74. 第4章|1944年・アウシュヴィッツ

 ユリウスは額に冷たいものが押し当てられるのを感じていた。目を開くまでもない、それが銃口だということはわかっている。

 ニコは今どんな顔をしているのだろうか。最愛の相手が激しい憎しみに燃えた目で自分を見下ろしている姿を想像してみるが、不思議と気持ちは穏やかだった。

 心のどこかで「撃て」と思った。そうすればユリウスは楽になれる。ニコが少しでも救われるならばさらにいい。意識していたわけではないが、もしかしたら自分は心のどこかでこうなることを期待してニコの手が届く場所にガンホルダーを置いたのかもしれない。

 数秒、数十秒。やがて額から銃口が離れ、頭上から小さなため息が聞こえた。ほっとしたようながっかりしているような不思議な思いは胸の奥にわだかまったまま、ユリウスはしばらく眠ったふりを続けるしかなかった。

 戦況は確実に悪化していて、すでに東部戦線は撤退に向かいつつある。ソ連の進軍を恐れて国境に近い場所から少しずつ収容所が閉鎖され、そこにいた親衛隊員や被収容者はドイツに近い施設に移動してきている。その際できるだけ収容所は破壊する。特に、後ろめたいことをやっている場合はより念入りに――。

 以前から定員オーバーだったアウシュヴィッツはさらにひどい状況で、複数ある処理施設クレマトリウムは能力いっぱいに稼働しているし、わざわざガスを使うまでもなく衛生状態と栄養状態の悪化で人はどんどん死んでいく。ここもいつまで持つのかわからない。トレブリンカやソビボルといった大きな収容所が反乱ののち閉鎖されたことを思えば、アウシュヴィッツに同じような未来を見るのは決して悲観的すぎる考えではないだろう。

 いつまでこうしていられるのだろうか。それは最近のユリウスにとっていちばんの悩みだった。収容所での暮らしは日々罪を重ねることとイコールで、しかしユリウスにとっては犯す罪と引き換えに手に入れた楽園でもある。例え自分のことを憎んでいるにしたって、ニコが手の届く場所にいてこうして触れることもできる。

 ニコを抱いているときにそのまま死ねるのならばどれだけ幸せだろう。だが、自分がここで死ねばニコを守る人間はいなくなるし、ニコを生かしてここから出すという誓いを守れなくなるのだ。

 ユリウスは目を開くとのろのろと体を起こした。ニコは隣で膝を立てて座り、小さな窓の外をぼんやりと眺めていた。ユリウスのピストルは元どおりの場所に収まっていて、さっき額に感じた銃口の感触すら夢だったのではないかと思うほどだった。

「ニコ」

 名前を呼ぶとニコは顔をユリウスの方に向ける。たとえささやかな感情すらユリウスに分け与えることはしなくないのだろう、ニコの表情からは喜びも悲しみも、憎しみすら読み取ることができない。

 ユリウスは散らばった衣類を拾い上げるとニコに放り投げた。

「そろそろ戻るぞ」

 ニコは黙ったまま衣類を身につけはじめた。その体のあちこちに、たった今ユリウスが刻みつけた紅い痕跡が残っているのを見てユリウスはせめてもの満足を味わう。

 そっと視線を動かすと細く白い左の前腕部には収容者番号の刺青。すっかり見慣れ、番号も覚えたそれから視線を外し、次に自分の左脇に目をやる。ちょうど腕で隠れるあたりに親衛隊員の証である血液型の刺青があった。そう、自分たちの体には永遠に消えない断絶の証が刻み込まれている。

 ささやかな喜びはそこで消え去った。

 

 冬が終わるのを合図にしたかのように東西からの猛攻勢がはじまった。

 東を見れば、ソ連がバルト海沿岸部やルーマニア、そしてポーランドのドイツ占領地域を徐々に支配下に置いていき、西では六月に連合軍がフランスのノルマンディーに大部隊を上陸させた。東から西から攻撃の手は激しくなり、誰もが言葉にはしないが将来の敗戦や、連合軍への講話の可能性について考えはじめていた。

 そんな中、ヒトラーの暗殺未遂事件が起こった。

 七月二十日午後、ベルリンの総統大本営で行われた会議の席で大規模な爆発が起こったという情報が各地の部隊を駆け巡り、それは当然アウシュヴィッツにも伝わってきた。

「会議室は完全に爆破されて、死人も出たらしい」

「総統閣下はご無事なのか?」

「ソ連の空爆か? それとも、まさか」

 当初は錯綜していた情報は少しずつ明らかになっていく。現場では速記者や軍幹部が数名死亡したが、幸か不幸かヒトラー総統は軽傷を負ったのみですんだ。当初は敵軍の攻撃かと思われたが、まもなくそれが国防軍グループによるクーデター未遂だったことが判明し、夕方にラジオが正式に「ヒトラー暗殺未遂失敗」の報を流した。

 日付が変わった頃には早くも暗殺計画の首謀者のうち四名がベルリンで銃殺され、翌日以降あちこちの部隊で計画に携わったと思われる者の自決や逮捕が相次いだ。

 ユリウスを何より驚かせたのは、リーゼンフェルト大尉がベルリンへの出頭要請を受けたことだった。

「嘘だろう……」

 事件の翌々日に出勤すると、部屋も荷物もそのままに、幕僚部からは大尉の姿だけが消えていた。人事の人間がやってきて、大尉は今回の暗殺計画の関係者と個人的に連絡を取っていた形跡があるのでベルリンで尋問を受けることになるのだと言った。

 以前ここで話をしたときにリーゼンフェルトが口にした国防軍人の名前を思い出す。クラウス・フォン・シュタウフェンベルク――それはまさしく今回の計画の首謀者とされる男の名前だった。リーゼンフェルトはその名を挙げて「若い友人」「正義感が強く気も強い」と話した。そしてユリウスに「おまえには国防軍の方が向いていたかもしれない」とも。

 まさかリーゼンフェルトが、鉄十字勲章を持ち、回復不能な傷を負ってまで国のために戦った大尉が国に背くなどありえない。だが、クーデターというのは国を思う者こそが起こすのだと今のユリウスは理解している。あのヒトラーだってかつてはクーデターに失敗して服役し、後に人々はそれを愛国的行為と褒め称えた。

「やっぱりな、大尉のことは俺はどうも怪しいと思っていたんだ」

 誰もいなくなった部屋を眺めてベルマンがつぶやいた。ムッとしたユリウスが横顔をにらみつけてやると面白そうに見返してくる。

「どうした。保護者がいなくなって不機嫌なのか、シュナイダー坊ちゃん」

 諌める大尉がいなくなったからか、明らかにその口調は調子に乗っている。ベルマンが、ユリウスを何かと庇いだてする大尉のことを内心で面白く思っていないのは以前から知っていたが、今の態度はあまりに露骨だった。

「まだ事情を聞かれているだけです。何も決まったわけじゃないのに、その言い方はまずいんじゃないですか」

 ユリウスは怒りを押し殺して答えるが、ベルマンはすでにリーゼンフェルトの有罪を確信しているかのような態度をとった。

「数日もあれば結果は出る。俺は有罪を確信しているがな。国防軍人なんかとつるむから変な影響を受けてこんなことになる。大尉は戦争のセンスはあったようだが、どうもオツムの方が見合っていなかったんだな」

「黙れ!」

 ユリウスは椅子を蹴り立ち上がった。あんまりな冒涜だ。許せない。拳を握り腕を振り上げる、その瞬間、廊下で大きな物音がした。

 ハッとして腕を止めると、目の前でベルマンがニヤニヤと笑っていた。

「なんだ、殴らないのか?」

 その声色に自分が煽られていたのだと気づく。ユリウスは唇を噛みながら拳を下ろすと再び椅子に腰掛け激しい感情を落ち着かせようと何度か深呼吸を繰り返した。

 ベルマンはユリウスを挑発し問題を起こさせそうとしていたのだ。ただの尋問段階とはいえ収容所職員のほとんどはクーデター集団への大尉の関与を疑っていない。もしここでベルマンの目論見通り手を出せば、ユリウスまでも疑惑の対象にされてしまうかもしれない。

 危うく自制心を失いかけたが、偶然の物音に救われた。ユリウスはちらりと廊下に目をやる。そこには、廊下に散らばったファイルの束を拾い集めるニコの姿があった。

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