72. 第4章|1943年・アウシュヴィッツ

 呼び出されたユリウスが部屋に入ると、リーゼンフェルト大尉は渋い顔をして座っていた。ばれたな、と思うが自分から口を開くことはせず黙って相手の出方を待つことにする。

「シュナイダー、勝手なことをしたようだな」

「何のことでしょうか」

 心当たりはあるがしらばっくれて見せる。もちろんリーゼンフェルトもユリウスの性格はすでに承知している。呆れたように小さくため息をつくと、たばこに火をつけながら言った。

「新しい雑役夫にユダヤ人の男を連れてきたとベルマンが血相を変えて報告に来たぞ」

 やはりベルマンか。エリート校出身のユリウスを目の敵にしている叩き上げの上官がさっそくニコの存在を嗅ぎつけたというわけだ。だが、ユリウスもばかではない。ありもしないポストをでっち上げてニコを呼んだわけではなく、辛抱強く半年近くも機会をうかがっていたのだ。

「人手が足りないというのは、そもそもベルマン少尉が言い出したことです。俺は看守に適任者を探させただけですよ。それに男といっても貧弱な子どもみたいなものですし、書庫で雑用をさせるくらいですから危険はないでしょう」

 用意してきた言い訳をユリウスが淀みなく述べてみせると、リーゼンフェルトはふんと鼻を鳴らして笑った。

「そうか、ではベルマンの考えすぎだと」

「何しろベルマン少尉は俺のやることなすことが気に入らないようですから」

「私もたたき上げだからあいつの気持ちはわからんでもない。ただ、おまえの言うとおりあいつの態度が大人げないのも確かだ。報告は適当に受け流しておいたよ」

「感謝します」

 結局のところリーゼンフェルトが言いたいのはこれだったのだ。ユリウスは内心で安堵した。大尉が反対さえしなければ、とりあえずニコをあのひどい野外労働の場に送り返すことはしないですむ。

 重要性の低い書類整理やタイピング、簡単な通訳翻訳など、ニコにやらせる仕事はいくらでもある。彼が十四歳以降教育を受けていないことは知っているが、もともと賢く真面目な性格だし、ゲットー暮らしの中で身につけたらしいポーランド語、イディッシュ、ロシア語も使い道はあるだろう。ニコが若く一見して非力であることもプラスに働いた。妙に頭が回ったり力があったりすれば、反乱分子となることを警戒され幕僚部に連れてくることは難しかっただろう。

「だがシュナイダー、調子に乗るんじゃないぞ。多少の同情や手心はここでだって珍しくない。私も細かいことをどうこう言うつもりはない。しかし、あまりに目立てば無視するわけにもいかなくなる。ヘス所長は厳格な方だ。命令に背いた隊員が銃殺刑にされたこともあるんだ」

 リーゼンフェルトはいい気になったユリウスに警告を与えることも忘れない。多少の自由は許すが一定のラインを超えればユリウスやニコの身に危険が及ぶだけでなく上司にも責任が及ぶだろう。もちろんユリウスも警戒して仕事中はニコに近寄らないようにしている。生活圏が近くなるだけに以前にも増して注意が必要だ。

「……心当たりはありませんが、肝に銘じます」

 ともかくひとつハードルを超えたとばかりに敬礼をして立ち去ろうとするユリウスに、リーゼンフェルトは思い出したように声をかける。

「そうだ、ベルマンが言っていたぞ。そのユダヤ人は、おまえと同じ北部訛りのドイツ語を話すと」

 振り向いたユリウスに向かって、リーゼンフェルトはニヤリと笑う。

「シュナイダー、以前おまえが言っていた〈総督領にいる親戚〉とは再会できたか?」

「いいえ、まだです。なかなか休日に外出する余裕もなくて」

 少しだけ、心臓が軋んだ。

 ユリウスはその日久しぶりにダミアンと出くわした。休暇を取った隊員の代わりに書類を届けに幕僚部へやってきたのだというダミアンは、前に会った時よりもさらに痩せて覇気がなく見えた。服を着替えてしまえば、被収容者と間違えられても不思議ではないくらいに憔悴している。

「ダミアン」

「ユリウス、君か。元気そうだな」

 ダミアンは力なく笑顔を浮かべようとしたが、それはほとんど成功していない。あなたは相変わらず調子が悪そうだ、喉元まで出かかるが、口に出すことは思いとどまる。ユリウスは少しだけ話をしようと人気のない中庭へダミアンを誘った。

「今は何の仕事を?」

「少し前までは鉄道敷設現場の労務監督をやっていた。でも立ちっぱなしだとめまいがすることがあって。最近は看守が多いが、どっちもろくな仕事じゃないさ」

 そしてダミアンは声を低くして、ユリウスに訊ねた。

「そうだ。君は〈あれ〉を見たか?」

〈あれ〉が何を指すかは明白だった。前回会ったときにダミアンは、まだ何も知らないユリウスに「ここでは人を焼いている」と話した。アウシュヴィッツで行われている残虐行為を知れば、ユリウスは親衛隊に入るきっかけを与えたダミアンを恨み憎むだろうと決めつけていたのだ。

 ダミアンは相変わらずそのことにこだわっているようだ。

「見てはいないけど知っています。選別の作業にも加わりました」

「だったら僕を憎むだろう。君は僕がばかなことを吹き込まなければ、あのまままっすぐ生きていたはずだ。こんな場所に来て人殺しに手を貸すこともなく」

 再び自らの罪を訴えるダミアンは、ほとんど脅迫的な様子でユリウスは密かにうんざりする。こんな面倒なことを言われるのならばダミアンを呼び止めるべきではなかった。だがその一方で、管理部門でのうのうと過ごすユリウスと違いダミアンが日々被収容者たちと接する中で多くの罪悪感を重ね耐えきれない気持ちでいるであろうことも理解できる。

「いいえ憎みません。それでも僕はあなたに感謝をしているから」

「嘘を言うな」

 ユリウスの答えにダミアンは気色ばむ。しかしユリウスの言葉に嘘はない。ダミアンを安心させるためではなく、ユリウスは今では心の底から自分がこの収容所にやってきたことを感謝しているのだ。

「昔、ユダヤ人の友人がいると話したのを覚えていますか?」

 人影がないのを確かめて、ユリウスは小さな声で切り出した。

「彼を、ニコをここで見つけました。ゲシュタポの連行を避けようとポーランドに亡命したきり四年ぶりです。俺は彼を探すために親衛隊に入った。そして実際に会えたんです」

 ダミアンだけは最初からユリウスが親衛隊を目指す動機を知っている。むしろニコを守るための方法のひとつとしてそれを提示したのが他ならぬダミアンなのだから、いまさら隠しだてをする必要もない。

「その彼は、だが……」

「ええ、親衛隊員になって彼の家族や同胞を殺す作業の一端を担った俺を憎んでいます。決して二度とあの頃のような関係に戻れないことは理解しているつもりです。それでも俺は、あいつを守り生き延びさせるという使命を見つけただけで、やはりここに来て良かったと思うんです」

 ダミアンの表情がかすかに緩み、ユリウスも最近にない穏やかな気持ちが広がるのを感じた。

 こんな気持ち誰にも吐き出せなかった。ユダヤ人を守ろうとしているなどと同僚には口が裂けたって言えないし、ニコに対しても憎しみを煽る態度を取り続けている以上、本音を告げることはタブーだ。内に秘めた気持ちは胸の奥に澱のようにたまりユリウスの心を重くしていた。ほんの少し解放するだけでこんなに楽になれるとは。

「僕は人を殺した。しかしそれに劣らないくらい、何も知らない君をこんな世界に巻き込んだ罪は重いと思っているよ」

「これ以上言わせないでくれ。それでも俺はあなたに感謝しているんですから」

 しつこく言い募るダミアンに、ユリウスはさっきより強い口調で告げた。ダミアンは青白い顔を上げ、ユリウスを眩しそうに見つめる。

「ありがとう。……君は変わらないな、あの頃と同じまっすぐなままだ」

 そして急に真剣な面持ちでユリウスの目を正面から見つめる。

 ユリウスは動揺するが、妙な勢いに負けてダミアンの目を見返した。するとダミアンはユリウスの緑色の瞳の更に奥をのぞき込むようにして言った。

「君はこれからも大切なものを忘れないでくれ。僕にはくだらない理想しかなかった。だからそれが砕け散ってしまえば後は罪しか残らなかった。しかし君は違う。君にもし罪を犯してまで守りたい何かがあるのならば、決してそれを見失うな」

 そしてユリウスの手を取り、弱々しい姿からは思いがけない強い力で握り締める。

「ユリウス、君は――君のニコを最後まで守り抜け。もしもそれをあきらめたならば、君は僕と同じただの罪人になる」

 ユリウスは内心ではダミアンの言葉に同意できなかった。ニコを守ろうが守るまいが、自分が罪人であることにはいまさら変わりなどない。しかしそれを口にすることがダミアンをひどく傷つけてしまうであろうこともわかっている。ユリウスが黙って彼の言うことにうなずくことが、ほんの少しだけダミアンの罪悪感を軽くする手助けになるのだ。

 ユリウスが「わかった」と首を縦に振ると、ダミアンは笑った。アウシュヴィッツで再会して以来はじめて見せる、昔のような爽やかな笑顔だった。

 次の日、どこかの兵舎で首をくくった下級士官がいるという噂が流れた。北部出身だとか、東部戦線で心を病んでいたらしいとか、噂は瞬く間に兵舎を駆け巡り、そしてあっという間に消えていった。

 そして、ユリウスがダミアンと会うことはもう二度となかった。