63. 第4章|1943年・アウシュヴィッツ

 ユリウスが親衛隊員になっていた。

 他の子どもたちがニコのユダヤの血筋をからかえば殴りつけに行き、父親にユダヤ人との付き合いを控えるように言われても決してニコを見捨てない、かつてのユリウスはそんな少年だった。他の誰より正義感にあふれていたはずの彼が一体なぜ、どうして。頭の中で疑問だけがぐるぐると回る。ニコがハンブルクを離れてからの四年間に、一体幼馴染の身に何があったのだろう。

 呆然としたニコが次に導かれたのは少し開けた場所だった。途中、反対方向へ連れて行かれる女性たちの一群の中に母とレーナの姿を見た。どこに行くのだろう。次はいつ会えるのだろう。ついさっきまで一緒にいた家族が遠く感じられてニコはひどく心細くなった。

 案内された場所で、ニコを含む労働可能な移送者男性のグループは全員服も靴も脱いで裸になるように言われた。男たちは顔を見合わせるがここで命令を拒む選択肢はない。ひとり、二人と服を脱ぎはじめるとやがて全員がそれにならう。ニコも屈辱的な思いで言われたとおりにした。

 順番に全身の毛を剃られた。まるで羊の毛刈りのように、それは完全に家畜の扱いだった。椅子に座らされ、まずは伸び過ぎた髪をハサミでざくざくと切られる。茶色い髪の束が次々地面に落ちていくのを見てニコはどうしようもなく悲しい気持ちになった。髪にこだわりや思い入れを感じたことは一度もなく、むしろ伸びるたび切らなければいけないことを鬱陶しく思うくらいだったが、こうして自分の意志に反して切られてしまうことには無性に傷ついた。ある程度短くなったところで一気にバリカンで刈り上げられた。

 ニコはぼんやりと、少なくともユリウスに出くわしたのがあそこで良かったと思った。指で右左と仕分けられるくらい、今のこの状況と比べればまだましだ。こんなみじめな姿をユリウスに見られたら絶望のあまり舌を噛んで死にたくなったかもしれない。

 移送時に着ていた洋服はそのまま奪い取られ、代わりに縦縞のパジャマのような服を与えられた。薄汚れていてところどころに継ぎが当たっているそれは一見して新品ではない。しかもなんの考慮もなく適当に与えられたため上下サイズがバラバラで、どちらもニコには大きすぎる。周囲のユダヤ人達で交換してようやく多少ましなものが手に入った。配られた服には黄色い六芒星の布が縫い付けてあった。

 着るものがあるだけ寒い三月の空の下に裸でいるよりはましだが、袖を通しながらニコはその服の前の所有者について考えずにはいられない。これは一体誰のもので、その人物はどうしてこの服を手放すことになったのだろう。理由は簡単に思い浮かぶ。ただ、信じたくないだけだ。

 靴だけは、もともと所有していたものをそのまま履き続けることが許された。囚人服と同じ縞模様の布地でできた帽子をかぶると頭の寒さは少しはましになったが、全員揃いの服を着て帽子を被った男の集団ははっきり言って異様な眺めだ。そしてニコ自身も紛れもないその集団の一員なのだった。

 毛刈りと着替えの後は事務室のような場所に連れて行かれた。ひとりひとり職員から尋問を受けて個人票が作られる。名前や年齢、出身地、職業などを一通り質問された後で、最後にニコの個人票の上には番号を記したスタンプが押された。桁数はすでに六桁に達していて、一から順に被収容者に振られているのだとすれば、ここにはすでに数十万単位の人がやってきていることになる。

 その次に連れて行かれた部屋で上着の左袖をめくられ、むき出しになった前腕部に見たことのない機械を使って、さっき個人票に記されたのと同じ番号が刻印された。小さな針の並んだ機械が腕に落ちてきた瞬間ニコは痛みに顔をしかめた。機械が外れると、腕には黒い数字の列が並んでいて、インクに混ざってそこから赤い血がにじみ出ていた。一生消えない囚人の印。刈った髪は時間が経てば生えてくるが、腕に刻み込まれた番号はニコが死ぬまで消えないだろう。

 人数が多かったのであちこちで列に並ばされ、待たされ、入所に伴う最初の手続きが終わった頃にはもう夜になっていた。

「今日はこれで終わりだ。明日からは仕事をすることになる」

 さっきのユリウスと同じ褐色の親衛隊の制服を着た男はたったそれだけを告げて去った。続いて囚人服を着てはいるが、ユダヤ人とは異なるバッジを付けた男が数人現れ、新入り達を数人ずつの小さなグループに分けると、それぞれの宿舎に案内するのだと威圧的な声で言い放った。

 ニコとは別のグループの中年のユダヤ人が、親衛隊員の姿が見えなくなった瞬間、被収容者同士の気安さで案内役に話しかけた。

「来るなりさんざんな歓迎を受けたよ、兄弟。ところで夕飯はもらえるのか?」

 だが、その質問に言葉での答えは返ってこなかった。案内役の男はいきなり腰に持っていた木の棒を握り、中年男の横っ面を思い切り殴り飛ばした。中年男はふっとび地面に倒れこみ、信じられないと言いたげな表情で案内役を見上げた。

「無駄口を叩くな。俺は貴様らの班の管理を任されている。逆らったら命はないぞ」

 ざわついていた新入りユダヤ人たちは、その言葉に静まりかえった。後は言葉もなくただ案内の後を着いて歩き、しばらくしてほとんどバラックのような小屋に押し込まれた。

 暗闇に目が馴染むまで何も見えなかった。それでも「誰かがそこにいる」のはわかった。いや「誰か」というよりは「たくさんの人」。無数の息づかいや衣擦れの音、ささやく声が部屋に満ちていた。

「新入りか?」

 やがて声がして、誰ともなく「そうだ」と答える。目が慣れるにつれて、そこが異常な場所であることがわかった。細い通路の左右にびっしりと三段ベッドが並んでいる。それも普通ならひとりが寝るスペースを横向きに使って三人から四人が横になっているのだから、決して広くはない空間が気持ち悪いほどたくさんの人で埋まっている。これと比べればゲットーの寒くて狭い部屋すらまだ高級に思えた。

 多くは新入り達に興味を示すことなく寝ているが、中には好奇心旺盛な様子でこちらに話しかけてくる者もいる。やがて一番低い段のベッドにいたひとりの男がのそのそと起き出して、こちらを向いて座るとニコに話しかけてきた。

「やあ、地獄へようこそ。今日の移送者だな。どこから来たんだ?」

「クラクフゲットーです」

「近くだな。君は出身もポーランドか?」

「いえ。ドイツのハンブルクです……」

 男はマックスと名乗った。三十代で、ポーランド系ユダヤ人の元教師。他の収容所を経由してアウシュヴィッツに移送されもう二ヶ月ほど経つのだという。

 マックスは周囲の男達よりは比較的健康で明るく、面倒見も良さそうだった。周囲に少し詰めるように声をかけ寝台にニコひとり分のスペースを作ってくれた。ひしめく人に圧倒され自分の入る場所はないだろうと思っていたので、少なくとも夜眠るための場所を得られたことにはほっとした。

「ここでは毎日こんな感じで、寝る場所をさがすのも一苦労だ。定位置なんかないから、大事な物は常に身に付けておかないと誰かにかすめ取られるぜ。食器はベルトにぶら下げて、寝るときは靴を枕にするんだ」

 それからマックスは、ここで生活する上での基本的な注意点をニコに語った。

 案内人の男が妙に偉そうだったのは、被収容者の中にもヒエラルキーがあり、ドイツ民族はそれだけで特権階級にあるから。一部の被収容者は工場や土木工事ではない、収容所の維持管理の補助的な仕事を与えられていて、その仕事の中に他の被収容者を監視する仕事が含まれている。彼らはいかにして職員の点を稼ぐかしか考えていないから職員より厳しく暴力的な者も多く要注意なのだという。ゲットーにもユダヤ人警察という自警団があり、彼らの中には同胞とは思えないくらい横暴な者がいた。きっと同じようなものなのだろう。

 一通り話すとマックスはニコにとりあえず寝るように言った。

「明日からはきつい労働が待っている。体力勝負だ」

 夕食は終わっていて今夜はもう何も食べられないが、だからといって明日以降の食事にも期待しない方がいいと付け加えた言葉にニコはうなずいた。

 靴を脱いでマックスの助言通り頭の下にしく。左右の人間とぎゅうぎゅうに触れ合っている状況は落ちつかず、なかなか眠れそうにない。

 ふと思い立って、ニコはマックスに訊ねた。

「あの、女性は別の区域にいるんですか?」

「女性? 君は家族が一緒だったのか?」

「はい、母と妹が。よく見えなかったけど、僕らとは反対の方向に連れて行かれるのが見えたんです……」

 するとマックスは小さく息を吐いて、指を真上に向けた。

「気の毒だが、君のお袋さんと妹は、あっちだ」

「あっち?」

 意味がわからずニコは訊き返す。マックスが指す方向にはベッドの上段があるだけだ。それに「気の毒」とはどういう意味なのだろう。そして渋々といった調子でマックスがつぶやいた次の言葉に、ニコはようやく母と妹の運命を知った。

「もう煙になってるよ」

 マックスから、ここでは到着後の振り分けで労働不能と見なされた者はすぐさまガス室に送り皆殺しにされるのだと知らされ、ニコの頭は真っ白になった。

 もはや涙も出なかった。兄を連れて行かれ、父を連れて行かれ、そしてニコは今日母親と妹を失った。家族と一緒にいたくてわざわざ書類を改ざんさせてアウシュヴィッツに来ることを選んだのに――それはあまりに残酷な仕打ちだった。

 あそこで手を離すべきじゃなかった。例え銃殺されたって一緒にいれば良かった。せめて最後に抱きしめてもっと話をしておくべきだった。たった半日前までは一緒だったのに、あの優しい母親とも愛らしく賢い妹とも、もう二度と会えないなんてとても信じることができない。

 目を閉じると失った家族の顔が、家族との思い出が次々と浮かんできてニコの心を苦しくさせた。父、母、レオ、レーナ……そして。家族の笑顔の最後に重なるようにして、ぶっきらぼうではにかみ屋の少年の顔が浮かんでくる。それは十四歳の、ニコの大切な幼馴染だったユリウスで、これまではその顔を思い出すだけでほんの少しだけ勇気づけられてきた。しかし幼馴染の少年の姿は今日出会った親衛隊員の青年の姿に上書きされ、消える。

 家族をすべてなくし大切な友人も失った。ニコは、自分がとうとう本当にひとりきりになってしまったことを知った。