78. 第5章|1950年・西ベルリン

 ユリウスの裁判の話は、ニコの心の中に引っかかり続けた。

 彼があの恐ろしく残虐なナチ親衛隊の一員であったのは確かだし、ニコは彼が移送されてきた人々の命を選り分けている現場にすら立ち会った。罰を受けるのはある意味当たり前のことで、死刑になるわけでもないのだから気に病む必要はない。自分自身に何度もそう言い聞かせて、しかしハンスの残していった弁護士の連絡先を処分することもできないまま数日が経った。

「ニコ、ニコったら」

 肩を叩かれてはっと顔を上げる。寝不足が続いているせいか、仕事中にぼんやりしてしまっていたらしい。あわてて顔をあげると先輩社員が心配そうに見下ろしている。

「珍しいわね、ぼんやりして」

「すみません」

「社長のところにお客様だから、コーヒーをお持ちして」

 ニコはうなずいて、すぐに給湯室に向かった。お茶出しは基本的にニコの仕事だ。慣れた仕草で手早く淹れた二人分のコーヒーをトレーに載せる。最初の頃は加減がわからず泥のように濃くなったり、お湯のように薄くなったりしたが、最近ではニコの淹れるコーヒーは美味しいと言われることも増え、そうするとただのお茶出しも楽しい仕事になった。

「失礼します」

「ああ、悪いな」

 声をかけて応接室に入り、話の邪魔にならないようそっとコーヒーカップをテーブルに置くと、社長が横目でニコを見て礼を言った。つられたように客人の若い男もニコをちらりと見る。そして彼は驚いた表情を見せた。

「君……ニコじゃないか?」

「え?」

 妙なことが続く。ハンスに続いてまた突然名前を呼んでくる人物に出くわした。だがこの間との違いは、ニコがその男に心当たりがないことだった。

「何だ、君たち知り合いか?」

「ええと、あの」

 社長の客であるだけに、つれなく「知らない」で済ますこともできずニコは答えよどんだ。困ったような表情にニコの心情を悟ったのか、男が会話に割って入る。

「ニコ、覚えていないか? 昔、ハンブルクで、ときどき君のお兄さんのところに遊びに行っていたブルーノだ」

「あ……ああ。言われてみれば、なんとなく」

 名前までは記憶はしていないもののその顔にはなんとなく覚えがあった。ハンブルクで暮らしていた最後の頃によく兄の元を訪れていた若者グループ。その中に確かにこういう顔の人物がいたような気がする。

 ブルーノは懐かしそうにニコの手を握りしめた。

「良かった。君には是非一度会いたいと思っていたんだ。でも、あれきり行方がわからなくて……」

「あの」

「あ、すみません」

 興奮した様子の男は、戸惑うニコがちらりと社長に目をやるのを見てあわてて手を離すと、話を中断して勝手にニコと話をはじめたことを社長に謝る。しかし、ニコが戦時中に家族を失ったユダヤ人であることを知っている社長は穏やかに言った。

「いや、構わんよ。せっかくの再会じゃないか。仕事の話が終わったらもう一度ニコを呼ぶから、少し懐かしい話でもしていけばいい」

「はい……」

 ニコはありがたいような迷惑なような、何とも言えない気分になった。死んだ兄の友人といまさら何を話せというのだろう。しかし当然ながら社長の厚意を前に断ることなどできない。

 やがてニコは再び応接室に呼び込まれ、入れ替わりに社長は席を外す。ブルーノと差し向かいで、ニコはひどく気まずい気分で下を向いた。ブルーノもさっきの嬉しそうな表情とは打って変わって困惑したような表情を浮かべていたが、やがて話を切り出した。

「ニコ、君が無事で良かったよ。他のご家族……ご両親や妹さんもいたはずだが?」

「父はポーランドで。母と妹は収容所で……」

 ニコが濁した言葉の先を察して、ブルーノの表情は暗くなった。

「そうか、残念だ。もちろん君のお兄さんのことも」

「……いえ、昔のことですから」

 ほら、昔の知り合いと会ったところで、こんな話しかできない。家族は全員死んだと言えば相手は気まずく黙りこむ。

 だがブルーノは暗い顔のまま少しの間、迷っているかのように視線をさまよわせていたものの、やがて覚悟を決めたように口を開いた。ニコはそこでようやくブルーノはただの思い出話や世間話ではなく、何か話したいことがあったのだと気づいた。

「こんな言葉で許されるとは思っていないが、本当にすまなかった」

 ブルーノはそう言って頭を下げた。

「レオのことは僕たちにも責任がある。正義感に酔いしれてあんな危ないことをしようとして、しかもいざというとき一番目をつけられそうなレオを巻き込んだ。彼は賢くて勇敢だったからつい頼ってしまったとはいえ、あんな結末になって……」

 平謝りするブルーノを前に、ニコはうろたえた。だって意味がわからない。レオをゲシュタポに売ったのはユリウスだ。ニコと抱き合い互いの体に触れているところをレオに見られ、叱られ殴られ二度と会うなと言われたことに逆上して通報したのだと言っていた。なのにブルーノはレオについて一体何を謝ろうとしているのだろう。

「すみません。あんなことって」

「ニコ、君は何も聞いていないのか。そうか」

 唖然とするニコに、ブルーノは困ったような顔を見せたが、ぽつぽつと経緯を話した。

「僕たちはドイツ人とユダヤ人の反ナチの若者で連携するグループを作っていた。あの頃ハンブルクでユダヤ人専用ベンチに落書きされる騒ぎがあったのを覚えているか?」

 ニコはうなずく。ユダヤ人が一般のベンチから締め出され「ユダヤ人専用」と表示のあるベンチにしか座れなくなってしばらくした頃、その表示に大きなバツ印が落書きされる事件があった。確か犯人は見つからないままだ。

「あれも僕たちの仕業だった。些細なことだが反抗の証だと思っていたよ。ご両親の留守が多いからとレオは僕たちの会合に場所を提供してくれて、だから頻繁に君の家に訪れた。レオも危険な行為に兄弟を巻き込みたくはなかったようで、君たちを避けるような態度を取っていたよな」

「それは、覚えています」

 あの頃レオは年上の友人たちと親しくなり、ニコがその輪に入ることを嫌がった。よそよそしい態度を不満に思い、ユリウスに愚痴をこぼしたことを覚えている。ブルーノは、あのときレオと友人たちは反ナチ運動の計画を立てていたと言っているのだ。

 そして、ブルーノが次に口にした言葉はニコをひどく驚かせた。

「大規模なビラ撒きを計画していた矢先、イレーネが裏切った。彼女は怖くなったんだ、もし自分たちの行動がばれたときにどうなるか。もしかしたら誰かに危険だと警告されたのかもしれない……そして彼女は僕たちのうちユダヤ人メンバーに責任を被せようとして通報した」

 イレーネ。その名を耳にした瞬間、金の巻き毛の美しい女性の姿が鮮やかに脳裏に蘇る。幼い弟の目から見ても兄は彼女に夢中だったと思う。その仲の良さには少し嫉妬してしまうくらいだった。そのイレーネが?

「そんな……だって彼女は、兄さんの恋人だった」

「そうだ。でも僕が言っていることは事実だ。君だって、あの頃が残酷な時代だったことを知っているだろう?」

 残酷な時代、その言葉を否定することはできない。優しかった学校教師が、親しく話しかけてきた友人が、どんどんニコを避けるようになっていった。だが本当にレオをゲシュタポに通報したのがイレーネなのだとすれば、ユリウスは? ユリウスがレオをゲシュタポに売ったと話していた、あれは一体どういうことなのだろう。呆然とするニコに、よっぽどショックが大きいと思ったのかブルーノは謝る。

「すまない。急にやってきてこんな話ショックだよな。でも君だけでも無事で良かったよ。僕らは友人なのにレオを救えなかった。それどころか我が身可愛さで一緒に名乗り出ることすらできなかった。君の友人とは大違いだ」

「……何のことでしょうか」

 君の友人――唐突なひと言の意味を図りかねて聞き返す。テーブルの下、膝に置いた手が震えはじめるのが自分でもわかり、何とか落ち着こうとぎゅっと握りしめる。自分は今きっと、とても大切なことを知ろうとしている。

「ゲシュタポが君たち家族の連行を決めたとき、僕らは何とか逃がそうとした。だがあまりに急なことだったからなかなか協力者も見つからなくて、すんでのところで車をあの、工場を持っていたドイツ人の……名前が出てこないが、君の友人の父親が」

「……もしかして、シュナイダーさん……?」

 ニコは呆然とつぶやいた。当時のニコの友人というのはたったひとりしかいない。そして、その父親は確かに工業部品の工場を経営していた。でも――。

「そうだ、確かそういう名前だった。彼が自分の工場に出入りする業者を使うよう手配してくれた。とにかくあわただしかったから、正確なところは君のご両親にも伝わっていなかったのかもしれないな」

 信じられない気持ちだった。ユリウスは父親を嫌っていた。日和見主義者でいくじなしで、商売のことしか考えていない嫌な奴だとよく愚痴をこぼしていた。ユダヤ人に対しても決して好意的とはいえず、実際にニコとの友人付き合いも控えるよう言われていたはずだ。だが、そのシュナイダー氏が、自分たち家族を逃がす手助けをしてくれたというのだ。

 ニコは混乱した。これまで聞かされていたこと、信じていたことと、今ブルーノが話していることはあまりにかけ離れている。兄を売ったのはユリウスではなかったのか? ユリウスとブルーノ、どちらかが嘘をついている、もしくは大きな勘違いをしている?

「失礼ですが、ブルーノ、それはすべて本当のことですか?」

「ああ、君に嘘なんかつくものか」

「でも信じられない。兄さんを通報したのがイレーネ……」

 ブルーノは少しためらってから、言った。

「ニコ、もし直接会いたければ彼女はベルリンにいるよ」