67. 第4章|1943年・アウシュヴィッツ

 声をかけるつもりはなかった。適当な理由をつけて何とか収容者名簿を閲覧させてもらい、そこからニコの居場所を探すのに一週間かかった。どうやってニコの安全を図るかは後回しに、とりあえず無事な姿を確認したかったのだ。

 しかし、足を踏み入れた収容エリアでユリウスが目にしたのは、不穏な雰囲気の中看守に詰め寄られているニコの姿だった。

 看守や、彼らの補助要員として収容者管理にあたる囚人たちの中にたちの悪い人間が紛れていることは知っていた。ユリウスが少年だった頃に、ヒトラー・ユーゲントの少年たちが憧れていた親衛隊とは血統要件や厳しい審査をくぐり抜けた精鋭たちのことだった。だが、あれから何年も経ち、長い戦争による人材不足のせいもあるのか、今の親衛隊、特に下級士官については雑多な構成になっている。

 とりあえず数合わせのように呼び集められた若者、中には非行歴や犯罪歴すらある者もいる。それどころか前線の武装親衛隊には相当数の外国人兵士も混じっているのだと知った時には驚いた。

 アウシュヴィッツでも名目上は、看守らが暴走できないよう労働可能な被収容者の取扱いには決まりが設けられてはいるのだが、実際はそれを無視した現場の独断による拷問や処刑も横行しているのだという話を、ユリウスはほんの一日、二日前に聞いたばかりだった。だから焦って声をかけてしまった。

 無理やりな理屈をつけて何とか看守をその場から立ち去らせ、本当ならばそのままニコを解放しても良かった。しかし、ニコの隣に保護者然として立つ男の存在がユリウスを感情的にさせた。自分よりずいぶん年かさに見えるその男はニコを守るため何やら看守に掛け合っていた様子で、看守が勢いを失ってからは、今度は不安そうな眼差しをユリウスに向けてきた。

 自分が異物として警戒されている、そう思うと冷静でいられなかった。つまりユリウスはその男に激しく嫉妬していたのだ。危険を承知でニコを守ろうとする、それはかつては自分だけに許された特権だったのに――。

 男とニコをひとまず引き離したいばかりに、ユリウスはその場から強引にニコを連れ出した。物資や資材の管理を担当しているので、ユリウスはひと気のないあちこちに立ち入ることができる。

 ニコを呼び込んだのは、今のところ比較的空きスペースの多い資材小屋で、鍵はユリウスが管理しているからそこで話をする分には邪魔が入る心配もない。

 二人きりになると安堵がこみ上げた。移送の日から十日も経っていないはずなのに、様変わりしたニコの姿にショックを受けなかったわけではない。サイズの合わない縦縞の囚人服に、揃いの布で作られた帽子をかぶっている姿は痛ましい。帽子の下は他の被収容者たちと同じように、髪を刈り取られてしまっているのだろう。光を受けて柔らかく輝く茶色い髪が剃り落とされたのだと思うと怒りを通り越して悲しみすら湧いてきた。

「ニコ、怪我はないか。ひどい環境だが……食事は、仕事は……大丈夫か?」

 どのように声をかけるか前もって考えていたわけではない。ただニコの無事だけを確かめたくて、ユリウスは足を踏み出す。だが、ニコはユリウスが一歩進めば一歩後ずさり、最終的に壁際まで追い詰められた挙句、ユリウスが頰に触れようと伸ばした手を払い落とした。

「触るな。僕の知っているユリウスは死んだ。君なんか知らない」

 さっきまで疲れ果て怯えきっていたニコの目は、今は強い感情を込めてユリウスをにらんでいた。確かめるまでもない、怒り、憎しみ。これまで一度としてニコから向けられたことのない感情。それどころか、ニコが誰かに強く怒り、憎しみを向ける姿を見たことがなかった。

 ハンブルクにいた頃、どれだけ理不尽な目にあってもどんなに傷ついてもただ悲しい目をするだけだった優しいニコ。だから代わりに自分が戦って、守ってやらなければいけないと思っていた。だが今、そんなニコが激しい感情を向けている。そして相手は他の誰でもないユリウス自身なのだ。

「ニコ……」

 ユリウスは動揺し、ただニコの名前をつぶやくことしかできなかった。

 ニコを守りたかった。ニコを救いたかった。そのためならば地獄にでも行ってやろうとがむしゃらになって、ここにたどり着いた。しかし、ぐっとにらみつけてくる強い眼差しの前にユリウスは何も言えない。

「……皆、いなくなったよ」

 ニコが口を開いた。声は震えている。

「父さんはドイツがポーランドを侵攻してまもなく大叔父さんと一緒にゲシュタポに連れて行かれた。噂じゃ、ドイツ軍が反乱の芽になりそうな人たちを根こそぎ連れて行って皆殺しにしたんだってね」

 ポーランド侵攻時にそんなことがあったなどユリウスは初耳だった。しかしニコが嘘を言っているはずはないし、実際にダミアンはソ連侵攻の際に似たようなこと――占領地の市民虐殺を命じられたと言っていたのだ。ポーランドで同じようなことが起きていたとしても不思議はない。何も言えずにいるユリウスに、ニコは畳み掛けるように続ける。

「ゲットーの暮らしは酷かった。僕たちを助けてくれていた大叔母さんもそこで死んだ。父さんも兄さんもいない中で、僕は……僕が母さんとレーナを守らなきゃいけなかったんだ。なのにばかな僕が何も知らずに手を離したから。手を離してしまったから……二人とも死んでしまった!」

 ユリウスは、そのとき初めてニコと同時に移送されてきた二人がすでにガス室に送られてしまったことを知った。ニコの居場所を探すときに同時にニコの母とレーナの居場所も探そうとしたが、どうしても彼らの入所書類が見つからなかった。移送時の選別で労働不能とされたのであれば書類がないのも当たり前のことだ。

「ニコ、ご家族のことは……」

「どうして!」

 からからに渇いた喉に張り付くような声で、ユリウスがなんとか告げようとした言葉をさえぎって、ニコは大声を出した。

「こうなるって知ってたなら、どうして僕もあっちのグループに入れてくれなかったんだ。僕は母さんとレーナと離ればなれになるくらいなら死んだほうがましだと思ってたんだ。君は裏切り者だ。ひどい奴だ。迎えに行くなんて言って期待させて、その裏で気づけばこんな制服を着て、僕と家族をばらばらにして!」

「ニコ落ち着け。落ち着いて俺の話も……」

 我を失った様子で大声をあげるニコに、ユリウスはなすすべもない。どうにかして落ち着かせようと肩に手を触れるが、当然逆効果になり、ニコは差し伸べられた手を振り払うと扉に背をつけたままずるずるとその場にしゃがみ込む。

 ぺたんと床に座り込んだニコの目から急に怒りの光が消える。代わりに瞳はどんよりと疲れ果てたような色に覆われ、それは少し前に会ったダミアンの絶望に満ちた目とよく似ていた。

 ニコは立ちすくんだままのユリウスを見上げた。

「ねえユリウス、君が今でも少しくらいは僕のことを友達だと思っているなら……」

 まるで許しの可能性をほのめかすかのような、その言葉はユリウスの胸に甘く広がる。ニコの許しが得られるのならば何だってやってやると思った。しかし、続いてニコの唇からこぼれた言葉は予想外のものだった。

「僕を殺してくれ」

「……ニコ?」

 絶句するユリウスの腰にあるピストルを、ニコは指で示す。

「家族も全員死んで、頼りだった親友も失った。僕にはもう生きる意味はないんだ。……知ってるよ、親衛隊の将校様にこんな口をきくこと自体が罪なんだろう? 反抗的なユダヤ人をひとり処刑するくらい君たちにとっては正当なことだろうし、君が今やらなくたって同じことだ。僕は近々きっとあの鉄条網に向けて走るよ」

 ユリウスは戦慄した。ニコは決してユリウスを許そうとしているわけではない。ユリウスに自身を殺せと訴えているのだ。

 ニコを生きてここから出すと決めた。それだけが今のユリウスにできることだと思った。しかしニコがそれを望んでいないのだとすれば? 今おかれた境遇に、世界のすべてに絶望して死を望んでいるのだとすれば? 背中を冷たい汗が伝う。

 駄目だ、と思った。いくらニコが望んだところで、ユリウスにニコを殺すことなどできない。こんな虚ろな目で殺せと頼まれるのならば、さっきのような燃える目で憎しみをぶつけられる方がどれだけましだかわからない。

 そう、憎しみの方がずっと――。

 ユリウスは息を飲んだ。上手くいくかはわからない。でも残された方法は、友人としてはもはや死んだ存在にされてしまったユリウスの手の中にある手段はひとつだけだった。

「ニコ、ひとつだけ言っていなかったことがある」

 ユリウスの言葉に、ニコはさして関心なさそうに視線をそらす。ユリウスはしゃがみこんでニコと同じ高さにまで目の位置を落とすと、無理やり茶色い瞳を自分の顔に向けさせた。心臓がキリキリと痛む。しかし今はこの言葉を口にする他はないのだ。

「レオをゲシュタポに売ったのは、俺だよ」