68. 第4章|1943年・アウシュヴィッツ

 確かに自分の口から出た声なのに、それは見知らぬ他の人間による告白のように感じられた。

 目の前にいるニコの表情はこわばって、そこからは何の感情も読み取ることができない。だからユリウスはもう一度ニコの耳元に囁くように、ゆっくり、はっきりと言って聞かせる。それは同時に、ユリウスの心の奥深くにまだ往生際悪く潜んでいる許しや和解を期待する糸を自ら引きちぎる儀式でもあった。

「俺が、レオを殺したんだ」

 ユリウス自身にとってもひどく重く痛みを伴う言葉。しかしそんな感情を決してニコに気取られてはいけない。できるだけ冷酷に、できるだけ悪漢らしく、できるだけニコの憎しみを駆り立てるように。

「……嘘だろ?」

 ようやくニコの震える唇が動く。たった一言の疑問の言葉。そして、無気力によどんでいた瞳に悲しみと怒りの色が宿りはじめているのを見て、ユリウスの心は痛むと同時に安堵した。

 ユリウスは手を伸ばし、無理やりニコの頰に触れる。振り払おうとされても強引に冷たい輪郭に手を添えると、そのなめらかな感触にこんな状況であるにも関わらずじんわりと甘い衝動がこみ上げる。

「嘘じゃない。あのときレオが俺を殴ったから。二度とニコに会わせないと言ったから」

 ニコが驚いたように目を開く。愛おしくて愛おしくてたまらなかったニコの目がまっすぐとユリウスを見つめてくる。違うのはその視線に込められた感情だけ。

「何を言っているのか、わからない」

「ユダヤ人に殴られたって言ったんだ。俺はおまえを自分のものにしたかったのに、レオがそれを邪魔したから」

 何もかも嘘ではない。事実だ。ただひとつだけ嘘をついているとすれば、ユリウス自身もその軽率な言葉が何を引き起こすかを知らなかっただけ。しかしそのことはニコには告げない。

「驚いたか? 自分の兄貴をゲシュタポに売った相手を親友だと思って、ずっと信じて待ってくれてたんだよな。本当におまえは素直で可愛い奴だよ」

 ニコは今度こそ渾身の力でユリウスの手を引き剥がした。ヘーゼルの色をした瞳はうっすらと潤んでいて、ニコの動揺の大きさを物語っている。

 そしてニコは、力任せにユリウスの頰を平手で打った。ナポラで厳しい訓練を受けてきたユリウスにとっては虫に刺された程度の痛みしかない。痛むのはただ、胸の奥だけ。

「ニコ、俺が憎いか?」

 ユリウスが問いかけるとニコはゆっくりとうなずいた。だからユリウスは重ねてもうひとつ問いかける。

「俺を殺したいか?」

 少し迷うような素振りを見せてから、ニコはゆるゆると左右に首を振った。

「……君と同じところまで、堕ちたくない」

 それはいかにもニコらしい返事だった。暴力を嫌い、やられてもじっと我慢し続ける、そんな姿をユリウスは何年ももどかしく眺め守ってきたのだ。でも今はそれでは足りない。今ニコに必要なのは激しい怒りや復讐心――それだけで生きる理由になるほどの。だからユリウスはただひたすらニコを煽る方法を探す。

「だからって兄貴の仇も打たず、鉄線に飛び込むのか? 考えてみろ、あの日レオが連行されなければおまえたち一家が夜逃げみたいにハンブルクを去る必要もなかった。ポーランド侵攻のときに父親が連れ去られることもなかった。もしかしたらあの後ビザが下りて、今頃は家族全員アメリカで幸せに暮らしていたかもしれない」

「黙れ!」

 ニコが発したそれはユリウス自身の心の叫びでもあった。

 ニコの憎しみを誘うために口にする「もしも」の物語は容赦なくユリウスの心も抉っていく。あんなことをしなければ、あんなばかなことを口にしなければゲシュタポがレオに目をつけることなかった。自分の子どもじみたわがままや執着がなければ今頃ニコの一家は亡命先で幸せに暮らしていたのかもしれないのだ。

 しかし何もかももう遅い。今のユリウスに残された希望はただひとつ。

「ニコ、戦争は遠からず終わる。東からはソ連がやってくる。アメリカも今後はヨーロッパへ戦力を集めてくるだろう。孤立したドイツはそう長くは持たない」

 突然話を変えたユリウスに、ニコは訝しげな顔を向けた。構わずユリウスは続ける。

「直接手を下さなくても、生き延びさえすればおまえは俺の破滅を見届けることができる。戦争に負ければ、どうせこんなところにいる親衛隊など連合軍に皆殺しにされるんだ」

「何、ばかなことを……」

 ニコは疑っているようだが、ユリウスの言っていることは嘘や出まかせではなかった。スターリングラードでの敗北で明らかに潮目は変わった。ナポラの同級生たちやヒトラー・ユーゲントのような未熟な兵士が前線に送られはじめていることからも、それは明らかだ。

 この先ユリウスがどこかの前線に転籍になることがあるのか、それともこの収容所に居続けるのかはわからない。しかし前線に出れば生きて戻れる確率は決して高くないだろうし、もしここが敵軍に見つかれば、末端であるとはいえナチス将校のひとりとして大量虐殺の責任の一端を問われることだろう。

「家族のためにも見届けたいと思わないか? 俺が死ぬところを。良心など痛まないだろう、おまえの大事な家族を死なせた諸悪の根源だ」

 うつむいてしまったニコの表情が見たくて、ユリウスは縦縞の薄汚れた帽子をゆっくりと外そうとする。しかしニコは思いのほか激しく抵抗した。

「嫌だ、やめろ! 触るな」

 無理やり帽子を剥がれると立てた膝に顔を伏せ、髪を短く刈られた頭を両手で必死に覆い隠そうとする。ニコは今の自分の姿を見られることを恥じている――それを理解すると同時にユリウスの体には妙な熱が灯る。

 倒錯している。そんなこと百も承知だ。まだニコがユリウスに対して何かを恥じ入るような感情を持っていることにかすかな喜びを抱き、しかし今の自分たちの状況を冷静に判断しようとする心がその喜びを瞬時に叩き潰す。ユリウスの心は砕け散って、ばらばらだった。

 何もかも叩き壊してしまった。自分に残された希望はただニコを生き延びさせるというそれだけで、ニコの愛情も信頼も何もかも未来永劫得ることはない。だったら。どうせ憎まれるのならば。傷つけるのならば。

「ニコ」

 嫌がるニコの顔を無理やり上げさせ、のぞき込む。愛おしさ――もどかしさ――絶望――自分でもなんだかもう、わからない。

 ユリウスは冷たい床にニコの体を押し倒した。

「……何を……」

 つぶやいたニコは、ユリウスの手が上着の裾から忍びこむのに気づくと 激しく抵抗しはじめる。体をよじり、固めた拳でユリウスの胸を叩き、脚でユリウスの腹を蹴とばそうとしてくる。しかし栄養不良の貧弱な囚人であるニコが、はるかに体格に優れ、しかも厳しい軍事教育で鍛えられてきたユリウスに敵うはずなどない。

 ユリウスはぶかぶかのズボンをなんとか腰に繋ぎ止めているニコのベルトを外すと、それでニコの両腕を頭の上に縛り上げた。ニコは必死の形相でしばらく抵抗を続けるが、みぞおちを打たれるとその力さえ失い床の上に伸びた。

「ユリウス、嫌だ……」

 懇願する声は少しだけ昔の親密さを取り戻したようだった。けれどそんなのはただの幻想だ。ユリウスは絶望と妙な高揚の中で組み伏せたニコを見下ろすと、ベルトが外れて緩んだズボンをそのまま引きずり下ろした。続けて下着に手をかけると、両手がままならないながらもニコは往生際悪く体をよじって抵抗しようとした。

「嫌だ、見ないで。お願い」

 下着を膝のあたりまで下ろし、むき出しになった下腹部を目にしてユリウスはニコの激しい抵抗の理由を知った。

 ニコのそこは、子どものようにつるんとしていた。性器の根元部分を覆い隠しているはずの陰毛も、髪の毛と同様に剃られて居たのだ。衛生上の措置として被収容者は身体中の毛を剃るとは聞いていたが、まさかこんなところまで。

 覆い隠すものなく子どものように無防備に、しかしそこには成長しきった性器が横たわっている。ユリウスは妙に卑猥なニコの陰部を凝視した。

 ハンブルクにいた頃に何度もそこに触れた。最後に見たニコのそこは、ようやく剥けて大人に近い形状になりかけ、隠毛もやっと少し生えかけたところだった。あれから四年、当然だがニコの性器は完全に大人の姿になっているものの、ユリウスのものに比べれば小さく細く、愛らしくも淡い色をしている。

 ユリウスの視線から逃げるように内腿をもぞもぞと動かすそんな仕草のせいで欲望に火がついた。なんせ軍隊の禁欲生活を送っている思春期の若い男が、思いを寄せる相手の無防備な姿を目の前にしているのだ。

 男など現金なもので、さっきまで絶望に沈んでいたのに、こうしてニコのあられもない姿を見ればユリウスはすぐに欲望でいっぱいになってしまう。

 ユリウスは嫌がるニコのボタンをひとつずつ外し、白く痩せた肌をあらわにした。まだ触れてもいないのにひどく興奮して、布地の硬い制服の下にある股間がきつい。

「嫌だ、ユリウス」

 ニコはもう一度、命乞いをするようにつぶやく。ユリウスはその言葉を無視してズボンの前をくつろげると、すでに凶器のように猛った自らの陰茎を取り出した。

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