人間の振りで何食わぬ顔をしてニコを救い、後でもう少しどうにかした方法で再会することはできないだろうか。少しでもニコに失望されず、軽蔑されずにすむような方法が、どこかにあるのではないか。この期に及んでまだユリウスはそんな甘ったれた考えを捨てきれずにいる。

 ひとり、またひとりと選別を進める。こいつは働ける。こいつは無理だろう。右へ左へと指を動かす。そしてついにニコの順番がやってくる。

 それまでの人々と同じように、ニコはユリウスの前に立つと顔色がきちんと判別できるよう帽子を取った。顔を見たい。こんな近くにいるのだから、あの茶色い優しい瞳をのぞき込み、抱きしめ、無事を確かめたい。焼けるような欲望を身の内に感じながら、顔を見られないよう帽子を深くかぶったままユリウスは素早く指を左側に向け、ニコに左側の「労働可能」の列に入るよう指示した。

 指の動きを見て、ニコは黙って従った。目の前に立つ親衛隊の士官がユリウスであると気づいた様子はなかった。

 そこで気を抜いたのがいけなかった。左側に向けて歩き出したニコの、せめて横顔でも後ろ姿でもはっきりと見たいという欲望に抗えずにユリウスは思わず顔を上げた。

 柔らかかった茶色い髪は汚れてぼさぼさになっている。白い肌は不健康にますます青白い。身長も体格も年齢にしては頼りなく、大事な成長期にニコが十分な栄養をとれていなかったことを想像させた。

 そのとき、ニコがふと後ろを振り返った。茶色い、優しい目。今は少しうつろで疲れ悲しそうに見える瞳がユリウスの姿を正面からとらえ――凍りついた。

 しまった、と思うがもう遅い。どさっと音がしてニコが手からカバンを落とし列整理をしていた職員に怒鳴られる。真っ青な顔のままニコはユリウスに背を向け列に並び直す。その背中は小刻みに震えているようだった。

「おい、どうしたそっち。列が進んでないぞ」

 背後から罵声に近い言葉が投げられ、ユリウスは再び列の選別をはじめるしかなかった。右、左。こいつは働けるから、今のところ生かしてやる。こいつは体が弱っているようだから、今すぐガス室送り。

 ニコは今、俺の姿を見ているのだろうか。ひとり右側の列に送る度にニコから責められているようないたたまれない気持ちになりながらユリウスはその日一日で、おそらくは百人を下らない人間を死へと送り込んだ。

 永遠に続くように思えた仕事を終え宿舎に戻ったユリウスは便所で激しく嘔吐して、夕食もとらないままベッドに潜りこんだ。