66. 第4章|1943年・アウシュヴィッツ

「ごめんなさい、何でもないんです。ちょっとぼんやりしていて。すぐに自分の収容棟に戻ります」

 死にたいなどと思っていたのに、いざ叱責されれば恐怖のあまり言い訳を口にしてしまう。ニコは自分の弱さが情けなくてたまらない。しかし険しい顔の男は足早に立ち去ろうとするニコを簡単には行かせてくれない。襟首をつかんで捕まえると強い口調で問い詰めた。

「何でもない、はないだろう。柵を眺めて脱走でも考えていたのか?」

「違います。本当に、そんなんじゃないんです」

 脱走しようなどとは、ちらりとも考えてもいなかった。ただここで「有刺鉄線に突っ込んだら死ねるのではないかと考えていた」と正直に口にすることが決してプラスにならないことくらいはニコにもわかる。

 看守は完全にニコが脱走しようとしていたのだと決めつけているようだった。

「知っているだろうが、脱走は連帯責任だ。おまえが脱走したら同じ班の人間は全員死刑になるんだからな。腕を出せ、番号を控える」

 ニコはおずおずと左袖をめくろうとした。そのとき、騒ぎに気づいたのかマックスが駆け寄ってきて看守に向かって頭を下げる。

「すみません、こいつが何かしましたか? 新入りなのでまだ不慣れで。失礼があったなら謝ります」

「何だ、おまえは」

「同じ班の者です。ルール違反があったならよく言い聞かせますから」

「まさか集団で何か企んでいるんじゃないだろうな」

 マックスの介入は今回に限っては事態を悪化させるだけだった。看守はむしろ脱走や反乱への疑いを深め、二人の腕の番号を控えた上でねちねちと絡んできた。ここでは看守に悪印象を持たれると仕事内容をよりひどいものに変えられたり、理由をつけて拷問部屋に連れて行かれたりとろくなことはない。もちろん〈選別〉の対象にされやすくもなる。ニコはまずいことになったと思った。自分ひとりならともかく、マックスを巻き込んでしまうのは本意ではない。

 だが、そこに割り込んできたのは思いも寄らない人物だった。

「おい、何を揉めている」

 看守と比べるとはるかに仕立てのいい制服を身につけて、堂々とした態度で歩み寄ってきたのはなんとユリウスだった。ニコは驚きと嫌悪、そして今の自分の惨めな姿を晒すことへの羞恥から思わず目をそらす。

 収容棟の管理監督業務を実際に担うのは下級の親衛隊員や彼らの監督に置かれた囚人たちばかりなので、ここで将校の姿を見ることはほとんどない。ニコとは別の意味で看守とマックスも驚いているようだった。

「え、あの」

「シュナイダーだ。幕僚部のユリウス・シュナイダー准尉」

 ユリウスの言葉は密かにニコを傷つけた。彼の声はユリウスの声そのものだし、何より自らユリウス・シュナイダーであると名乗った。心のどこかではまだ少しだけ人違いや他人の空似に期待をしていた、それすらあっさりと打ち砕かれる。銃殺されようが、このまま走って逃げ出してしまいたい欲求すら湧きあがる。

「じゅ、准尉殿。こいつが柵のあたりで怪しく外の様子をうかがっており、おそらく脱走を企てていたのだと」

 看守があわてたようにそう言うと、ユリウスは黙ってニコを頭の先からつま先まで眺めた。ニコはできるだけユリウスの顔を見ないですむようにひたすら足元の地面を見つめた。

 ユリウスは一見穏やかな様子で、看守に向かい語りかける。

「脱走とは穏やかじゃないな」

「はい、ですのでこれから尋問を……」

「だが、ただ外を見ていただけで、実際に逃げようとしていたわけではないのだろう」

 その言葉に批判的な響きが混ざっているのは、ニコにすらわかる。看守の顔色がさっと変わり、そこには動揺とちょっとした反感が浮かんだ。

「そ、それは……。しかしお言葉ですが准尉殿、これは労働管理部の問題です。幕僚部の准尉殿がなぜ」

「鉄道敷設も施設増設もスケジュールからかなり遅れているし、資材購入の量に対して生産性が著しく低い。労働力の配分や管理に原因があるのではないかと幕僚部で問題になっているから、現場の様子も少し確認しようと思ったんだ」

 ユリウスがもっともらしい理屈を並べると看守は押し黙った。親衛隊というのも徹底的な上下社会なのだろう。自分と同じ年齢のユリウスが堂々とした立ち居振る舞いで年上であろう看守を諌める姿は、もしこういう場所でこういう状況でなければ、頼もしくすら感じられたかもしれない。

「脱走者は出すな。しかし、過剰に防衛するがあまりにいらぬ処刑や処罰を行えば権限の逸脱になるぞ」

「は、はい」

 念押しされた看守は直立不動で敬礼をした。それで騒ぎは収まった――ただし、ニコ以外にとって。

「こいつは俺の方で話を聞き、必要があれば処分を決める。おまえたちは行け」

 こいつ、というのが自分を指していることに気づきニコの全身はぎくりと慄いた。看守はこれ以上ユリウスにプレッシャーをかけられるのが耐え難いのか足早にその場を立ち去り、マックスは不安そうにニコとユリウスに視線を走らせる。

「ニコ……」

 名前を呼んだマックスを、ユリウスがにらみつける。

「聞こえなかったか。行けと言ったんだ」

 凄みのある声に、マックスは心配そうにニコを視線をやってからすごすごと立ち去る。ニコは視線で「大丈夫」と伝えるが、実際のところはこれから何が起こるのか不安で仕方なかった。

 ユリウスはニコに背を向けて歩きはじめる。数メートル進んだところで振り返り、元の場所に立ちすくんだままのニコに向かって「ついてこい」と言い放った。もちろんニコに拒否する権利などない。

 ユリウスの背中を見ながらニコは言われるがまま後をついて行った。改めて見ると、ずいぶん背が伸びて肩幅も背中も広くなった。後ろ姿を見る限り立派な大人の男と言って差し支えないほどで、かつてのユリウスの面影は制帽の下からのぞく明るい鳶色の髪にかろうじて残っている程度だ。

 比べて自分は――背も低く痩せて貧弱な体にダボダボの囚人服を着て、シャワーすらもうずっと浴びていない。ユリウスの姿を見れば見るほど惨めな気持ちが増すばかりだ。

 しばらく歩いて、いつの間にか居住エリアを離れていた。この辺りには小さなバラックがいくつも建ち並んでいて、それらは例えばガス室行きになった人々から脱がせた衣服の一時的な置き場や、その他のちょっとした資材置き場に使われているようだった。

 ユリウスはポケットから鍵を出して小屋の扉を開けた。内部には建物の修繕のための板やレンガと言った資材が雑然と積んであるが、小屋の半分ほどは空きスペースになっている。

 二人きりになるのが嫌で入り口に立ちすくんでいるニコに向かい、先に小屋に入っていたユリウスは振り返り「入って、ドアを閉めろ」と命令した。言われた通りにしようとドアノブを握り、ニコは自分の手がひどく震えていることに気づいた。

「ニコ……」

 ドアが閉まると同時に背後から名前を呼ばれた。四年ぶりに聞く響きにうっかり懐かしさが蘇りそうになるが、振り向いたニコの目の前にいるのは幼馴染ではなく敵の制服を着たナチ青年将校だった。例えその髪の色、その瞳の緑色がどれだけ懐かしく、どれだけ悲しく優しげな色をしていたとしても、それはもうニコの知っているユリウスではないのだ。

「ニコ、怪我はないか。ひどい環境だが……食事は、仕事は……大丈夫か?」

 一歩一歩ユリウスが近づいてきて、それに合わせてニコは一歩一歩後ずさる。しかし狭い小屋の中では逃げられる場所も限られていて、背中が扉にぶつかり、ニコはそれ以上ユリウスの接近を避けることができない。

 ユリウスが手を伸ばす。しかし指先が頰に触れる寸前でニコがその手をはたき落した。

「触るな……」

 絞り出した声には怒りがこもり、気圧されたようにユリウスが手を引っ込める。

 言葉にしたことで何かのたがが外れたのか、悔しさや悲しさや怒りや、どうしようもない感情がせり上がってきてニコは顔を上げる。正面から見るユリウスの顔は、ずいぶん変わったようでも、昔とあまり変わっていないようでもあった。敵のくせに妙に心配そうな目で見つめてくる、それがなおさら気に障った。

 ニコはユリウスの目をぐっとにらみつけ、言った。

「触るな。僕の知っているユリウスは死んだ。君のことなんか知らない」