79. 第5章|1950年・西ベルリン

 さんざん悩んだが、ニコは結局イレーネを訪ねることにした。連絡先はブルーノが教えてくれた。

 もしイレーネがレオを裏切ったというのが本当なのであればニコが会いたいと言ったところで簡単に応じてくれるはずもないだろうと思っていた。しかし電話に出たイレーネは意外にもニコの希望をあっさりと聞き入れて「あまり人目につくのは嫌だから」と、平日の昼間に自分の家に来るように言った。ニコはその日仕事を休まなければいけなかった。

 イレーネの家は西ベルリンでも高級な住宅街にあるアパートメントの一室だった。結婚して夫と住んでいるのだという。普段足を踏み入れることのない瀟洒しょうしゃな建物の中に入るだけでニコはひどく緊張し、気後れしてしまう。

「こんにちは」

 ドアを開け朗らかな笑顔でニコを迎え入れたイレーネは相変わらず美しかった。もう三十歳は超えているはずだが相変わらず金の巻き毛は輝きを放ち、鮮やかな色のぴったりとした服がきゅっと腰の締まった体型を引き立てていた。

「すみません、お時間を取っていただいて」

 もっと悲壮で罪悪感に満ちた出迎えを想像していただけに、ニコは狼狽した。相変わらず美しい彼女と趣味のいい調度品を前にしてますます場違いな気分になる。

 イレーネはニコにソファを勧め、コーヒーと菓子を出すと向かい側に腰かけた。ニコは礼を言うが、とてもではないが出されたものに手をつける気にはなれない。とにかく要件を、本題を切り出さなければとわかっているのだが、優雅な雰囲気に飲まれて言葉は喉奥に張りついたままだ。

「あなた、ブルーノに会ったのね」

 うつむいてもじもじするばかりのニコにしびれを切らしたように、先に口を開いたのはイレーネだった。ニコは小さく「はい」とうなずく。

「で、わたしを断罪するために来たの?」

 断罪。兄を裏切ったことが事実ならば、当然ニコはイレーネを責める気持ちを抱くだろう。だがそれが訪問の目的なのかと言われれば素直に首を縦にふる気持ちにはなれない。

「……わかりません。ただ、僕はあなたの口から本当のことを聞きたいんです」

「本当のことって、あなたブルーノが嘘をついていると思っているの?」

「実は、以前に兄の連行の原因を作ったという話を別の人から聞いたことがあって。僕はずっとそれを信じていたから今は混乱しているんです」

 ニコは率直な気持ちを告げた。ハンスの話、そしてブルーノの話を考え合わせると、どうしようもなく落ち着かない。ユリウスが親衛隊員になる道を選んだのが、ニコへの約束を守るためだったのだとすれば? レオをゲシュタポに通報したのがユリウスだというのが何かの間違いだったとすれば?

 アウシュヴィッツで再会して以来ユリウスとの間でわだかまっていたものが何もかも間違いだったかもしれないなんて。だとしたら、今まで自分は一体――。

 イレーネはテーブルからたばこの箱を手に取り、とんとんと指先で底を叩いて器用に一本取り出した。装飾のついた華奢なライターを使い慣れた仕草で火をつけ、たばこを口に運ぶ姿はまるで映画女優のようにまぶしく見える。そして彼女は映画に出てくる美しい悪役のように微笑んだ。

「要するに、レオを死に追いやった犯人が誰かをはっきりさせたかったってわけね。本当に憎む相手が誰なのか知りたいの?」

 彼女はまるでニコの中の敵意や憎しみを煽るような態度を取る。同じような物言いをどこかで聞いたことがあった。それはアウシュヴィッツでユリウスがニコに向かってレオを告発したのは自分だと告げたとき。あのときのユリウスもどこか今のイレーネと似たような投げやりな雰囲気を漂わせていた。

「心配いらないわ。その人は何か勘違いしてるか、あなたをからかってるのよ。レオを通報したのはわたしで間違いない。反ナチのビラを撒こうとしているユダヤ人青年がいるって電話をかけたのよ。連行の前日だったわ」

 イレーネははっきりとそう言い切った。もちろん予想していた答ではあったが、ニコの心の半分はイレーネの言葉に傷つき、残りの半分は安堵した。レオが命を奪われるきっかけを作ったのがユリウスでないことは正直いって嬉しい。しかし兄の恋人であったイレーネの裏切りが事実であるとすれば――連行されていくレオの後ろ姿を思い出しどうしようもなく悲しくなる。

「どうしてですか。あなたは兄の恋人だったんですよね? なのにどうして通報なんて」

「子どもだったのよ。自分のやっていることがどれだけ危険かわかっていなかった」

 きっぱりとした言葉にかちんときた。子どもだったからことの重さをわかっていなかった。そんなことで簡単に彼女はレオを裏切ったというのか。子どもといってももう十七、八にはなっていたはずだ。あの時代にゲシュタポへ反ナチ活動を行うユダヤ人を告発すればその後どうなるかくらい想像はついたはずだ。

「子どもだったって……人の命を奪うのに、それが理由になりますか?」

「理由になろうがなるまいが事実なのよ。幼稚な正義感に酔って自分に世界が変えられると思っていた。でもある日わたしたちの計画に気づいた両親に泣きながら説得されたの。それではじめて自分がどれほど危険なことをやろうとしているか知ったわ」

 戦時中にミュンヘン大学で反ナチスのビラをばらまいたショル兄妹やその仲間たちがどうなったかはニコだって知っている。一九三八年当時はまだ締めつけが多少は緩やかだったとして、もしレオやイレーネたちのグループが摘発されるようなことがあれば、ドイツ人メンバーだって無傷ではすまなかったのは確かだろう。

 だが、レジスタンス運動というのはそんな覚悟すらなく行うものなのか。「怖くなったから」と仲間を売るような、その程度の気持ちで。

「だったら、あなたは最初から参加するべきじゃなかったんだ」

 ニコは声を絞り出した。覚悟がないなら、後で恋人を犠牲に差し出すくらいならイレーネはグループに加わるべきではなかった。そうすれば兄はあんな目に遭わずにすんだ。もしかしたらニコの家族は誰も死ぬことなく、そしてユリウスは親衛隊を目指すこともなく――。

 イレーネはそんなこと知っているとばかりにうなずき、たばこの煙をひとつ大きく吐き出した。そして彼女は今日はじめて、取り繕った女優のような物腰ではない感情的な物言いをした。

「そうねニコ、あなたの言う通りよ。でも、だったらあなたは子どもの頃の行動に何ひとつ後悔はないの? 愚かなことは何もせず、常に賢く理性的に振る舞う賢い子どもだったというの?」

「それは……」

 ニコが言葉に詰まるのを見て、イレーネははっとしたように表情を変えた。

「ごめんなさい、あなたを責めたいわけじゃないの。ただ……」

 彼女の表情に暗い後悔の影がにじむのを見て、ニコはイレーネも言葉ほどには過去の自分自身を肯定してはいないのだと察した。もしかしたら彼女も彼女なりに罪を背負い、痛みを抱えたまま生きているのではないか。

 もちろん兄を裏切った彼女に対して優しい気持ちにはなれない。ただ、ニコは今自分がここにやってきた目的が断罪ではないことをはっきりと意識した。彼女を謝らせたところで兄や家族が戻るわけではない。彼女がレオを通報したという事実、今も過去を悔やんでいること――それ以上を求めたって虚しいだけだ。

「お忙しいところ、お話ありがとうございました。僕、もう帰ります」

 ニコが立ち上がるとイレーネも特に引き留めはしなかった。

 玄関で別れ際、ニコはふとひとつだけどうしても聞きたくなった。ドアノブに手をかけたまま振り返る。

「最後にひとつだけ教えてください。あなたはあの頃、兄のことを好きでしたか?」

 祈るような気持ちだった。兄は最後までイレーネを信じていただろうか、それとも彼女の裏切りを知って絶望の中死んだのだろうか。ニコには決して真実はわからない。ただせめて、兄が信じていたはずのイレーネとの愛がまったくの偽りではなかったのだと思いたかった。

 イレーネは少し考えてから「好きだったわ、とても」とつぶやいた。遠くを見るような、過去を懐かしむような表情を浮かべた彼女は花のような笑顔を見せた。だがその笑顔は一瞬で枯れて、寂しさの中に消える。

「でもきっと、ただ好きだっていうだけの子どもの恋愛だった。そんな幼稚な感情のために危険を顧みず、命すら投げ打つことができる人間なんているのかしら?」

 ほとんど独り言のような問いかけだったが、ニコはイレーネの顔をまっすぐ正面から見つめた。その答えならば知っている。

 ニコは自分が勇敢でも誠実でもないことを知っている。家族を救うために命を投げ出せるのか悩んだこともある。母と妹のために他人を犠牲にしようと思ったこともある。自分がもしイレーネの立場だったら、もしかしたら彼女と同じような行動を取ってしまったかもしれないとも思う。

 でも――彼は、彼だけは違った。

「います。そういう人が……僕には、いたんです」

 思いがけない強い言葉にイレーネの顔が歪み、ニコは一瞬彼女が泣くのではないかと思った。しかし気丈なイレーネは涙を流す代わりに、それでもなんとか笑顔を見せた。

「そう。ニコ、あなたは、きっととても幸運なのね」

 ニコはゆっくりと手を伸ばし、イレーネもそれを握り返す。きっと自分はもう二度と彼女に会うことはないだろう。そんなことを思いながらニコはやはり自分が今日ここに来たことは正しかったのだと確信した。

「さよならイレーネ。お元気で」

 玄関の扉が閉まると一気に緊張がゆるんでニコの膝はがくがくと震えはじめた。よろめくようにアパートメントの外まで出ると、人目も気にせず路上にへたり込む。

 ユリウスじゃなかった。

 兄をゲシュタポに通報したのはユリウスじゃなかった。

 ニコの中で長い間わだかまっていたものが、溶けていく。

 知っていた。ユリウスがあの移送者の列で意図的にニコを生き残れる側に選別したこと。ひどい言葉ばかりを口にしながら、ニコに食べ物を与え野外のきつい労働から救い出してくれたこと。アウシュヴィッツ撤退の際に彼の持っている中で暖かい衣服はすべてニコに着せてくれたこと。雪の中で動けなくなったニコを背負い引きずって、決して見放さなかったこと。

 ユリウスは幼い少年の頃からずっとニコを助け続けた。そして「迎えにいく」という子どもの約束を愚直に守り、離れている何年もの間もただそのためだけに考え、行動し、実際にあんな遠くへ、収容所の中にまで迎えにきてくれた。

 そんなこととうの昔に知って、それでもユリウスがレオを死に追いやった事実はニコの心のわだかまりを完全に解いてはくれなかった。ニコだけではない、きっとユリウスもずっとそれを気に病んでいたのだ。

 ユリウスがあんなにも頑なに自分がレオを死に追いやったと言い張るには、事情もしくは大きな誤解があったのかもしれない。そしてニコもその事実ではない話を信じてユリウスを憎み、しかし結局は憎みきれず、かといって記憶を取り戻した彼と共に居続けることもできなかった。

 一体自分たちは今まで何に振り回されてきたんだろう。ニコはすぐにハンスが置いていったメモに記載された弁護士の番号へ電話をかけることにした。

 もう、すべてを話す覚悟はできている。

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