76. 第5章|1950年・西ベルリン

 周囲の社員が片付けをはじめるのに気づき時計に目をやると、終業時間を過ぎていた。ニコは確認途中だった原稿を封筒に戻し、机にしまうと席から立ち上がる。

「お疲れさまです」

 あいさつをして事務所を後にしようとすると、先輩の女性社員が声をかけてくる。

「ニコ、今日もこれから学校なの?」

「はい」

「毎日偉いわね。がんばって」

 ささやかなねぎらいの言葉が嬉しくて、思わず頬がほころんだ。授業までは少し時間がある。どこかのカフェで昨日の復習でもしながら時間をつぶそうか。学校の近くにある数件の店を思い浮かべ、その中でも一番コーヒーが安い店の席が空いていれば良いと願いながら道を急ぐ。

 ニコはもうすぐ二十五歳。西ベルリンで夜間学校に通いはじめてからは、もう二年目になる。

 勤務先である小さな出版社の社長から「学校に通ったらどうだい」と言われたときには、正直あまり気が進まなかった。中等教育の途中で学校を離れて十年以上経ち、いまさら年の離れた人々と一緒に授業を受けることなど考えてもみなかった。しかし、社長が教えてくれたのは大人も多く通い学費も比較的安い夜間学校だった。一度見学だけでもと言われて訪れると懐かしい教室の雰囲気に胸が躍った。

 戦争で学校に行きそびれた人はたくさんいるのだから、君が気後れする必要はない。地道にがんばれば大学にだって行くことができるかもしれない。そんな話を聞いているうちに、遠い昔にあきらめた学業への夢が少しずつふくらんできた。教室では老若男女が学んでいて、大都会ベルリンの多様性のおかげもあってニコの存在が浮くこともなかった。

 ウィーンを離れてからはもう三年。あのときニコは記憶を取り戻したユリウスからとにかく一秒も早く離れるべきだと思いつめた。

 ハンブルクで離ればなれになってからウィーンにたどり着くまでにニコと彼の間に起こったことはあまりに残酷で重く、到底説明することはできそうになかったし、記憶を取り戻したユリウスと、どんな顔でどうやって生活していけばいいのかは見当もつかない。

 行き先も考えず飛び出し、気づけばドイツに向かう電車に飛び乗っていた。ユリウスが一緒でなければドイツでの暮らしを怖がる必要はない。彼との思い出が残るハンブルクやミュンヘンには戻りたくなかったので、ニコは首都ベルリンへ向かった。

 ほとんど文無しでたどりついたベルリンで、最初は夜を明かす場所にも困った。なんとか日銭を稼ぐ仕事にありつき、親切な人々との出会いのおかげで今の仕事を紹介された。

 その間にはソ連によるベルリン封鎖とドイツの東西分裂が起きた。ニコが暮らすベルリンの街は東ベルリンと西ベルリンに分割され、東西二つの世界の境界線となった。それを新しい――〈冷たい戦争〉のはじまりと呼ぶ人は多いが、ニコにとって軍事衝突のない世界はそれだけでも平和なものに思えた。

 小さな出版社でニコはちょっとした雑用や原稿のチェック、そして簡単な翻訳の補助などを任されている。ニコには経験も専門技術もないが、戦時中に身につけた外国語が今身を立てる助けになっているのは皮肉としか言いようがない。

 最初のころはいつもウィーンのことを考えて過ごした。ユリウスは無事だろうか。記憶は完全に戻ってしまっただろうか。ひとりで生きていくことができるだろうか。しかしユリウスは大人の男で、病気も怪我も治りニコが支えなければ生きていけない時期はすぎた。彼の周りにはシュルツ夫人もいれば、新しい友達も、仕事もあるのだ。

 新しい生活が軌道に乗るにつれて、ウィーンのことも、ユリウスのことも思い出す回数が減っていった。そもそもユリウスのいびつな関係を考えれば、一緒に過ごした日々の方が不自然で奇妙だったのだと、最近になってようやくニコは過去を割り切れるようになった。

 家族をすべて失い、アウシュヴィッツにいる頃は毎日死ぬことばかりを考えていたし、なぜ母と妹といっしょに死なせてくれなかったのかとユリウスを恨んだ。だがこうして平和な時代に戻ってしまえば、日々にはささやかな喜びがあふれている。朝起きて天気が良いこと。花壇の花が美しいこと。職場で同僚と笑いあうこと。学校の友人とコーヒーを飲んで、授業のわからなかった部分について話し合うこと。それらすべて、生き延びたからこそ味わうことのできる感情だ。

 もちろん家族を失った痛みは永遠に消えないが、それでもニコはようやく過去を割り切り、前を向いて新しい人生を歩く覚悟を決めていた。

 しかし、突然の訪問者がニコの平和な日常に亀裂を入れた。

 その日ニコが学校を終えて安アパートに戻ろうとすると、建物の入り口当たりに見慣れない人影があった。都会の、しかも家賃の安い区域なので決して治安は良くない。もしかしたら強盗かもしれないとニコは身がまえた。人影がなくなるまでどこかで暇をつぶしてくるか、それとも早足ですり抜けるか、迷った挙げ句にとりあえずその場を離れようとしたところで、ニコに気づいたその人物が声を上げた。

「ニコ!」

 突然名前を呼ばれて心臓が飛び出しそうになる。今の会社の同僚と夜間学校の仲間以外、この町に知り合いなどいない。誰かがニコを待ち構え名を呼ぶとすれば――それは望まざる人物だ。ニコはきびすを返して走り出した。

 あっ、と驚いたような声とともに、その人影も走り出す気配があった。

「ニコ、こら待て。逃げるな!」

 その声を無視して走る。捨て去ったはずの暗い過去が追いすがってくる、そんな恐怖に襲われニコは必死に逃げた。ここで捕まれば、ようやく手に入れた平和で平穏な日々を失ってしまう。

 しかし相手は存外に足が速く、数ブロックほど走ったところで後ろから腕をつかまれた。ニコの細い腕をとらえた手は小さいがゴツゴツと力強く、振りほどこうとしたところで勝ち目がないことを瞬時に悟る。

 観念したニコはおそるおそる振り返って相手の顔を確かめる。首の後ろでひとつに結んである栗色の髪。こぎれいとはとても言えない服装に壊れかけたブーツ。一見人好きするようにも見えるそばかすの目立つ顔。ニコはそれが誰であるかを知っていた。

「ニコ、俺を覚えているだろう?」

「知りません」

 ハンスの断定的な問いをニコは即座に否定した。またこいつだ。最初に会ったときから気にくわなかった、図々しくて無神経でお節介焼きのオーストリア人絵描き。

「嘘をつくな。『またおまえか』って顔に書いてるぜ。あのときと同じ、おまえは感情が顔に出るからわかりやすいよ」

 かっと頭に血が上る。

 ハンスは最初に会ったときのことを言っている。ユリウス――当時はレオと名乗っていた――に勝手に仕事を紹介した新しい友人の存在が不安で、一度会わせろと家に案内させた。その頃のニコはユリウスとの間の「兄弟関係」を維持するのに必死でいたにも関わらず、ハンスは「おまえたちの兄弟関係は不自然だ」とか「見た目もまったく似ていない」とか穏やかでない台詞を連発してニコを怒らせたた。そして今も変わらず、ニコの気分を逆なでするのはとんでもなくうまい。

「離してください。あなたのことは本当に知らない。僕のことは放っておいてくれ」

 何とか腕を振りほどこうとするニコにハンスは顔を寄せた。だがそこ浮かぶのはあのときのような、人をからかうような意地の悪い表情ではない。ハンスはいたって真剣だった。

「……ニコ、本当にいいのか?」

 不気味な物言いにニコはたじろいだ。それを続きを聞く意志があるという意味に都合良く誤解したのか、ハンスは小さな深呼吸をしてから切り出した。

「レオ……いや、本当の名前はユリウスだな。いまだに呼び慣れなくて、どうも気持ち悪いな」

「聞きたくない!」

 ニコは叫んだ。

 ハンスがニコの前に姿を現した時点で、要件はユリウスに関係するものであろうことはわかっていた。でも、そんな名前聞きたくない。その名前こそ、ニコを決別しようとしている過去に引き戻す禁断の言葉だ。

「ニコ、話を聞いた上で関わりたくないのならそれでいい。あいつだっておまえに知られることなんか望んじゃいない。だけど、誓っていいが聞かずにいるとおまえが後悔するぞ」

「聞きたくないって言ってるだろう」

 ニコは自由な方の手で耳を塞いだ。知りたくない。関わりたくない。でも、一体ユリウスの身に何が起きたというのだろう。

 ハンスはそれ以上ニコの拒絶の言葉に耳を貸さず、言った。

「あいつは出頭したぞ。今はミュンヘンで拘留されてる」

「え?」

 ニコは思わず耳に当てた手を離す。何かの聞き間違いだと思った。

 出頭?

 誰が。どこに。何のために。

「ナチの親衛隊員として戦争犯罪に関与した罪で、近々裁判にかけられるそうだ」

 ハンスは辛そうにつぶやくと、視線を地面に落とした。