77. 第5章|1950年・西ベルリン

 シュンシュンと白い湯気を吐き出しながらやかんが震えはじめる。ニコははっとして火を止めると、コーヒーの瓶を開けた。

「悪いな」

 差し出されたマグカップを受け取りハンスが礼を言う。

 結局あのまま立ち話で終わらせることもできず、ニコはハンスをアパートメントへ連れて来てしまった。ほとんど客を招いたことのない部屋にこの男が座っていることにはひどい違和感を覚える。まるで時間が三年分巻き戻ってしまったような、それは恐怖にほかならない。

「ニコ、おまえはあいつの過去を知っていたんだよな?」

「あなたこそ、何を聞きにきたんですか?」

 コーヒーを何口かすすったところでおもむろに質問を切り出したハンスに、ニコは質問で返す。さっきハンスはレオと口に出しかけて、ユリウスと言い直した。少なくとも本当の名前は知っているということだ。ユリウスは何もかもをこの男に話したのだろうか。だが、ハンスは小さく肩をすくめて見せる。

「知らないよ、ほとんど何も。二ヶ月前にあいつが急にいなくなるまでずっと、奴の名前はレオで収容所解放者のユダヤ人だって話を疑ったことはなかった」

 ユリウスはニコがいなくなったあともウィーンでレオポルド・グロスマンとしての生活を続けていた。毎日仕事にでかけ、人付き合いをし特段変わりない様子で過ごしていたが、二ヶ月前のある日突然姿をくらませた。

 残された手紙には、自分が本当はユリウス・シュナイダーという名前のドイツ人であることと、かつてナチ親衛隊に所属し強制収容所に勤務していたこと、周囲の人々を数年にもわたって騙していたことへの謝罪が書かれていた。

「俺も大家のばあさんも驚いたよ。そして何より心配した。元親衛隊だろうがなんだろうが、何年も親しく付き合った仲だ。で、さんざん探してミュンヘンにいることを知った。でも、わざわざミュンヘンまで面会に行ったのに突然出頭する気になった理由も何も話しちゃくれない。ただ自分は罪を犯したから裁きを受けるの一点張りだ」

 ハンスはそこまで話してため息をついた。

「あいつは何ひとつ申し開きをしようとしない。嫌がるところに無理やり弁護士だけでもつけたが、自分はアウシュヴィッツで働いていた、戦後は実在するユダヤ人の名前をかたって逃げていた、としか言わないんだから、このままじゃ検察の印象も最悪だよ」

「だったら、どうなるんだ?」

 ニコは思わず身を乗り出した。

 自分はユリウスのことを甘く見ていたのかもしれないと思う。ニコがいなくなっても、記憶を取り戻しても、それなりに折り合いをつけてうまくやっていくのだろうと思い込んでいた。まさか自分から出頭しようとは想像だにしていなかったのだ。

「弁護士の先生が『ユリウス・シュナイダー准尉』について調べているが、今のところあいつが直接の残虐行為に関わっていたという証拠はない。だが、逃亡のやり方が悪質だと思われる可能性はある。さすがに死刑はないだろうが、下手するとそれなりに長い懲役をくらうかもしれないって聞いたよ」

 戦後、ドイツではまずニュルンベルク裁判、そしてニュルンベルク継続裁判でナチスの主要戦犯が裁かれた。それとは別に、アウシュヴィッツの所長だったルドルフ・ヘスや特に残虐だったと言われる一部の看守はポーランドに送られ、彼らが多くの人を死に追いやったまさにその場所で死刑に処された。

 裁判は主要戦犯だけを相手にしているわけではない。占領中は連合国による戦争犯罪裁判が行われたし、占領が解かれたあとも法に基づいてドイツ自身が戦争犯罪に関わったとされる親衛隊員を見つけては裁き続けている。与えられる刑罰は被告の残虐行為への関与度合いによって、数ヶ月の禁固刑から死刑まで幅広いようだった。

「何にせよ、話さないってのは厄介だ。個人の戦争責任についてはいろんな考え方があるだろうし、あいつの言っていることが事実ならばそれに見合った裁きは受けるべきだとは思うよ。でも俺は友達だから、投げやりになって相場以上の罰を受けようとしてる姿はどうも痛々しくてさ」

 そして、懇願するような口調でハンスは言った。

「なあニコ、おまえはあいつの過去と、なぜあいつが他人の名前を騙っていたかを知っているんだろう? そして、おまえがウィーンからいなくなったことと、あいつの過去との間には何か関係があるんだろう」

 ニコは、屈託なしに友人を救おうと動いているハンスをうらやましく、妬ましく思った。自分だって立場が違えばハンスと同じように純粋な気持ちでユリウスを救おうと考え行動できるのだろう。しかし記憶を取り戻してユリウス・シュナイダーに戻ってしまった彼に対するニコの気持ちはそう単純ではない。

「そんなに知りたいなら話すけど……」

 ニコは口を開いた。

「レオポルド・グロスマンは僕の兄の名前だ。兄は一九三八年に、僕の幼馴染みだったユリウス・シュナイダーの密告でゲシュタポに連行されて、二度と戻ってこなかった」

 ハンスが息を飲むのがわかった。こんな話、今まで誰にもしたことがない。いざ言葉にするとユリウスが自分の兄を死に追いやった事実はひどく重く感じられた。

「その密告がきっかけで残された家族もゲシュタポに目をつけられポーランドに逃げた。でもじき戦争がはじまって……戦争が終わったときには両親も妹も死んで、僕しか残っていなかった」

 そして、ニコは「あのとき」「あそこで」ユリウスを――しかしその話は誰にもしたくない。

「記憶を失った彼と戦後再会して、死んだ兄の名前を与えたのは僕だ。収容所を出たばかりで僕も混乱していたんだ。死んだ兄の名で生きさせることが復讐になると思った」

「復讐?」

「ささやかな嫌がらせのつもりだったよ。でも、ユリウスが記憶を取り戻しそうになって――嘘がばれる前に僕はウィーンを去った。それだけの話だ。悪いけど裁判に証人として出廷するつもりもない。もう全部終わったことだし、僕には彼をかばう理由もない」

 ハンスの顔つきは険しく、ニコが「復讐」という言葉を口にするたびに眉間にきつい皺を寄せて痛みをこらえるような表情を見せた。

「……俺も戦争に行ったからわかるけど、戦争の中で人は思いもよらないことをするものだ。だからもしおまえの言うことが事実だとしても驚かない。だがニコ、おまえはどうしてあいつを連れてわざわざウィーンに来たんだ? どうしてあいつがおまえの知らない人間と関わることを警戒していたんだ?」

 やはりこの男は苦手だ。躊躇なく矛盾を突いてくるハンスにニコはできるだけ平静を装って首を振る。

「偶然だよ。ウィーンでは仕事を紹介してもらえる予定だったから。兄の名前を名乗らせてしまった以上、彼をミュンヘンに置いて行くわけにもいかなかったし」

 ハンスはため息をつき、カップを手に取ると数度口に運んだ。

「それでも俺には、おまえがユリウスを守ろうとしていたとしか思えないよ」

 どうにかしてニコの良心に訴えかけ、ユリウスの逃亡に悪意がなかったという証言をさせたい気持ちがひしひしと伝わってくる。ニコはひどく居心地の悪い気分で、やはりハンスをここへ連れて来たのは間違いだったと思った。

「あいつは親衛隊に入る前は、ベルリンのナポラにいたらしい」

 ハンスが続けたのは、ニコにとっても初めて聞く話だった。アウシュヴィッツで再会した後のユリウスは一度として、ニコがハンブルクを去って以降どこで何をしていたかについて話さなかった。故郷の街のギムナジウムに通っていたはずの彼が、いつどうして親衛隊に入ることとなったのか、それはやはり彼が変質してしまったからなのか。気にしつつもニコからも訊ねはしなかった。

 だが、ハンスは少しだけ笑いの形に唇を歪めながら意外なことを言い出した。

「弁護士が会ったナポラの同級生曰く、あいつは変わった奴だったって。将来は党で出世したいって奴が多い中で、なぜかあいつだけは総督府に行くことにこだわっていたらしい。クラクフに行くためだけにナポラに来たんだと」

「え……?」

 ニコは一度だけ送ったはがきのことを思い出す。

 ハンブルクから逃げてしばらく経った頃、自分がクラクフにいることがわかるように、十四歳のニコは宛先と消印しかないはがきを祈るような思いで故郷の友人へ送った。そうすればきっと約束を守って幼馴染みは自分を助けにきてくれるのだと――。

「そうだ、あと、故郷に好きな奴がいるけど、そいつは遠くへ行ってしまったって話してたらしい」

 喉が苦しいのは感情がこみ上げるからだ。ニコはそれをぐっと飲み込むと、まだ三分の一ほど中身が入ったマグカップをハンスの前から取りあげて中身をキッチンのシンクにあけた。

「……帰ってください。あなたが何を言おうと僕はもう彼に関わる気はありません」

 ハンスはまだ何か言いたげな様子だったが、ニコの頑なな態度の前にそれ以上食い下がることをせずアパートを出て行った。ただし、去り際に彼が無理やりユリウスにつけた弁護士の連絡先を書いたメモを置いていくことだけは忘れずに。