69. 第4章|1943年・アウシュヴィッツ

 いくらか眠っていたようだ。目を覚ますとすっかり日が暮れていた。

 ユリウスは一瞬自分がなぜここにいるのかがわからなかった。裸の体のあちらこちらが痛み、それは固いコンクリートの床の上で激しい行為に及んだからだとようやく思い出す。

 はっと隣に目をやると、そこには蹂躙したばかりの体が横たわっていた。そっと手を伸ばし触れると痩せた体はひんやりと冷たく、窓から差し込む月の明かりに青白く輝いて見えた。それは何度か目にしたことのある死体によく似た色で、ユリウスは一瞬自分がニコを抱き殺してしまったのではないかと不安に襲われる。

 ユリウスにとってそれは初めての行為だった。ニコにとってどうだかはわからないが、初めてであって欲しいと願う。経験のなさと自暴自棄の相乗効果で、ユリウスはひたすらに強引で乱暴で、必死だった。心を得ることができないのならば体だけでも、そんな気持ちに突き動かされていたことを否定はできない。

 両腕を拘束されたニコは必死に唇を噛みしめて、うめき声も吐息も何ひとつユリウスには与えようとしない強い態度を貫いた。そして、ニコが声と感情を殺せば殺すほどユリウスはむきになり、苦痛でも構わないから何らかの反応を引き出そうと腕の中の体を激しく責め立てた。

 ニコの薄い胸がゆっくり上下していることをを確かめ、安堵したユリウスは風邪を引かないように、散らばっていた衣服をかき集めて裸の体の上に被せてやる。

 ユリウスは自分のしでかしたことをいまさら恐れた。ただでさえひどく心を傷つけた幼馴染みを、肉体的にも痛めつけ辱めた。欲しがる気持ちを止めることができなかった。

 のろのろと制服を整えていると自嘲のような笑いが浮かんできた。こんな格好をしていても、親衛隊の階級章を胸に付けて偉そうにしたところで、ユリウスの中身は縦縞の服の上にピンク色の三角形の布を縫い付けた囚人達と何ひとつ変わりはない。いや、潔くレッテルを貼られている彼らの方がまだ高潔に思えてくる。

 ふと思い立ってユリウスはいったん資材小屋の外に出た。目を離した隙にニコが逃げださないよう、鍵をかけていったん兵舎に戻ると、必要なものを手にして再び資材小屋へ向かう。

 小屋に入ると、ユリウスは湯にひたして絞ってきた布で眠るニコの体を拭いた。まずはそっと脚を開き、赤い血の混じった白濁をぬぐい取った。さらに布の汚れた面を内側にしてから体の他の部分も拭う。

 布をみるみる黒く汚すのは、ついさっきの行為で肌についた土埃ばかりではない。収容された人々に入浴やシャワーの機会がほとんど与えられないことはユリウスも知っている。汚れや垢を少しでも落としてやろうと、ユリウスは熱心にニコの体に布を滑らせた。疲れ果てて眠るニコは穏やかで、拒絶も憎しみも向けてこない。まるで昔に戻ったような気分になり、ユリウスはこのひとときが永遠に続けばいいと思った。

 しかし穏やかな時間は長くは続かない。体に触れられ眠りから覚めたのか、ニコがゆっくりと目を開く。ユリウスは驚いてニコの体を拭く手を止め思わず一歩後ずさった。

 ニコは緩慢な仕草で起き上がる。途中何度か顔をしかめて動きを止めるのは痛みがあるからで、固い床で組み敷かれた体のあちこちには青黒いアザができている。もちろん無理やり押し開かれ貫かれ、出血した場所もひどく痛むに決まっている。

 そのままニコは何も言わず、目も合わせず、ユリウスなど存在しないかのように立ち上がり身なりを整えるとよろめきながら小屋を出て行こうとした。

 かけるべき言葉が浮かばず、かといってそのまま行かせることもできず、ユリウスは思わず後ろからニコの腕をつかむ。振り返ったニコに、さっき兵舎から持ってきた袋を無言で指し示した。壁際に置いた袋には、パン、バター、缶詰といった、収容された人々が切実に望み、しかしやすやすとは手に入れることのできない命を繋ぐための食糧が入っていた。

 しばらくそれをぼんやりと見つめたニコは、臀部をかばうぎこちない動きで袋のある場所まで歩いて行くと、腰をかがめて中身を確かめ缶詰をひとつ手に取った。そして、迷うことなくそれをユリウスの顔面に投げつけた。

 至近距離で投げつけられた缶詰が額に直撃し、鈍い音と同時にユリウスはのけぞる。少し遅れて額からどろりと生温かいものが伝う感触があった。缶の縁が直撃して額が切れたのだろう。

 ニコはほとんど表情を動かさないまま、血を流すユリウスを眺めていた。その視線に射貫かれて、どうしようもない怒りと恥ずかしさが沸きあがる。

 骨が浮きかかったニコの体を見て触れて、このままではまずいと思った。これ以上劣悪な栄養状態が続けば、近い将来ニコもあの幽霊のように動く男達と同じように骨と皮ばかりに痩せ細ってしまう。だが健康面への心配に加え、ユリウスの心の底には、食べ物を施すことで少しでもニコの機嫌を取りたいという気持ちがあったことも否定はできない。そんなユリウスの下心を見抜いているかのように、ニコのまなざしには軽蔑の感情が込められていた。

 ユリウスは流れる血を拭いもせず床に転がった缶詰を拾い上げるとニコに歩み寄り、その手に再び缶詰を握らせる。嫌がるニコの手にひと回り大きな手のひらを重ね、缶詰から手を離せないようにした。二人の手の間でささやかな攻防が繰り広げられ、結局ニコは力ではユリウスに敵わない。

 これまでひたすら頑なな態度を取っていたニコは、はじめてうつむいたままぽたぽたと数滴の涙をこぼした。矜持すら許さない強引さで施しを押しつけられ、悔しくてたまらないといった様子だった。

 ユリウスは声を殺して涙を流すニコを見下ろした。優しくしたい気持ちとひどくしたい気持ち。往生際悪く許しを乞い願う気持ちと、とことん憎まれようという自暴自棄な気持ち。コントロール不能な衝動は交互に押し寄せてくる。

「ニコ」

 名前を呼んで顔を無理やり上げさせると、ユリウスはこらえきれずニコのまなじりに唇を落とし、こぼれかかった涙を舌ですくう。それだけは許されない気がして、行為の最中も唇に口づけることはできなかった。今も、これが精一杯だ。うっすらとした塩の味の後に、どうしようもない甘さが舌から広がり、まるで身体中がしびれるような感覚にユリウスは酔った。

 だが、このままニコを解放するわけにはいかなかった。兄を死に追いやった男への憎しみを植え付け、生き延びるための食料を与え、しかしまだニコから自死への衝動を奪うには十分ではないことを知っている。ユリウスは語りかけた。

「看守からも聞いただろう、ここでは何だって連帯責任なんだって。有刺鉄線に突っ込もうがその他の方法を取ろうが、労働力であるおまえが命を粗末に扱えば周囲にもその責が及ぶ。……例えば、さっき一緒にいたあいつとか」

 腕の中でニコの体が硬くなるのは脅しの文句に効果があった証拠だ。それはすなわち、ニコが周囲の人々を、さっき一緒にいた仲間の男を守るために自死を思いとどまらざるを得なくなることを意味する。

 ニコの態度はユリウスに安堵と同時に苛立ちをもたらす。あの男が、看守相手にニコをかばおうとしていたあの男が、ニコにとって意志を曲げてでも守りたい相手なのだとすれば、ユリウスにとって面白いはずはない。

「邪魔しないでくれ。僕ひとりが死んだって君には関係ないことだろう」

 ニコの返事には濃い苛立ちの色が混じった。

 関係ないなんて、そんなことあるわけがない。ユリウスは喉元まで出かかった言葉を飲み込む。ユリウスはニコを生きてここから出すのだと決め、そのためなら何だってしようと決めた。そして、戦争が終わりニコが自由になれば二度とその体に触れることはできない――それどころかさっきニコに話したとおり、ここが敵軍に見つかれば命すら危うい。

 だったらせめて今ここで命あるうちだけでも。

「おまえを相手にするのはそう悪くないみたいだな。どうせここには女だってくそつまらない看守か、囚人くらいしかいない」

 そう言って抱きしめる腕に力を込めると、ニコは疲れ果てたように首を左右に振った。

「どうしてこんな……もう放っておいてくれ。僕が一体何をしたっていうんだ」

「何もしてないよ。おまえも、おまえの家族も何もしてはいない」

 そう、ニコもニコの家族も罪など犯してはいない。ただ生まれた時代と場所が悪かった。そして運悪くユリウスのような愚かな人間と出会ってしまった。それだけのことでニコの両親は、レオは、レーナは死に、残されたニコはこんなにも苦しんでいる。

 自分は間違っているのだろうか。少しでもニコに詫びるつもりがあるのならここで死なせてやるべきなのだろうか。しかしユリウスにはどうしてもその決断を下すことはできない。

「それ以上痩せることは許さない。棒きれみたいな体じゃ楽しめないからな」

 露悪的な言葉に、ニコの顔が嫌悪にゆがむ。ユリウスは床の袋をとりあげニコの腕に無理やり抱えさせると、ドアの向こうへと背中を押した。

 小枝のような後ろ姿が夜の闇のなかゆらゆらと頼りなく、やがて建物の間に消えていくのを確かめると、ユリウスはその場に崩れ落ちた。ニコの絶望が伝染したのだろうか、このまま死んでしまえれば楽なのかもしれないと頭をかすめた。

タイトルとURLをコピーしました