83. 第5章|1950年・ミュンヘン

 ユリウスには懲役五年の判決が下された。

 ニコの証言が採用された結果、戦後の逃亡については悪質性が低いと判断された。主体的ではないもののアウシュヴィッツで移送者の選別に関与したことなどから執行猶予なしの懲役刑となったが、控訴をする気はさらさらなかった。

 ユリウスはニコが自分をかばおうとしてくれたことを直接本人の口から聞いて密かな喜びを感じた。しかし自らの罪にニコを巻きこんでしまったことについてはどうしても許せないままでいる。

 ニコの証言はユリウスの刑を軽くしたが、犯人隠匿それ自体が罪であるためニコは起訴されることになった。おそらく情状が考慮されて実刑にはならないだろうと弁護士は言うが、自分が勝手な判断で出頭したことで回り回ってニコにまで前科をつけてしまった。ユリウスは、この期に及んで自分がまたひとつニコに対する罪を重ねてしまったことを悔やんだ。

 刑が確定したとニコが報告に来たのは、ユリウスが刑務所に移送されてしばらく経ってからのこと。今度こそもう二度とニコの人生の邪魔をしないと決めていたユリウスはニコの面会に応じるべきか悩んだ。しかし結局は「もう一度だけ会いたい」という欲望に負け、最後だと心に決めて面会室へ向かった。

 ニコは面会室で、緊張した面持ちで落ち着かなく視線をさまよわせていた。刑務所の独特の雰囲気に圧倒されているのかもしれない。

 アウシュヴィッツで囚人として扱われていたのはニコだが、ここで檻の中にいるのはユリウスだ。覚悟していたものの惨めな気持ちは抑えきれず、ユリウスはあの頃ニコがどんな思いで自分と向かい合っていたのかについていまさらながら胸を痛めた。

 ユリウスが腰かけると格子の向こうのニコは口を開いた。

「禁固六ヶ月に、執行猶予がついたよ。控訴はしない」

「そうか」

「心配しないで。職場の人たちも理解があって、今回のことを知った上で仕事を続けていいって言ってくれているんだ。僕は何も困っていない」

 裁判所では離れた場所に立っていたし、しっかり正面から向き合うことはなかった。こうして二人で話をするのはウィーン以来だろうか。しかし後ろめたさからユリウスはニコの顔をまっすぐ見ることができない。ニコが気遣いを見せれば見せるほどユリウスはいたたまれない気持ちになった。

「話はわかったよ。もう行ってもいいか?」

 ユリウスが早々に面会を切り上げようとした、そのときだった。ニコが覚悟を決めたかのようにユリウスに問いかけた。

「待ってユリウス。教えて欲しいんだ、君がレオを、兄さんをゲシュタポに通報したときのことを」

 心のどこかで予想はしていた。

 公正なニコは彼自身のやってしまったことに耐えきれず、良心の呵責から裁判で証言をしたのだろう。だが決してレオを殺したユリウスのことを許したわけではない。ここに今日やってきたのも、もしかしたら直接断罪するためなのかもしれない。だが、平和で平穏な日々からニコに過去の憎しみを呼び戻したのは他の誰でもないユリウス自身だ。これで最後なのであれば、何もかも話すのが加害者としての自分の義務なのだろう。ユリウスは覚悟を決めて遠い記憶を呼び出した。

「あの日……おまえに触れているところをレオに見られた日、二度とニコに会うなと言われて俺は逆上した。今思えばレオの言っていることは正論なんだけど俺はこういう性格だから……瞬間的に激しくレオを憎んでしまった」

「それで、警察に行ったの?」

 噛みつくようにニコに問われ、ユリウスは首を左右に振った。当時の幼く感情的な自分を思い出すと恥ずかしくてたまらない。しかし今の自分があの頃より成長したかといえば、そう言い切れる自信もなかった。

「殴られた顔を見てどうしたのかと訊ねてきた父さんに、レオにやられたって言った。俺の父はニコの家に俺が出入りすることをよく思っていなかったから、レオが俺に暴力を振るったという話を鵜呑みにしてそのままゲシュタポに伝えたんだろう。数日後にレオが連行された」

 ユリウスが最後まで言い終わる前に、ニコの唇はわなわなと震えはじめた。怒りだろうか、悲しみだろうか。どんな感情をぶつけられても受け止めるつもりでいたユリウスに、しかしニコは意外にも否定の言葉を口にした。

「違う」

 その意味がわからないユリウスには構わず、ニコが身を乗り出し堰を切ったように話しはじめる。

「ユリウス違うんだ! 君じゃない。兄さんをゲシュタポに通報したのは君でも、君の父さんでもない。君がレオに殴られたと話した直後に兄さんが連行されたのはただの偶然だったんだ。君は、ずっと犯してもいない罪のために苦しんでいた」

「ニコ。一体何を……?」

 ユリウスにはニコの訴えている内容を理解することは難しかった。十四歳のあの日からずっとレオが連行されたのは自分のせいだと思っていたのに、いまさら「偶然」などと言われてもにわかに信じることはできない。それどころかニコは優しさゆえにとうとうこんな嘘までつくようになったのかとますます罪悪感が大きくなるくらいだ。だが動揺するユリウスにニコは続けてまくしたてる。

「兄さんの恋人だったイレーネを覚えている? 彼女だ。兄さんと仲間たちは反ナチ活動を行う地下グループを作っていて、あのときイレーネが兄さんを裏切ってゲシュタポに通報した」

「ニコ、もういい。作り話はよせ」

「嘘じゃない! 兄さんの友人と偶然ベルリンで会って聞いたんだ。僕だって最初は信じられなかったからイレーネにも直接会いに行った。嘘だと思うなら君の父さんにも聞いてみてよ」

 ニコはあまりに必死で、その勢いにユリウスは気圧けおされる。

 イレーネ。レオの美しいドイツ人のガールフレンド。まさか彼女がレオをゲシュタポに売ったというのか。レオが連れ去られ、死んだのは自分の言葉が原因ではなかったというのか。信じたい気持ちと信じられない気持ちの間でユリウスは唖然としてただ黙り込んだ。その目を正面から見つめニコは、今度は少し落ち着いた口調で言った。

「それだけじゃない。僕を、僕たち家族をハンブルクから逃がす車の手配をしてくれたのが誰だか知ってる? 君の父さんだ。君の父さんは兄さんを通報したりなんかしていない。むしろ僕たち一家を救おうとしてくれた」

「そんなの嘘だ……」

「嘘じゃないって言ってるだろ。全部間違いなんだ。君が長い間ずっと罪悪感に苦しんでいたことも、僕が君を家族の仇として憎んだことも」

 ユリウスはおずおずと顔を上げニコの目を見た。まなざしは嘘をついているとは思えないくらい真剣で、あたたかい。だが、しばらく見つめ合った後でニコの表情は少しだけ曇った。

「ハンスに聞いてはじめて知ったよ。君が僕を迎えに来るという約束を守るために親衛隊に入隊してあんな場所まで来てくれたってこと。それに、自分の身を危険にさらしてまでずっと僕を助けてくれた。……なのに僕は君にひどいことばかり」

 ニコの言葉が本当なのであればユリウスは救われる。だが、それと引き換えにニコは自分自身が誤解のままにユリウスを憎んだことを悔やみ、責めることになる――そのことに気づくと、ユリウスはやはりやりきれない気持ちになった。

「ニコ、それは違う。おまえが自分を責めるのは間違ってる。俺があのときレオを憎んでいっそいなくなればいいと思ったのは本当のことだ。俺はおまえが言うような良い人間じゃないし、ばかで、浅はかで、間違い続けた結果おまえを巻き込んで、犯罪者にしてしまった……」

 ユリウスがニコを見れば自分の罪や後悔と向かい合わざるをえないのと同様に、ニコもユリウスと向かい合うと自分自身を責めずにはいられない。それを知ってしまえば、やはり自分とニコはもう関わるべきではないのだという思いが強くなる。

 ユリウスは未練を断ち切るように言う。

「ニコ、もう二度とここには来ないで欲しい。俺も二度と会いには行かないから」

「そんな、でも」

 ニコは言い返そうとするが、ちょうどそのとき看守が面会時間の終わりを告げた。ニコは唇を噛んで、立ち上がり扉へ向かうユリウスを見つめていた。

「さよなら、ニコ」

 最後にひと言そう告げて、面会室を後にした。

 ユリウスは奇妙な夢を見ているような気持ちで部屋に戻った。レオを殺したのは自分ではなかった。父親でもなかった。それは正直ユリウスの心を少しは軽くした。だが、ユリウスが積み重ねてきた罪はそれだけではない。

 それに、どうしたって自分はニコを幸せにできない。ナチの支配が終わったとしても同性を愛することはこの世の中で普通とは見なされない。ユリウスは今では少年時代の自分がニコの優しさや幼さにつけこんでいたことにも気づいていた。あの頃のニコは決してユリウスと同じような感情でユリウスのことを想っていたわけではない。ただユリウスが都合よく、ニコも自分に恋愛感情を持っていると信じ込んでいただけだ。

 だが、だからといってユリウスがニコを愛することを止めることはできない。ニコが近くにいる限りユリウスは同じことを繰り返すだろう。何しろ記憶を失っても変われなかったのだ。本人の気持ちも考えず、ただニコが欲しくて、ニコを自分だけのものにしたくて何度だって過ちを繰り返す。恐怖と絶望をその顔に浮かべたニコを組み伏せ細い体から血を流させる――二度とやらないといくら誓ったとしても、いつかまた繰り返してしまうだろう。ユリウスはニコと友人にも兄弟にもなれない。それは確かなことだった。

 別れを告げた心は痛む。しかしこの痛みもまた罰だ。抱えて生きていくしかない。

 呆然と部屋の隅でしゃがみ込んでいると、廊下から看守がユリウスの番号を呼んだ。ここではアウシュヴィッツで被収容者が番号で呼ばれていたのと同じように、受刑者は名前ではなく番号で呼ばれる。

「おい、差し入れだ。さっきの面会者から」

 断る間もなく投げ込まれたのは下着や毛布といった雑多な生活用品だった。差し入れを持ってきたのは律儀なニコらしい。きっと見るたびニコを思い出してしまうだろうからこんなもの欲しくはないが、いまさら返す方法があるだろうか。

 とりあえず床に散らばった差し入れを拾い上げながら、ユリウスはふとその中に見覚えのあるものが混じっていることに気づいた。

 革製の小さな袋。ニコが後生大事に持っていたその中身が何であるかをユリウスは知ってる。

 ウィーンでは記憶をなくしていたので、その中に入っていたぼろぼろの紙切れに「迎えにいく」と書かれているのを見つけて、誰かがニコを奪い返しに来るのだと嫉妬して不安に襲われた。あれをニコに送ったのが他の誰でもないユリウス自身だと思い出した今となっては、自分の影に怯えていたことは滑稽にすら思える。

 ユリウスは革袋を握りしめた。ニコは長い間、ゲットー生活の間も収容所にいる間も、どんな思いであのメモを持ち歩いていたのだろう。幼い約束を信じて、ユリウスが迎えに来るのだと信じてずっと待ってくれていたのだろうか。なのに自分はニコを傷つけることしかできなかった。

 ニコがこれをユリウスに返してきたというのは、お守りの役割は終わったということなのだろう。お守りも約束もなしに、今度こそ本当に過去と決別して、ニコはもう自由に新しい人生を生きていける。そしてユリウスのことなど忘れてしまうだろう。それは正しいことだと頭ではわかっているのに、傷つくことは止められない。

 持っているだけ辛いからこんなもの破り捨ててしまおう。ユリウスは震える指で袋の中から触れるだけで砕けそうな古い紙切れを取り出した。そして茶色く変色したぼろぼろの紙切れの折り目を開き――目を疑った。

 ――迎えにいく N

 もともとそこに記されていたはずのイニシアル、ユリウスのJの上には真新しいインクで横線が引かれ文字が消されている。代わりに書き加えられたNのイニシアル。Nはニコ、ニコラスのN。

 紙の隅にぽたりと水滴が落ちる。

 この幻のようなメモが失われてしまわないよう、ユリウスはあわててそれを折りたたみ、元どおり袋の中にしまう。

 失ったものは大きい。ユリウスは何より自分自身で多くのものを壊し傷つけてきた。それはいくら愛のためだと理由をつけたとしても決して許されることはない。

 でも、ニコは。ニコだけは――。

 ユリウスは床に崩れ落ち、突っ伏して泣き出した。人目も気にせず、声を上げて泣いた。

 同室者が面倒くさそうに何やら怒鳴りつけてくる。おおかたうるさいとかそういったことなのだろうが、まったく耳には入ってこなかった。やがて彼らも呆れたのかあきらめたのか、癇癪を起こした子どものように泣くユリウスを放っておくことに決めたようだ。

 その日、ユリウスはニコから与えられた新しい約束の証を握りしめ、涙が涸れるまで泣き続けた。