65. 第4章|1943年・アウシュヴィッツ

 ここに来て何日が経っただろう。時計もない。カレンダーもない。三日なのか三ヶ月なのか、はたまた三年なのかもわからない。そうつぶやくとマックスは「まだたったの一週間だ、ニコ」と言ってぽんと肩を叩いた。

 一日の仕事から解放された男たちはぞろぞろと夕食配給の列に並びはじめる。全員が同じ縦縞の服に帽子の人間の群れに最初はぞっとしたが、すぐに見慣れて何も感じなくなった。配られるのは薄いスープと小さなパンの塊。ほぼ毎日同じメニューだが、たまに多少のラードの塊やソーセージのようなものがつくこともあるのだという。ニコはまだお目にかかったことはない。

 食事担当は配膳のときに手心を加えるので、友人や自分にとって利益となる相手にだけ鍋の底をさらって多少の豆や野菜が入るようにしてやる。ニコのような何の権力もない新入りが得られるのはほんの少し塩味がついたお湯のような上澄みだけだ。だが、そんなスープとパンすら疲れ果てたニコには食べるのが辛い。空腹はひどくて体がふらつき、頭も終始ぼうっとしている。なのに食べ物が胃に入ると気分が悪く吐き気がしてどうしようもないのだ。

「おいニコ、それくらいちゃんと食え」

 マックスに言われ、ニコは小さくうなずく。被収容者の側も日々生き残ることに必死なので、気を抜けばこんな少量の食料すらすぐに掠め取られてしまう。マックスはさっさと自分の分の食事を腹に収めると、ニコの分が取られないよう周囲に目を配っている。

「マックス、君が食べるならあげるよ。僕はどうも胃が」

「だめだ、自分の分はちゃんと食え。今日も何度もふらついてただろう。倒れたらおしまいだぞ」

「うん……」

 その言葉に押されるように、ニコは固くぱさついたパンをなんとか喉の奥に押し込んだ。

 親切なマックスは何かとニコの面倒を見てくれる。移送初日に母と妹がガス室行きになってしまい、たったひとりきりになったニコの身の上に同情してくれているようだ。そのマックスはといえば、学校の同僚だった妻は同じアウシュヴィッツの女性たちが収容される区画にいるのだという。ただし、結核を患っていた弟とまだ三歳だった息子は到着時にガス室へ送られた。

 今のマックスの希望は、妻とともに生き延びることだけなのだろう。再び会いたいと願う相手もいないニコにとって、妻という希望があり、再会のために何としてでも生き抜こうという気力を持っているマックスはひたすら眩しく見える。

 翌朝、「コーヒー」と呼ばれるが決してコーヒーではない褐色の液体が配られる。朝食はこれだけだ。不気味な飲み物ではあるが、水の量すら限られている収容所生活では無駄にできるものではない。皆、争うようにして飲み干した。

 点呼の後、ニコは鉄道敷設の現場行きのグループに入れられた。誰にどう頼んだのかわからないが、マックスがニコの労働初日からずっと自分と同じ現場で作業できるよう手を回してくれたのだ。

「最初のうちはどうせ全員野外のきつい仕事に回される。だったら、知り合いにフォローしてもらえた方がましだろう」

 その言葉どおり、マックスはニコを何かと助けてくれる。以前からマックスを知っているという被収容者に「死んだ弟はおまえさんと同じくらいの年齢だったみたいだよ」と聞いて、ニコはマックスの親切の意味を察した。

 現場まで歩いて数キロ。寒風の中の移動だけでも辛いが、着いた先では資材置き場と現場の間をひたすら重い木材を持って往復しなければならない。足元は雪が解けた後の重い泥で、一歩踏み出すだけでも普通に歩く何倍もの力が必要だ。指先はかじかむし、重い荷物を抱えるうちに腕が痛み脚も辛くなってくる。しかし作業のスピードが遅いと見張りから容赦なく打たれる。打たれればその痛みでなおさら動くのが辛くなってしまう。

 幸いニコはマックスと二人一組で作業を行なっていたので、ずいぶん救われた。マックスは自分の方に重さが偏るような持ち方をして慣れていないニコの負担を軽くし、殴られない程度のスピードで作業を続けられるよう叱咤激励しながらニコをリードした。

 不意に目の前で金属部品を運んでいた初老の男が倒れた。大きな音に振り向いた見張り役の男が「何をしている!」と叫び、倒れた男を思い切り蹴りつける。しかし、どこか具合でも悪いのか初老の男は立ち上がれない。

「おい、仮病か。起きろと言っているだろう」

 続けざまに何度も蹴られた男はなんとかして起き上がろうとするが、膝をついたところで心臓のあたりを押さえながらよろめき、再び泥の中に倒れこむ。妙にゆっくりとした、パントマイム映画のように滑稽にも見える動きは見張りの怒りに油を注いだようだった。男はちっとひとつ舌打ちをすると腰につけたピストルを抜き、ためらうこともなく撃った。

 一発、二発、三発、静かな場所に銃声が響いた。初老の男は今度こそ泥の中に倒れ、動かなくなった。

 立ち止まると目をつけられる。何も見ていないかのようにその横を通り過ぎようとしたマックスとニコに、ピストルをしまいながら男は言った。

「おい、その棒切れはいいからこいつを埋めてこい。目障りだ」

 ニコがどう答えていいのかわからずにいると、マックスがすぐに「はい」と答えて木材を地面に下ろした。目でニコに合図し、自分と同じようにしろと言ってくる。一発は外れたのだろう。初老の男は眉間と、喉のあたりに一発ずつ銃弾を受けていた、おそるおそる体を起こそうとすると、喉に空いた穴からぐうっと呻き声のような音が漏れて、ニコは驚いてその体を取り落としてしまう。

「何してる。さっさとしろ!」

「すみません!」

 再び飛んで来た怒号に、マックスが大きな声で謝罪する。

「ニコ、落ち着け。もう完全に死んでる。気管に残っていた空気が漏れただけだ」

「う、うん……」

「急がないと、俺たちも殺されかねないぞ」

 しかし銃殺された人間を身近で見るのは初めてで、銃弾でぽっかりと空いた穴はひどく不気味だし、ぐっと見開いた目がこっちを見つめているようでニコの脚はガクガクと震える。マックスはニコの背中を押し「顔を見るな。君は脚を持って先に進め」と言うと自らが死体の頭側に立ち上半身を持ち上げた。

 資材置き場の近くにあったショベルで地面を掘り死んだ男を埋めた。墓標もない、墓穴ですらない。ここで死ねばこうなる。しかし泥を掘った穴に投げ込まれても、土をかけられてもピクリとも表情の動かない死体を見て、ニコの心の奥には不思議なことに、うらやましさに似た感情が生まれようとしていた。

 ――死ねば終わる。

 それは当たり前の答えだった。ただ子どもの頃から自死は罪だと教えられてきたし、少し前までのニコには生き延びたい理由や希望があるからどちらかといえば死にたくないという気持ちが勝っていた。しかし今となっては生きる理由を探す方が難しいくらいだ。

 極めて楽観的な想定のもとにドイツが戦争に負けて自分が生き残ったとして、その先に一体何があるというのだろう。父もいない、兄もいない、母も妹もいない。故郷に戻っても家はないだろう。助けてくれた大叔父と大叔母も死に、天涯孤独の自分に明るい未来などとても望めそうにない。

 帰り道、やたらと有刺鉄線が気になった。収容棟の建ち並ぶエリアをぐるっと囲んでいる有刺鉄線には脱走防止のために電流が流れていて触れると死ぬと言われている。実際ところどころ鉄線の近くに、ドクロマークとともに英語とドイツ語で「止まれ」と書かれた札が立っている。

 ニコは実際に鉄線に触れた人間を見たことがないので、本当に死ぬほどの電流が流れているのかはわからない。感電して死ぬというのがどういう状態で、どのくらい苦しくて、どのくらい確実に死ねるものなのかもよくわからない。

 解散された後、ぼんやりと柵の近くに歩み寄り一見ただの逃走防止柵にしか見えないそれをじっと眺める。これに触れるだけで何もかもを終えられるなら――それはひどく甘い誘惑だった。ニコは蜜に誘われる虫のように、そろそろと腕を上げて鉄線に向けてそっと指先を伸ばした。

「そこ、何している!」

 瞬間、背後からドイツ語で厳しい叱責の声が飛んできた。びくりとして腕を引っ込めたニコは振り返る。看守が恐ろしい顔をしてニコの方に大股で近づいてくるところだった。