70. 第4章|1943年・アウシュヴィッツ

 ニコはよろめきながら暗闇の中を歩いた。

 他の被収容者たちはとっくに自分たちの暮らす棟に戻りおとなしく過ごしている時間帯にひとりで外をうろうろしているなんて、看守に見つかればただではすまないだろう。しかもニコは入手経路を説明することができない食糧を手にしている。

 正直こんなものをもらったところで迷惑でしかない。言動も行動も支離滅裂なユリウスが一体何を考えているのか、ニコにはさっぱりわからないし理解しようとも思わない。ニコは道すがら手にした食糧を捨てようとしたが、結局は思いとどまった。

 自分にとってはまったく必要のないそれが、何としても生き延びたいと願っている友人にとっては喉から手が出るほど欲しいものだとわかっている。居住棟の近くに穴を掘って缶詰を隠し、目立たないようパンとバターの塊だけを服に隠して持ち帰ることにした。

「ニコ、大丈夫か」

 入り口近くでで待ち構えていたマックスは、ニコの姿を見るなり駆け寄ってきた。ニコは異変を悟られないよう臀部の痛みをこらえてまっすぐ歩き、平静を装う。

「一体何なんだ、あの将校。ひどい目に遭わなかったか?」

「いや、大丈夫だよ」

 実際は十分ひどい目にあった。残酷な言葉を投げつけられ、脅され、劣情を紛らわせる対象にすらされた。しかしそんなことをマックスに言えるはずもない。

 ニコはマックスにどう説明すべきか悩んだ。ユリウスのことを知り合いだと告げるのも気がひけるが、それを明かさない限りは持ち帰った食糧の説明がつかない。ニコは何かと自分を助けてくれるマックスにはどうしてもこれを渡したかった。

「マックス、あの。さっきの親衛隊員は……僕の知人なんだ」

 結局、ニコは事実と嘘を織り交ぜた。さっきの准尉は故郷の友人で、偶然ニコの姿を見つけてからかばってくれた。そしてせめてもの同情の証に多少の食糧を分けてくれた――心の中で死んだことにした相手についてこんな風に話すのは本意ではないが、事実関係だけならば必ずしも嘘ではない。異なっているのは、ユリウスがニコの兄をゲシュタポに通報した人物で、現在もニコに対して同情どころか悪意のような感情を持っているということだ。

 マックスはニコの話を疑わしそうな表情で聞いていたが、人目につかないよう毛布に潜り込んでからこっそりニコがパンとバターを手渡すと驚き、遠慮しながらもそれを受け取った。マックスの嬉しそうな顔を見て、ニコはほんの少しだけ救われた気持ちになった。

 夜が更けてあちこちから寝息やいびきが聞こえはじめても、ニコにはいっこうに睡魔が訪れなかった。

 レオをゲシュタポに告発したのがユリウスだった。にわかには信じがたいが、ユリウスがニコに嘘をつく理由はない。何よりあのとき、ニコに触れたことを理由に殴られたユリウスがレオに反感を抱いていこと自体は間違いのないことだ。そして、ユリウスに衝動的で暴力的な一面があることをニコは知っている。しかし、だからといって――。

 そこまで考えて、自分のことをばかみたいだと思った。あんな残酷な言葉を投げかけられて、辱められて痛めつけられて、それでも心のどこかではまだユリウスを信じたいと思っているのだろうか。理由などいくら探しても意味などない。いまさらレオが戻ってくることはないし、優しかった幼馴染みも失われた。

 十四歳の頃のユリウスも、無理やりニコに触れてくることはあった。しかし強引ではあってもその指はいつも優しくて、だからニコも嫌だとは思わなかった。その同じ指が、今日はかつての面影すらなくニコを痛めつけたのだ。

 苦しみを、いらだちをぶつけるように軋む体を押さえつけ、狭い場所を無理やりに押し開いて入ってきた。ニコ自身ももちろんそんなものを望んでいたわけではないが、一切の快楽は与えられず、一方でユリウスも快楽を得ているようには見えなかった。あれは愛情の行為ではなくただの暴力だった。ニコを傷つけるための、そしてユリウス自身をも傷つけるための。

 好きだと言われてうなずいた日のことを覚えている。ユリウスの「好き」はどういう意味だったんだろうか。うなずいた自分はどんな気持ちだったんだろうか。ニコはまだ幼くて「好き」という気持ちに込められる複雑な意味合いを十分には理解できていなかった。

 家族のように身近な存在。日々変わっていく世界の中で変わらずニコのそばにいて守ってくれる存在。でも少し気難しくて気分屋で誤解されやすいユリウスのことをフォローしてやらなければいけないと思うこともあった。あの頃のユリウスや自分の気持ちには一体どんな名前があったのだろう。何より――彼の心はいつどうして変わってしまったのだろう。

 レオをゲシュタポに売っただけでなく、あんなに嫌っていた親衛隊に入り、ニコや他のユダヤ人を迫害する側に回ってしまった理由。そんなものは、いくら考えたところで答えが出るはずもない。

 ニコは耐油紙にくるんで靴の中に隠していたメモ用紙入りの袋を取り出した。目を閉じればインクの色も筆跡も鮮やかに思い出せる「迎えにいく」とだけ走り書きされたメモは、移送された日に変わり果てたユリウスの姿を見てすぐに破り捨てようと思ったものだ。

 既にぼろぼろになりかかった紙切れひとつ、破り捨てるのはたやすいことだが、ニコはどうしてもそれができずにいた。そして今もできずにいる。ユリウスが変わり果ててしまったからこそ、かつて少年の面影がなくなってしまったからこそ、過去の思い出はニコの中で捨て去り難いものとして重みを増す。そしてこれはユリウスから妹のレーナの手を介して自分に手渡されたものでもある。

 ニコの手元には妹の写真一枚すらない。一度でもレーナの手に触れたそれは、どこか彼女の形見のようにも思えた。結局ニコは再び丁寧に紙片を折りたたむと元どおりの場所に隠した。

 ユリウスは、遠くない未来に戦争が終わると言った。連合軍がくれば自分は死ぬから、家族のためにもそれを見届けろと言った。

 憎しみはある。ユリウスの言うとおり、レオがあのとき通報されなければ一家には別の未来があったのかもしれない。すべての歯車を狂わせたのがユリウスであるならば、殺したいほど憎い。一方でかつての親友と同じ顔をした男を――たとえ中身はすっかり変わり果てているとしても、その死を願うことはニコにとって苦しみを伴う。

 ニコがユリウスを殺せば、もしくは死ぬところを見届ければ、兄は、家族は喜ぶだろうか。答えは出ないままニコはただ日々の流れに身を任せるしかなかった。

 ユリウスの脅し文句を信じている限り自分から死を選ぶことはできない。それをすればマックスや周囲の人々までも犠牲になる。例えどれだけ苦しくても、とりあえず生き続けるしかないニコは、きつい労働に耐え、看守に目を付けられないよう注意しながら毎日を過ごした。

 それからもユリウスはときおり姿を現した。ニコを人目の着かない場所へ連れて行き、抱くときもあれば何もせずただ食糧を渡すだけのこともあった。「痩せた体は抱き心地が悪い」と食糧を押し付け、「汚い体を抱かせる気か」と水筒に入れてきた水や石鹸で体を清めさせるユリウスの真意はニコには理解しがたいが、従うほかに選択肢はない。二人はほとんど会話を交わすことなく奇妙な逢瀬は繰り返された。

 やがて夏がやってきた。

 冬の寒さの中で働くことも辛いが、夏の暑さも同じくらい辛い。汚れた男達でいっぱいの収容棟には異臭が立ちこめ、あちこちで伝染病の噂を聞くようになった。炎天下での作業で倒れてそのまま死んでしまう同胞の姿を見たのも一度や二度ではない。ニコとマックスは周囲と比べて健康を保っている方だったが、その命をつないでいるのは間違いなくユリウスから手渡される食料や薬の数々だった。

「おい」

 ある日、朝の点呼の後にニコは看守に呼び止められた。看守に呼ばれるのは何らかの理由で罰を受ける場合か、別の棟や仕事に移されるときくらいで、もちろんどちらも歓迎するようなことではない。不穏な空気が漂う中渋々歩み出ると、看守は苦々しい顔でニコに荷物をまとめてついてくるよう命じた。

「おまえは収容場所と労務場所が変更になった」

「え……あの……」

 まず思い浮かんだのは、今よりひどい場所にやられることだ。何かこの看守に嫌われるようなことをしてしまっただろうか。今の仕事も楽ではないが、だいぶやり方に慣れてきたところだ。同じ棟で数ヶ月一緒にすごして親しくなった面々もいる。そこから連れ出されることには正直不安しかない。

「余計な口をきかずさっさと言われたとおりにしろ」

 苦々しげな顔と声に気圧けおされる。荷物と呼べるようなものはないので、実際は体ひとつで看守に着いていくだけだった。マックスが背後から心配そうな視線を投げかけてくるのを感じながら、ニコは別れも言えないままに慣れた場所を出た。

 看守はしばらく歩いて、ニコがこれまで足を踏み入れたことのないエリアまで連れていくと見知らぬ別の看守に身柄を引き渡した。