73. 第4章|1944年・アウシュヴィッツ

 一日一日は重く長く憂鬱で、しかし振り返ればあっという間に過ぎていく。短い夏が終わり再び長く暗い冬がやってきて、また終わろうとしている。

「最近、東からの移送が増えているらしいな」

 ある晩、同室の男たちが話しているのが耳に入ってきた。この部屋でひとりだけ極端に歳の若いニコはほとんどみそっかすのような扱いで話に入る雰囲気ではないから、普段からニコはただ耳を傾けるだけだ。

「東から? だが、東部戦線は負けが込んでいるって噂じゃないか。一月にはソ連がレニングラード包囲も破ったんだろう。捕虜の取りようもないのに何でまた」

「ああ。だから新規の収容じゃない。どうもソ連が迫っているせいで東から少しずつ収容所の閉鎖や放棄をはじめているって話だ。そこにいた人間を西へ西へと送ってきているんだろうって」

 ドイツ軍の情勢が徐々に悪い方向に向かっていることはニコも知っている。仕事をする場所には当然のことながらラジオも新聞もなくニコ自身が生の情報に触れることはないが、ユリウスは何かとニコに戦況を聞かせたがる。

 奇妙なことにユリウスは、ドイツの戦況が悪化するほどに楽しそうだった。仏頂面で相槌も打たないニコ相手に「レニングラードからは撤退だ」とか「ソ連が巻き返している」とか「西部戦線もアメリカが参戦して、そろそろ潮目が変わるだろう」とか、一方的に話しては最後に決まって「な、ニコ。ドイツはもうすぐ負ける。嬉しいだろう」と笑うのだ。ニコには否定も肯定もせずにただ黙っていることしかできない。

 ニコは幕僚部での仕事にも慣れた。当初こそ専門知識も持たない自分に務まるのか不安だったが、まずは簡単なことから少しずつ手をつけた。

 ユリウスはニコが仕事をする書庫には一切寄りつくことをしないが、ときおり机の上に見慣れない本やメモ書きを見つけることがあった。それらはちょうど仕事に必要とされる知識についての本だったり、手書きのマニュアルだったりで、わからないことを聞く相手に事欠くニコにはありがたいものだった。

 さすがにこういうことにまで礼を欠くのはどうかと思い、一度だけ礼を言おうとしたことがある。しかしユリウスは冷たい目のまま、それは自分ではないと否定した。

「本とメモのことだけど」

「何のことだ? 俺は知らない」

 どうしてそんな見え透いた嘘を言うのだろう。ニコがユリウスの筆跡を知らないはずもないのに。しかしそれ以上問い詰める気にもなれず、ニコは黙りこんでしまった。

 相変わらずの囚人生活ではあるが、こちらにきて以来待遇は明らかに良くなった。幕僚部の建物の中で仕事をするので不潔でいられてはたまらないのだろうが、定期的に体を洗ったり衣類を取り替えたりすることが許されている。きつい肉体労働をさせられているわけではないのに以前よりはましな食事を与えられている。中には周囲のドイツ人にうまく取り入って、たばこや酒を手に入れてくる者さえいる。

 だがニコは漠然とした不安を抱いている。栄養失調ときつい労働で頭がぼんやりとしていた頃とは別の意味で、心が摩耗して感情が鈍くなっている――そんな気がする。

 生活の安定は恐ろしい。最近のニコは以前ほど「死にたい」と思わなくなった。家族が連れ去られる悪夢にうなされて目を覚ますことがなくなった。

 最近、思い出そうとする兄の輪郭がぼんやりと滲んでいる。もう五年も会っていないのだから仕方ないことなのかもしれないが、顔、声、話し方、細かな記憶が欠落していくことを感じる。父についても同じだ。このままいけば、やがて母や妹のことも少しずつ思い出せなくなっていくのだろうか。レーナの小さな手、髪を撫でたときの手触り、ちょっとませた賢い口ぶり、そんなものすべてが失われていくのだろうか。――そして、彼らなしでも「生きたい」と願う日が来るのだろうか。

 ニコは浅い眠りから目を覚ます。全身が重苦しいがそれは当たり前のことで、上半身裸のユリウスがニコの薄い体に覆いかぶさるようにしがみついて眠っていた。

 ユリウスは相変わらず、ときたまニコを呼び出しては抱く。

 彼の上官であるベルマンがニコをスパイのように使おうとしてきたこと。ユリウスがニコに特別な便宜を図ったり、引き換えに同性愛関係を持ちかけようとしているのではないかと疑っていること。教えてやる義理もないのでニコはユリウスに話していない。一方でばか正直にベルマンの言いなりになる理由もないので、ときおり書庫に現れ様子を探ろうとするベルマンにも何も話してはいない。

 だが、おそらくユリウス自身も危険な橋を渡っている認識はあるのだろう。ユリウスがニコを呼び出すのは、二人の仕事場や宿舎からはかなり離れた場所にある資材小屋だ。

 そこには再利用するための古材に紛れて廃棄されたマットレスがあり、持ち込んだ毛布をかけ簡易のベッドにしてあるので寝心地は悪くない。少なくとも最初に抱かれたときのように、コンクリートであちこち打ち身や擦り傷を作るようなことはなくなった。

 そして何より嫌悪すべきことだが、ニコの体は今ではたまにユリウスとの行為に反応しさえする。これは異常なことなのか、それとも一年近くも抱かれ続ければ当然のことなのか、ニコにはわからない。

 触れられた場所から電気が流れるような感覚、思わず唇からこぼれそうになる吐息や甘い声。ニコはそれらすべてを嫌悪しているし一切の反応をユリウスに気取られたくない。いつだって必死に体を固くして、唇を噛んで堪える。

 しかしユリウスの指に反応して形を変える場所を隠すことはできないし、そこからとろとろと溢れ出すものを止める術を知らない。押し入られてもどかしい場所だけをじわじわと擦り立てられれば、刺激に慣れた体はもっと奥に欲しがり、ニコの意思とは関係なく腰はゆるゆると揺れて深い繋がりをねだる。行為に慣れれば慣れるほどニコの屈辱は増すばかりだ。

「……ん」

 小さく呻いて、ユリウスが身じろいだ。起きるのかと思い身がまえるが再び寝息が聞こえはじめる。ユリウスが外して置いた腕時計に目をやると、門限まではまだ少しある。何も起こして機嫌を悪くさせることもないだろう。

 男らしくたくましいユリウスの体はずっしりと重く、熱い。まだ冬は完全に終わったわけでもなく、隙間風の入る粗末な資材小屋に裸で寝ているはずなのに、ユリウスと触れ合っているときは不思議と寒さを感じない。

 ユリウスが寝息を立てるたび肩に置かれた頭がかすかに揺れて、つられて動く明るい鳶色の髪がニコの首筋や頰をくすぐった。起きているときは冷たく乱暴なのに眠ればこうしてすがりついてくる。威張りくさった顔をしていても寝顔はニコと同じ年齢の青年で、あどけなさすら感じさせるほどだ。

 こうしてユリウスの寝顔を眺めているとき、ニコはどうしようもない恐怖を感じる。ときおりふと、その寝顔の中にかつての少年の姿を探してしまう。お気に入りのぬいぐるみを抱く子どものように自分の体にしがみついてくる、不器用で孤独な少年――もうどこにもいないはずの友人の姿を知らぬ間に探し求めている自分に愕然とする。

 こんな気持ちを抱いてしまうのも、少しずつ家族を失った実感が遠くなるのも、「死にたい」という気持ちが薄れていくことすら、もしかしたらユリウスの魂胆通りなのだろうか。ニコは彼の思い通りに生死への意志すら操られてしまうのだろうか。

 息が苦しいのは眠る男の体の重みのせいだけではない。ニコは少しずつ自分がばらばらになっていくような気がしている。意思と気持ちと体と何もかもが乖離して自分が自分でなくなっていくような不安に襲われる。

 ふと動かした手が、固く冷たいものに触れた。視線を動かすとそこにはユリウスのガンホルダーがあった。黒光りするピストルがのぞいている。

 ユリウスはニコを抱くとき、上半身だけ裸になりいつもズボンは脱がない。しかし動く邪魔になるようで、銃や短剣を入れたホルダーは外す。普段はもう少し離れた、ニコの手が容易には届かない場所に置いてあるのだが、今日はうっかりしていたのか体のすぐ横に無造作に置きっ放しにしてあった。

 ニコはそろそろと体を動かし、ユリウスが目を覚まさないことを確かめながら上半身を起こすと鉄の塊に手を伸ばした。ホルダーから引き抜いたピストルは見た目よりもずっしりと重く、手触りはひんやりしている。

 何も知らず寝息を立てるユリウスを見下ろす。

 こいつは兄さんを死に追いやった男。こいつは僕たち家族を裏切り、すべてを台無しにした男。このまま日々が過ぎて感情が鈍ってしまう前に、まだ憎しみが憎しみとして鮮やかに胸の中にあるうちに、自分が唯一家族のためにしてやれることは――。

 ニコはユリウスの額に銃口を押し当て息を止めた。

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