71. 第4章|1943年・アウシュヴィッツ

 見知らぬ看守に引き渡されたニコは、今までいた場所よりはよっぽど清潔な建物に連れて行かれた。看守は石けんのかけらとタオルを投げるようによこすと、まずは体を洗って着替えるように言ってニコをシャワー室に押し込んだ。

 とうとう死期がきたのだとニコは思った。

 ガス室でいちばんの汚れ仕事である遺体処理をさせられるのは、ほとんどが被収容者からなる特別任務部隊ゾンダーコマンドだ。彼らは一般の被収容者たちとは異なるエリアで暮らし異なる待遇を受けているようだが、だからと言って人の口に戸は立てられない。噂はどこからか広まり、ガス室行きの合図が「シャワー」だということは収容所暮らしの長い者たちの間ではもはや公然の秘密だった。

 自分が何をしでかしたのかはわからないが、来るべきときが来たのだ。ニコは言われるがまま服を脱ぎシャワー室へ入った。しかしシャワー室を装ったガス室には一度に大量の人間が詰め込まれるという噂とは異なり、そこにはニコひとりしかいなかった。そして、おそるおそる水栓をひねると頭上からはごく普通の冷たい水が降り注いだ。

 頭から清潔な水をかぶるのは半年ぶり、いや、もっと久しぶりだろうか。ニコはしばらくの間、信じられない気持ちでシャワーの吹き出し口を眺めていたが、やがてはっと正気に戻ると途中で送水を止められてはたまらないとばかりにあわてて体を洗いはじめた。

 シャワーを終えると、新品とはいかないしやはりあの惨めな縦縞の衣装ではあるものの、清潔な衣類が与えられた。肌に触れる布の感触が気持ちいい。ニコはさっぱりした体でさっぱりした服を身につける感覚を自分がすっかり忘れてしまっていたことに気づいた。

 身だしなみを整えたニコを連れて、看守はさらにどこかへ向かう。前ぶれもなしに呼び出されたと思えば、これまでの収容生活からは考えられない厚遇。喜びよりは戸惑いや気味悪さがはるかに勝り、ニコは我慢できず看守に訊ねる。

「あの、一体ここは」

 前を歩く看守は面倒くさそうに振り向くと、ぶっきらぼうに告げた。

「ここは診療所や幕僚部といった、収容所運営側の補助業務に従事する被収容者のエリアだ。おまえはタイピングと経理ができるらしいから仕事に呼ばれた。着替えさせたのは汚い格好で執務スペースを汚されては困るからだ」

「……幕僚部?」

 ニコは耳を疑った。

 確かにニコはタイプライターを打つことができるし、会計書類の扱いも多少は知っている。ニコの父は会計士で、書類整理や計算といった簡単な仕事を息子たちに手伝わせることがあった。タイプライターは遊び半分に母に使い方を習っているうちに基本的な操作を覚えた。とはいえしょせんは子どもの手伝いレベルでしかないし、それも四年も前の話だ。いまさら当てにされても相手を満足させるだけの仕事ができる自信はない。かといってこの状況でいまさら「できない」と言い出すことも許されない雰囲気だ。

 看守は何も言わないが、ニコはこれをユリウスのお膳立てによるものだと確信した。以前ユリウスは自身を幕僚部の所属だと言っていたし、何よりユリウス以外にニコがタイプライターを打てることを知っている人間などここにいるはずがない。一体ユリウスは今度は何を企んでいるのだろう。ニコは不安になる。

 連れて行かれた先は書庫のような場所で、まずは書類の整理を命じられた。これだけ広い収容所なので日々の物資購入や支払いも莫大なのだろう。書類管理がなかなか追いついていないようで、そこには無造作に束ねられただけの帳票が山のように溜まっていた。

 どこから手をつけるべきか悩み、ニコはとりあえず帳票の分類から取りかかることにする。さすがに被収容者に作業をさせる部分は機密に関係ない部分だけが切り分けているのか、請求書や支払い書類は食料や生活物資に関するものばかりだが、それでも量は膨大だ。

 椅子に座って机に向かうのは久しぶりで、ひとり淡々と書類に向かい合っているうちに不安は消え不思議と心が踊ってくる。強制収容されている身分や看守の心ひとつで生死が左右される不安定な立場。それらは何ひとつ変わっていないはずなのに、清潔な格好をして快適な室内で仕事ができるだけでずいぶんと気分は変わるものだと思う。

「おい」

 声をかけられてはじめて目の前に人がいることに気づいた。作業に集中していたせいでドアが開く音が聞こえていなかったようだ。

 机の前に立っているのは親衛隊将校の制服を着た男だが、ユリウスではない。しつこく絡んでくるユリウスは別として、看守や労務監視役以外が囚人と進んで口を聞くことなどまずありえない。彼らにとってユダヤ人など話しかけるにも値しないのだ。しかし目の前の男は不愉快そうな顔をしてはいるものの続けてニコに話しかける。

「おまえだな、シュナイダーが呼んできたユダヤ人は」

 侮蔑的な視線と物言いにはいまさら不快も何も感じないが、どう反応すれば良いのかわからずニコは黙って男の顔を見返した。

 本当にユリウスがここに自分を呼んだのか。おそらくそうなのだろうが、ニコは本人から何か聞かされたわけではない。ここで下手にうなずけば後でユリウスに何をされるかわからないが、あえて否定すればこの男がどう反応するかもわからない。

 男の胸についている階級章の見方をニコは知らないが、歳格好や呼び捨てにしているところからしてユリウスの上官なのだろうか。どう反応すべきかわからずニコが黙っていると男は一歩踏み出し、仕事の邪魔をするように机に腰かけてきた。

「あいつとどういう関係だ」

「……すみません、おっしゃっている意味が……」

 問い詰められて言葉を濁す。この男はなにかひどい誤解をしているのかもしれないと思うが、今のニコにはそれを解くすべもない。

「わざわざおまえを指名して連れてこさせたってことは知っているんだ。こんな作業、女にでもさせればいいのに」

「すみません。本当に僕には何もわからないんです」

 平謝りすることしかできないニコの手から帳票の束を取り上げると、男はそれを嫌がらせのように床にばら撒いて意地悪く笑った。そして、ささやく。

「あいつに何かされたら俺に言え。個人的に囚人に便宜を図るのも、その見返りを求めるのも御法度だ。俺はあいつは怪しいと思っているんだ。シュナイダーがもしもおまえに変な気を持っているなら、面白いじゃないか」

 その言葉の意味がすぐにはわからず唖然とするニコを置き去りに、男はニコに「わかったな」と一方的に念押しすると現れたとき同様に唐突に消えた。

 あの男はユリウスの弱みを握りたがっている。同じ親衛隊員の間でもいろいろと関係は複雑なのかもしれない。好き嫌いとか出世レースとか、世の中を知らないニコにとってもそのくらいは想像できることだ。しかもユリウスはあんな性格だから、敵が多くたって不思議はない。

 だが、弱みを握ってどうするのだろう――いや、自分の身の上で頭がいっぱいで忘れていたが、ナチスドイツは自国民であっても同性愛者を許さない。強制労働の現場ではピンク色の三角形をつけたドイツ人を見かけることもしばしばあった。

 ユリウスがニコを抱いていること、ユリウスがニコに食糧を与えていること、良い仕事に就けるよう便宜を図ったこと――それらすべてが親衛隊員としては背信行為で、もしかしたらユリウス本人の身すら危険にさらしかねないものであることにニコははじめて気づいた。

 ニコはますますユリウスという人間がわからなくなる。ユリウスはレオをゲシュタポに売り渡し、ひどい言葉でニコを傷つけ、無理やりに性欲のはけ口に使ってくるひどい男だ。しかし一方ではここでのニコの生活が少しでもましなものになるように、危険を冒している。

 ふとユリウスに会いたいと思った。今なら真意を聞くことができるかもしれない。でも、顔を見たらやはり嫌悪と憎しみが湧き上がってくるかもしれない。ニコは誰もいない部屋でぽつりとつぶやく。

「ユリウス、君は一体何を考えてるんだ」

 しかしもちろん返事はなく、その日ユリウスがニコの元を訪れることはなかった。

 時間になると看守に連れられ、ニコは新しい居住棟に案内された。もちろん共同生活であることは変わらないが、そこではひとりがひとつのベッドを使うことができ、同室の面々はそれぞれ診療所や機械修理など技能を生かした仕事を与えられているようだった。彼らに比べたらニコの技能などないにも等しいもので、どことなく居心地が悪い。

 ニコはあのごみごみとした汚い場所やマックスのことを懐かしく思ったが、清潔な体で他人と体を触れ合わせることなく横になり、久しぶりに気持ちが安らいだのか、結局ベッドに入るとすぐに眠りに落ちた。

 夢も見ない深い眠りに落ちるのは久しぶりのことだった。

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