62. 第4章|1943年・アウシュヴィッツ

 ニコはその日、四年近くを過ごしたクラクフの街を離れた。

 なかばイツハクを脅すように書類を改ざんさせたのでアウシュヴィッツ行きの列車に乗りこむのは最後の方になってしまった。

 別れ際、イツハクはニコの耳元でささやいた。

「気をつけろ。あそこでは少しでも弱っている姿を見せたら死ぬぞ」

 小さくうなずくニコは、それでも構わないと思っていた。アウシュヴィッツの環境が悪くプワシュフよりも死に近い場所であるとしても、それでも母と妹と一緒にいたい。兄と父を失い、これ以上家族と離ればなれになるよりは母や妹と同じ場所で死ぬ方がまだましだ。しかしそんな思いや「死」という言葉を口にしてしまえば母が心配することはわかっているので、ニコはただ黙って母と妹に手を貸しながら列車に乗りこんだ。

 身動きをとるにも苦労するほどぎゅうぎゅう詰めで、まるで家畜を運搬する貨車に乗せられたかのようだった。いや、実際ナチスは自分たちを家畜程度に思っているのだろう。働けるうちこそ最低限の住処と餌は与えてもらえるが動けなくなったら見捨てられる。暴れでもしようものなら、即時つぶされる。ゲットーでも、反乱を計画したとか指示に従わないとか、そういった理由で人が絞首刑に処されるのを見たことはある。収容所の状況はきっともっと悪いに違いない。

「収容所に入るときには身ぐるみはがれるらしいぞ」

 列車の中で誰かがそんなことを言い出すと、とたんにちょっとした騒ぎになる。これまでも散々財産を取りあげられ、そんな中でもわずかな金や貴金属を守り通した人々は存在する。それ以外にも例えば家族の写真や思い出の品なども、持ち主にとってはかけがえのない大切なものだ。

 服の縫い目に隠しておけばいいとか靴底にしのばせればいいとか、人々はできる限りの知恵を伝え合う。中には金の粒や宝石を飲み込んでしまう者もいた。衛生的には好ましくないが、硬い宝石は消化されないから後日排泄物から取り出せば良い。ある意味では一番安全な方法だった。

「母さん、何かある?」

 ニコが訊ねると母は小さく首を振った。一家にはもう金品は残っていない。母は結婚指輪すら既に食料と替えてしまっていた。

「隠すようなものはないわ。家族写真なんて彼らには何の価値もないから、取り上げはしないでしょう」

 ニコ自身も金になるようなものなど何ひとつ持っていない。あえて大切なものといえば、レーナを経由して受け取ったユリウスからの「迎えにいく」というあのメモひとつ。ニコは今もあれを後生大事に、捨てられずにいた。

 あんな紙切れに、ただの子どもの約束に何の意味もないことなどニコはもう十分理解している。ハンブルクを離れた当初こそ、本当にユリウスが助けに来てくれるのではないかと夢のようなことを考えていたが、日が経つにつれてそれが現実的な考えではないことを思い知った。だが、そんなことは百も承知でニコは今もこの手紙を捨てることができない。

 自分が普通のドイツ人だった頃。平和で幸せだった時代と今の自分を繋ぐ唯一の糸がユリウスで、あのメモであるような気がしていた。あの手紙がある限りニコは、自分の人生はずっと孤独だったわけでも辛いことばかりでもなかったのだと思うことができた。

 ニコの革靴は壊れかけて靴底がぱこぱこと部分的に浮いている。その隙間を指で開き、ニコはそっとあの手紙を押しこんだ。

 クラクフとアウシュヴィッツは近いので、あまり長い時間列車に乗らずに済んだのは幸いだった。移送距離の長い人々はあんなぎゅうぎゅう詰めでトイレもないような車両に何日も揺られているのだろうか。それだけで死人が出てしまうに違いない。

 やがて誰かが「おい、見えてきたぞ」と言い、小さな車窓に人々が殺到する。押しつぶされそうになる妹を守ろうと、ニコは必死にレーナの上に覆いかぶさった。そして間もなく、列車は停止した。

 列車の外で待っているのは自由でも楽園でもなく強制収容所。それでも息苦しいほど過密状態の車内で疲れ果てた人々は、新鮮な空気と十分なスペースを求め先を争って車外へ出て行った。ニコと母親、そしてレーナは決して急いでいたわけではないが、後ろから来る人々の圧力に押されてどんどん入り口の側に流されていく。離ればなれにならないようにニコがレーナの手を握ると、妹もしっかりとニコの手を握り返してきた。

 車両から降りると、目の前には広いプラットフォームと、よくもこの列車にこんなにも多くの人が乗っていたと驚くほどの人、人、人。ばらばらと降り立つ人々は、収容所職員の怒鳴り声に押されるようにしてどんどん列に振り分けられていく。

「男はこっち、女はこっち。さっさと並べ、立ち止まるな」

 大きな声を耳にすると、手を繋いだままのレーナが心配そうに顔を上げる。レーナのもう一方の手を握っている母も落ち着かない表情でニコを見た。

「お兄ちゃんは別なの?」

「最初の検査はね。きっとまた中で会えるよ」

 その言葉には何の根拠もない。ニコだって、ここで男女バラバラに振り分けられることなど今この瞬間に知った。だがここで妹に余計な不安を抱かせてはいけないから落ち着いた振りをしてレーナに笑って見せた。それから同じように母親にも笑いかけ「大丈夫、また後でね」と言った。

 強がってみせてはいるが、妹の手を離すのは身を切るように辛い。レーナを不安にさせてはいけない。でも何よりニコ自身が不安に押しつぶされそうで、ここで柔らかい妹の手を離してしまうことは怖くてしかたなかった。

「おい、そこ、何やってる。立ち止まるな!」

 再び大声が響き、それはおそらく自分たちに向けられたものだった。ニコは辛さをこらえてレーナの手を離し、一度だけ柔らかい髪を撫でた。

「また後でね、レーナ」

「またね、お兄ちゃん」

「ニコ、気をつけるのよ」

 そして母と妹と離ればなれになったニコは、近くにあった列の最後尾に並んだ。列についてからもどうにも名残惜しく、遠ざかっていく母とレーナをずっと目線で追っていたが、ここにはあまりに人が多く、そのうち二人は人波に紛れて見えなくなってしまった。

 列はじわじわと進んでいく。どうやら先頭まで行くと、そこで何らかの審査をされ、右と左どちらかの列に振り分けられるようだ。見たところニコから見て右側のグループのほうが、若く健康そうな男が多い。もし左の列に振り分けられたら、労働不能と思われより劣悪な環境に放り込まれるのかもしれない。ニコは少しでも自分を健康に力強く見せようとまっすぐ立って背筋を伸ばした。

 やがてニコの順番がやってくる。ユダヤ人の行列を前に素早く人を振り分けているのは親衛隊の褐色の制服を着た男だ。帽子を目深に被っているので顔はわからないが、まだ若そうだ。痩せて貧相なニコとは違って、背が高くしっかりとした体格をした男は凛々しい制服に身を包み自信と威厳に満ちているように映った。そして冷酷に、家畜を仕分けるように自分たちを右に左に振り分けていくのだ。

 この男も、兄を連れ去ったゲシュタポや父と叔父を連れ去った親衛隊員と変わらない。冷酷で残酷で、仕事だからと言って人をひどく扱えるような人間だ。そう思うとふつふつと反抗心のような気持ちが湧いてきて、ニコはできるだけ堂々と男の前に立ち、にらむような目を向けた。だが、うつむき気味の男はニコの些細なプライドになど一切興味を示さず、素早く指先をニコから見て右側に向けた。

 列を移るとき、母と妹はどうなったのかが気になって女性側の列を見ようとニコは少しだけ振り返った。ちょうど同じ瞬間に、つい今しがたニコを右の列に振り分けた親衛隊の男が帽子のつばを軽く持ち上げてニコの方に目を向ける。

 それまで深く被られた制帽に隠れて見えなかった緑色の目と、ニコの茶色い目。視線が正面からぶつかり、ニコがぎょっとした顔をするのに気づくと相手は緑色の目を気まずそうにそらし、再び選別作業に戻った。

 ニコは、足下が、自分を支える世界そのものが崩れていくような感覚に襲われていた。

 ――ユリウスだ。

 背が伸びて、大人びた顔つきや体格になっている。しかしニコがユリウスを見間違えるはずはない。あの冷酷な親衛隊員は、ニコにとってたったひとり残された友人で、過去の幸せな日々とのつながりで、いつの日かこの辛い生活から助け出してくれるはずのユリウスだったのだ。

 力が抜けて、手に持っていたカバンが地面に落ちる。何をやってるんだ、さっさと並べ。耳元で響く怒鳴り声にはっとしてあわてて荷物を拾うが、激しい鼓動は収まらない。膝から下がガクガクと震え、立っていることすら辛い。

「おい、しっかりしろ」

 隣に並んでいるユダヤ人の男がニコの腕を引く。どうやら周囲からは恐怖で腰が抜けそうだと思われているようだ。しかし今のニコの頭にあるのはまったく別のこと、別の衝撃だった。

 今見たのは何だ? 何かの間違いか、人違いじゃないのか。だって、ユリウスが親衛隊に入るはずはない。ユリウスがあんな格好で、こんな場所にいるはずはない。

 しかし、いくら心の中で否定しようとしたところで、視線をそらしたときに気まずそうな表情を浮かべたあれがユリウスで、しかもニコの存在に気づいていたことは明らかだった。

 ニコを迎えに来てくれるはずのヒーローは、たった四年の間にニコを捕らえ虐げ殺す側の人間になっていた。

タイトルとURLをコピーしました