64. 第4章|1943年・アウシュヴィッツ

 ニコとの思わぬ再会から一夜が明けても、ユリウスの動揺は治まらなかった。

 一日のうちに、あまりにも多くのことが起こりすぎた。想像をはるかに超えた、殺人装置としての収容所の実態。自分自身が移送者の選別を通じて人々をガス室に送る作業に関わってしまったこと。そして、そんな残酷な作業に従事している姿を最も見られたくない相手に知られてしまったこと。たった一晩で心の整理ができるはずなどなかった。

 夕食、朝食と二食を抜いてもユリウスの食欲は戻らず、なんとか出勤はしたものの昼になっても食堂には行かずに執務室でぼんやりとしていた。ちょうど外出から戻ってきたリーゼンフェルト大尉にその姿を見とがめられる。

「どうした、もう音を上げたか?」

 部屋に呼びこまれ、まずそう問われた。リーゼンフェルトはユリウスに椅子を勧めることをせず立ったままにさせる。憮然とした顔で机の前に立つユリウスは、ベルリンで一緒にアウシュヴィッツに行きたいかと意向を確認してきたときにリーゼンフェルトが執拗に「収容所がどういう場所か知っているか」と問い詰めてきたことを思い出していた。

 今になってようやくその意味がわかった。あんな質問をして、その上で何も知らないユリウスの希望を一度は却下した。あれは優しさだったのではないか。ユリウスは重い口を開く。

「大尉はご存じだったんですね、何もかも。だからあのとき、一度は俺がここに来たいと言ったのを却下したんですか」

「……覚悟のできていない人間を連れてきても、使い物にはならんからな」

 大尉は昨日ユリウスが何を見て、何をしたのかについては訊かない。すでにどこからか報告を受けているか、そうでなくとも今のユリウスのひどい顔色を見れば理由はわかってしまうのかもしれない。

 覚悟のできていない人間、確かに自分はそうだった。いくら劣等民族だ社会の敵だと教えこまれても、戦場でもない場所で軍人でもない一般市民を殺すことなど想像したこともなかった。そして、いざ組織の一員としてその一端を担うことが求められたときに、自分がその仕事をやってのけることができるとも思ってはみなかった。

 確かにショックを受けている。そして国や親衛隊そのものへの失望や自分の犯した罪そのもの以上に、ユリウスは――当たり前のこととして指示された場合に、戸惑いながらも簡単に残虐な行為に手を貸すことができた自分自身に驚き恐怖を感じていた。

「だったら他の皆は、覚悟ができているんですか? 俺は、戦争だからもし戦場に出ることがあれば人を殺すことも仕方ないと思って訓練を受けてきたし、ナポラの友人たちもそうだったと思います。でもあれは、〈あれ〉は……やはり戦争とは何かが違っているような気がしました。誰も疑問は持たないのですか?」

 ユリウスの攻撃的な問いかけに、大尉は首を振る。

「どうだろうな。人の内心までは見えない。大体戦場でだって、国のためとか勤めだとか大義名分があるから戦えるわけで、誰だって殺したくも殺されたくもないだろう。〈あれ〉が何かは私にもわからん。ただひとつ確かなのは、この国はもうずいぶん長いこと〈あれ〉に至る道を多くの国民に支持されて歩んできたということだ」

 あれは不穏な時代のはじまり、〈背後からのひと突き〉という言葉を聞いたのはまだユリウスが幼い頃だった。前の戦争はユダヤ人や社会主義者の妨害により敗北したのだという話がまことしやかに語られるのを不思議な思いで受け止めた。

 世の中は少しずつ変わり、公園から締め出され買い物すら不自由になったナタリーがドイツを離れた。やがてニコが学校に通えなくなり、そして――。

 何がいけなかったのか。どこがターニング・ポイントだったのか。そして、今ここで行われていることは本当にドイツ国民の望んでいることなのか。ユリウスにはわからない。鉤十字の腕章をつけてユダヤ人を罵っていた教師だってドイツ人だったし、しかし公共交通機関で座ることを許されないユダヤ人に堂々と椅子を勧めるドイツ人の姿を見たこともある。

「俺は、ナチ党が嫌いだったんです」

 言葉はするりと口からこぼれた。ナポラに入学して以降、人前で党や総統への批判を口にしたことはない。今の自分の立場を考えればこういった言動が処分の対象になりうることも知っている。しかし大尉と自分の二人しかいない部屋で、今だけは正直な気持ちを口にすることが許されるような気がした。

「子どもの頃はヒトラー・ユーゲントに入りたくなくてごねたし、家政婦が――ユダヤ人の女性にとても良くしてもらったので、市民権の制限が厳しくなった頃に彼女がドイツを離れることになったときには、さんざん父親に文句を言いました。あんな政策許されるべきじゃないって……」

「そのおまえが、なぜかナポラに入って、今では親衛隊員というわけか。これも党の青少年教育の勝利だと思っていいのかな?」

 その皮肉じみた物言いにユリウスが少しほおを緩めたのを見て、大尉もうっすら笑ったように見えた。そしてひとつ息を吐いてから、おそらく今一番言いたかったであろうことを告げてくる。

「ユリウス・シュナイダー、おまえがあんなにも総督府にこだわっていた理由は知らないし未来永劫聞こうとも思わない。そして、おまえが本当にここの勤務が耐えがたいと言うならば、上官として異動させる手がないわけではない。もちろん初任地をすぐに投げ出すような隊員がその後どういう扱いを受けるかは覚悟すべきだが」

「……総督府に、こだわっていた理由」

 ユリウスのつぶやきに、大尉はうなずく。

「直訴してまで来たがった目的を果たさずここを去るとして、それで後悔がないかということだ。ただし戦場やそれ以外でも、どうしても環境が合わず心を病んだり最悪自死する兵士を私は過去に何人も見て来た。そうなるくらいなら尻尾を巻いて逃げ帰った方が組織と本人お互いのためだ」

 それだけ言うと、リーゼンフェルトは時計を見て「昼休みも終わりだ、もう行け」とユリウスを解放した。しかしユリウスがドアノブに手をかけたところで背後から再び低い声が聞こえてくる。

「……私の国防軍の若い友人に、クラウス・フォン・シュタウフェンベルクという男がいる。正義感も強ければ気も強い面白い男だよ。国防軍は親衛隊とは風土が違う。おまえはあっちの方が向いていたのかもしれないな」

 ヒトラーの私的組織から国を牛耳るところまで勢力を拡大してきた親衛隊と、正規軍としてのプライドを持つ国防軍は正直関係が良好であるとはいえない。しかし大尉の場合は親衛隊の武装部隊に入る前は国防軍に所属していたこともあり、両方面に顔が効くという話を聞いたことがあった。しかしユリウスはリーゼンフェルトが挙げた人物のことは知らないし、国防軍とも接点がない。唐突で意味のわからない言葉に首をかしげるしかなかった。

「何の話ですか?」

「いや、ただの独り言だよ。それにおまえはあいつほど清廉ではなさそうだ。私利私欲の塊に見える」

 自分自身の深いところを見透かされているような気まずい思いでユリウスは大尉の部屋を出た。席に戻り書類の山から何枚か取り出して午後の仕事に取りかかるが一向に集中できない。

 総督府に固執した理由、そんなの簡単だ。ユリウスはただニコに会いたかった。そして目的は果たされた。ニコとの四年ぶりの再会――よりによって最低最悪のシチュエーションで。凍りついた表情、あれだけでニコが親衛隊の制服に身を包んだユリウスをどう思ったかは想像できる。

 再会への妄想は完全に甘いものだったわけではない。何よりユリウスには、ニコの大切な兄であるレオを死に追いやる原因を作ったという引け目もある。うまく再会できたとしてその件はどうするか。考えるたびユリウスはのらりくらりと自分をごまかして、優しいニコだから許してくれるのではないかとか、最悪の手段ではあるが、黙っていればニコにはわからないのではないかと考えもした。

 そう、ユリウスがユダヤ人を殺したのは昨日が初めてではない。直接的に手を下さなくともプロセスに関わることを罪に数えるのならば、自分はすでにレオを殺している。親衛隊の制服を着る前の自分も、着てからの自分も本質的には何も変わってはいないのかもしれない。大きな違いはただひとつ、ニコに偽ることができなくなっただけだ。

 ユリウスが本当にやりたかったのは何だったろう。ニコに良いところを見せて愛情と信頼を勝ち取りたい? 愛し愛されニコを自分だけのものにしたい? もちろんそれはそうだ。でも、本当に大事なのはニコを守り救うことではなかったのか?

 電気の流れる有刺鉄線に囲まれた区画に立ち並ぶ収容棟の風景が頭に浮かんでくる。昨日の朝見せられた、やせ細って薄着のまま野外労務に駆り出される人々。職員から聞いた「働けなくなったら再び選別されるだけです」という言葉。

 そうだ、昨日のあれでおしまいではない。少なくとも移送時の選別は免れたが、ニコにとってアウシュヴィッツでの日々ははじまったばかりなのだ。そして、これからも様々な危険がニコを襲う。

 だったら今自分が本当にやりたいことは。例え軽蔑されようとも絶対にやり遂げるべきことは?

 ――必ずニコをここから生きて外に出す。

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