81. 第5章|1945年・ダッハウ

 アウシュヴィッツを離れたニコがユリウスに連れられ数週間かけてたどりついたのはミュンヘン近郊にあるダッハウ強制収容所だった。

 たどり着くまでの道のりは収容所内の生活とは別の意味で地獄だった。アウシュヴィッツから鉄道駅のある街へ向かうまでの道は収容所職員と被収容者に埋め尽くされ、雪の積もる道に点々と脱落者の死体が転がった。

 その多くは寒さに力尽きたり足手まといになると判断され銃殺された被収容者たちだったが、ときには軍服を着たままの親衛隊員が凍死している場面にも出くわした。凍りついた死体を見るたびぎょっとしていたのも最初のうちだけで、やがて慣れて何も感じなくなる。

 ユリウスは常にニコを隣に並んで歩かせた。休憩するときはニコが凍えないよう顔や手足をひたすら擦ってくれた。ニコが弱音を吐けば怒鳴りつけ、ときにその体を引きずり背負ってただ前に進んだ。ようやくたどり着いた鉄道駅で乗り込んだ列車は数日にわたって動き出す気配を見せず、配給もない中で残り少ない食料はほとんどニコの口に押し込まれた。

 ニコはもう、何がなんだかわからなかった。兄を死に追いやり、自分を裏切って親衛隊に入った幼馴染がいまさらなぜこうまでして献身的に助けてくれるのか。罪ほろぼしのつもりなのか、それとも。

 以前ユリウスは言った。レオがユリウスとニコの間を引き裂こうとしたから、その復讐のためにゲシュタポに通報したのだと。ニコの中で少年時代のユリウスに対する感情には名前をつけられないままでいる。しかしユリウスはニコが思っていたよりずっと強い気持ちでニコのことを思っていたのだろうか。友情や正義感だけでは片付けられない、もっと切実な感情で。

 だがニコはその疑問を口にはしなかった。ユリウスが自分のことを好きだったから、愛していたから、そのために兄が死んだ――それは目を背けたい事実だった。そして、もしユリウスが今もニコのことを同じように思っているのだとして、それでもユリウスはニコにとっては家族をなくす原因を作った仇である事実は変わらない。

 いざダッハウにつけば、ニコは再び被収容者、ユリウスは管理側の立場になる。既に指揮系統もめちゃくちゃで労働奉仕すらほとんど行われていない。収容所の物資不足はアウシュヴィッツ以上に深刻で収容棟には飢えと病気が蔓延していた。一方で米軍がダッハウに迫っているという噂は囚人たちを勇気づけた。

 以前ほど頻繁ではないが、それでもユリウスはどこから手に入れたのか多少の食料を携えてニコの様子を見にきた。そのたびにニコは、ユリウスが囚人である自分以上にひどく消耗していることに驚かされた。

「ユリウス、君……もしかして胸を……」

 肺の奥から出てくるような嫌な感じの咳を繰り返すユリウスは、アウシュヴィッツを出発したときより痩せたように見える。しかし、思わず心配の声を上げたニコをユリウスは冷たい声で制する。

「何でもない。おまえには関係ない」

 ユリウスにはもうニコを無理やり抱くような体力も残っていない。いつだって少し顔を見るだけで満足したように引き上げていった。

 やがて冬の寒さが緩み、四月も終わりの日曜日のことだった。突然どこかから大きな音が響いた。破裂音、銃声、ニコは再び戦争が激しくなったのだと思い身がまえた。だが、それは戦争ではなかった。

 誰かが「解放だ! アメリカが来たぞ!」と叫んだ。

 その声に、動くことすら辛そうだったはずの被収容者たちが一気に元気になり建物の外に飛び出していく。ニコは解放という言葉が信じられずしばらくの間室内に止まっていたが、やはり様子が気になってたまらず、おそるおそる外に出た。

 そこはアウシュヴィッツ撤退の時など比べようもないほどの騒ぎだった。

 遠くでは砲撃の音、激しい銃声が聞こえる。連合軍が抵抗する職員を攻撃しているのだろうか。そして、いたるところで逃げ惑う収容所職員を被収容者たちがリンチしていた。完全に情勢は逆転している。これまで虐げられてきた恨みを晴らすように人々は殴り、武器を奪い、撃っていた。

 ニコは解放というのはもっと平和で喜びに満ちたものなのだと想像していた。しかし暴力を終わらせるのも結局暴力でしかない。目の前に広がっているのはただの戦争の続きだった。

 目の前の光景をただぼんやりと眺めていたニコは、はっとする。そういえば、ユリウスはどこにいるんだろう。

 なぜここでユリウスのことを気にしてしまうのかは自分でもよくわからなかった。唯一の知り合いだから。アウシュヴィッツから連れ出してくれたから。最後まで見届けなければいけない家族の仇だから。そんなことはどうでもいい。ニコは親衛隊の兵舎の方へ歩きながらユリウスの姿を探した。心の中では――ユリウスが既にここから逃げていればいいと、そう祈りながら。

 だが、祈りもむなしくニコはやがて自身が収容されていた棟からほど近い路上にぼろぼろになって打ち捨てられているユリウスを見つけた。

 鳶色の髪にはべっとりと血がついて、頭にひどい裂傷を負っているのがわかった。激しい暴行を受けたのだろう、制服は血と土埃にまみれ左脚はありえない方向に曲がっていた。

「ユリウス……」

 ニコの声は震えた。一瞬、もう死んでいるのだと思った。だが、しゃがみこみ体に触れて何度も名前を呼ぶと声に応じて目を開けようとしているのか少しだけ鳶色のまつ毛が震える。

 どうしよう、と思った。

 兄を殺した男。家族の運命を変えた男。ニコを裏切り何度も辱めた男。敵であるナチスの親衛隊員。

 しかし、ユリウスはここまで自分を連れてきてくれた。そして何より、いざ死にかかっているユリウスを見てニコの胸は張り裂けそうに痛んだ。だって、父さんも母さんも、兄さんも妹も失った自分にとっては、もうユリウスしかいない――。

 理由も根拠も、今は考えていられない。ただ彼を死なせたくないという感情だけで、ニコはできるだけ頭の怪我に触らないようユリウスを抱え引きずるように移動させた。痩せたとはいえニコより背が高く体格に勝るユリウスは重く、人目のない場所に連れて行くのは容易ではない。それでもニコは必死の思いで、何とかユリウスを目立たない作業小屋に運び込んだ。

 敷くものはないので汚れた床にじかに寝かせる。しかし連れて来たはいいがニコに治療の覚えなどあるはずもなく、ただおろおろと顔をのぞき込むことしかできない。

「ニコ……」

 不意にユリウスがうっすらと目を開けた。ニコは思わず大きな声を上げてユリウスを責めた。

「ユリウス、なんで逃げなかったんだ! こうなるってわかってたんだろう!」

 敵軍が迫ればドイツ兵が酷い目に遭うだろうという予想は、ユリウス自身が頻繁に口にしていた。わかっていてなぜ逃げなかったのか。悔しさと苛立ちでニコは唇を噛む。

 だが、ユリウスは怒りと恐怖で震えるニコの手をそっと握り微笑んだ。ユリウスがこんな風に穏やかに微笑むのを見るのは、再会して以来初めてのことだった。

「良かった、無事で。米軍が来た。もう大丈夫だ」

 ニコは言葉を失った。

 ユリウスがなぜあんな場所にいたのか。敵軍の到着に本来ならすぐに逃げるべきだと知りながら、ユリウスはそれでもニコの無事を確かめたくて、ニコにもう大丈夫だと伝えたくて収容棟へ向かっていたのだ。

 ユリウスは浅い呼吸をしながら暴徒に奪われないまま腰に残っていたピストルを震える手で指し、ニコに言った。

「ニコ、俺を殺してくれ。……そして、行け」

 その声に激しい怒りがこみ上げた。

 ふざけるな、と思った。

 家族を奪って、何もかも奪って、殺してくれといくら頼んでもこの身を守り続け生き延びさせ、そのくせ最後には自分だけ「殺してくれ」だと。冗談じゃない。どこまでわがままで、どこまで自分勝手な男なのか。

「だめだ」とニコは言い切った。

 いつの間に流れはじめたのか、ニコの双眸からは熱い涙がぼろぼろと頬を伝いユリウスの血で汚れた軍服を濡らしていく。

 ニコは泣きながらユリウスに訴えかけた。

「君はアウシュヴィッツで言っただろう、僕を死なせないと。同じだ、君は僕の家族を奪ったんだから最後までその責任を取れ。僕より先に死んで楽になることなんか絶対に許さない。……僕は、君をこんなところでいかせたりしない」

 その言葉の最後まで聞こえていたのかはわからない。手を握ってくる力が弱くなったと思ったらユリウスは再び意識を失っていた。呼吸はしているが、頬を叩いても反応はない。

 ニコは焦った。助けを、医者を呼ばなければユリウスはやがて死ぬだろう。でも外は敵だらけだ。どうすればいい? 今、助けを得られるとすれば方法は――。

 ニコはユリウスを隠したまま作業小屋を飛び出した。もはや無法地帯と化した収容所の中を走り管理棟に向かった。混乱に乗じて備品の棚からピンの箱を取り出し、ランプやインクの瓶を取る。被収容者用の衣類を適当につかみ再び息を切らして小屋に戻った。途中、米軍兵たちが容赦なくドイツの軍服を着た男たちを撃ち殺しているのを見て、湧きあがるのは快哉ではなく恐怖だった。

 だめかもしれない。でも、可能性があるとすれば、これだけだ。

 ニコは意識を失ったままのユリウスの体を持ち上げた。できるだけ頭を動かさないようにしながらそっと親衛隊員の制服を脱がせる。アウシュヴィッツで抱かれていた頃に何度も見た裸体はずいぶんやせ衰えて、至る所に裂傷やひどい打ち身ができている。おそらく何ヶ所も骨折しているだろう。ズボンを脱がせた左脚は膝から下が潰れたようなひどい有様で思わず目を背けたくなった。できるだけひどい傷口を目にしないで済むように、すぐに持って着た縦縞の囚人服のズボンを履かせた。

 ニコは自分の左袖をまくりあげた。そこには忌まわしい六桁、アウシュヴィッツの管理番号が刻みこまれている。そして見下ろすユリウスの左脇には親衛隊員の証明である血液型の刺青。

 大丈夫、同じようにやるだけだ。ニコは何度か深呼吸をしてからインクの瓶に針を浸すと、ユリウスのむき出しの腕に思い切って差し込んだ。肉に針が食いこむ感覚に本能的な恐怖で背中がすっと冷たくなるが、そんなことを気にしている場合ではない。ニコは自分の腕の刺青を眺めながら注意深く、ユリウスの腕によく似た印を刻みつけていった。

 最後のひと針を終えると、新しさは目立つものの一見そう違和感のない「囚人である証拠」がユリウスの腕に刻み込まれた。今は病院も混乱しているだろうからきっと気づかれない。何とかなる。ニコは自分に言い聞かせてもうひとつの重要な作業に取りかかった。

 ユリウスの腰から外したベルトに刺さっていた短剣を取り出し、ランプの火で炙ってじりじりと金属が焼けるのを待つ。真っ赤になった刃をユリウスの脇に近づけるときには、針を刺す以上の恐ろしさで手が震えた。

 ジュッと肉が焼ける音がして嫌なにおいが鼻をつく。しかし完全に意識を失っているユリウスは目を冷まさない。ニコは何とか少しの間こらえてからナイフをユリウスの体から離した。そこにはひどい火傷ができ、親衛隊員の証である刺青を覆い隠していた。

 細工に使ったものを捨てに行き、その帰りにニコは親切そうなアメリカ兵に目をつけ、必死の形相で訴えかけた。

「助けてください! 兄が、兄が死にかけているんです!」

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