84. 終章|1955年・ミュンヘン

 五年間は長いようであっという間だ。秋の訪れを感じるその日、ユリウスは出所日を迎えた。

 刑務所での生活は規則正しく、完全に管理された日々はナポラで軍隊式の生活を経験したユリウスには快適なほどだった。おかげで自分の犯したことと比べれば与えられる罰は軽すぎるのではないかとときどき罪悪感にとらわれた。

 どこかで裁判のことを聞きつけたのか父親から何度か手紙が来たが、後ろめたさからユリウスは一通も開封することすらできなかった。空襲の激しかったハンブルクで父が戦争を生き延びたことは嬉しかったが、自分が親衛隊員として多くの人たちの死に関与したことを思えば、父の生存に喜ぶことすら罪であるように思えた。

 一度、ナポラで同室だったラルフが面会に来た。卒業までナポラにいた彼は卒業後に西部戦線に参加したが幸い五体満足で終戦を迎えた。その後は故郷のフランクフルトで大学を卒業して、今は一般企業に勤務しているのだという。

 かつて意気揚々と「戦場で功績をあげて党で出世するんだ」と話していた少年の面影はもうどこにもない。大人になったといえば聞こえがいいが、ラルフの中では何かが完全に枯れ果ててしまった、そんな風にも見えた。

「ユリウス、まさかおまえが戦犯だなんてな」

「それに見合ったことをやったんだ。五年だって軽すぎるくらいだ」

 ユリウスの答えにため息をつき、ラルフは「まあ生き残っただけでも運が良い。俺たちは二分の一だからな」とつぶやいた。

 二分の一、というのは四人部屋のうち生き残ったのが半分という意味だ。卒業を待たずに戦場に行くことを選んだカスパーは東部戦線でソ連軍の捕虜になり、戦後シベリアに送られてそこで死んだ。同性愛疑惑で退学処分になったマテーウスは、終戦直前のベルリンで激しい空襲のなか行方不明になったきりなのだという。

「まさか、あんなに誇らしかったナポラ出身であることをひた隠しに生きる日がくるとは、想像もしなかったよ」

 厳しい中でも和気藹々と過ごした少年時代を思い出してか少しだけ懐かしそうにつぶやいたラルフは、しかし思いを振り切るように首を振った。

「でも戦争はもうまっぴらだ。あの頃は俺たち皆ガキだったよ。まあ、子どもの過ちの代償は俺たちの場合ちょっと重すぎた気もするけどさ」

 出所後何か困ったことがあればいつでもフランクフルトに来れば良いとラルフは連絡先を置いていった。しかしナポラ出身であることをひた隠しにしているラルフを戦犯である自分が訪れることなど想像もできない。ユリウスはすぐに連絡先を捨て去った。

「お世話になりました」

 出所の日、ユリウスは深く頭を下げて刑務所の門を出た。右手には大切なお守りを握りしめているが、周囲を見回しても誰の姿もない。

 迎えがないことに気づき、守衛が声をかけてくる。

「誰も来ないなら車を呼ぶか?」

「いいえ、大丈夫です。少し歩きたいので」

 ユリウスは久しぶりの外の世界を吟味するように、ゆっくり歩いた。

 この日のためにとハンスが新しい服を一式送ってくれた。「いかにも出所者って感じじゃ浮いちまうだろう」という文面。相変わらず率直だが思いやりのある手紙には、行き先がなければこれを使えと、多少の金だけでなくご丁寧にウィーン行きのチケットまでも同封されていた。ユリウスはハンスに貰った服を着て、その上にミュンヘンで療養していた頃にニコがくれたコートを羽織った。

 ハンスは三年ほど前に戦前戦後のウィーンの街を描いた連作で賞を取った。今では国内外で個展を開くほどで、新進気鋭の若手画家としての立場を固めつつあるらしい。最後に面会に来たときにも「金ならうなるほどあるんだから、おまえひとりくらいどうにでもなるよ。気にすんな」と言って笑った。

 ニコは、ニコは――その後どうなったか知れない。

 ユリウスからの絶縁の言葉に従ったのか、二度と面会にやってくることはなかった。そして、差し入れのお礼に一度だけユリウスの側から送った手紙は宛先不明で戻ってきた。

 ニコがくれた「迎えにいく」という手紙はただの社交辞令だったのかもしれない――ユリウスは次第にそう思うようになっていた。何しろ二度と会わないと一方的に告げたのはユリウスの側なのだ。そのくせいまさら迎えに来てほしいなど、自分勝手以外のなにものでもない。

 ときおり、クラクフで暮らしているときのニコはこんな気分でユリウスのメモを眺めていたのだろうかと思うことがあった。期待は徐々に失望に変わり、やがて良い思い出に変わっていく。そういうものなのかもしれない。

 ユリウスはのんびりとバス停まで歩いた。そこからバスに揺られ特に目的もないままミュンヘン中央駅に向かう。

 もう逃げる必要はない。心情的なものはともかくユリウスは法的には償いを終えた。でも、どこにでも行けるのに、自分がどこに行きたいのかがわからない。

 さんざん迷ってユリウスはハンスにもらったウィーン行きのチケットを取り出した。故郷に帰る勇気がないのだから、他に行くあてもない。

 刑務所ではありがたいことに職業訓練を受けることができ、ユリウスは活版工の仕事を選んだ。親衛隊員になって以降ほとんど本を読むことはなくなっていたが、学生時代の一時期本が好きだったことを思い出したのだ。もちろんハンスから「ニコが出版社で働いている」と聞いたことも影響している。

 本に関わる仕事ができればどこか遠くでニコとの繋がりを絶やさずにいられるような気がして、活字を拾う作業は喜びに変わった。頼りっぱなしで申し訳ないが、ハンスは画集も出しているはずだからもしかしたら印刷所のつてを持っているかもしれない。それとも元ナチ戦犯など雇ってくれるところはないだろうか。

 駅の周辺の光景には見覚えがある。そういえば戦後療養を終えて病院を出たあのときも、ここからウィーンへ向かう列車に乗った。まだ少し痛む脚で、見送りの際ニコに上着を贈ったサラを無性に妬ましく思った記憶がぼんやりと蘇る。

 あのときのユリウスは、無力な自分がニコの足手まといにしかならないことを不安に思いながら、それでもただニコと一緒にいたかった。ニコと一緒にいられるのならば、生活の場所はミュンヘンでもウィーンでもどこでも良かった。自分の犯した罪をすべて忘れて、ユダヤ人の哀れな戦争被害者だと信じて、あれは今思えばニコが与えてくれた束の間の幸せな幻想だった。だが、何もかもは過ぎ去ってしまった。

 思い出に浸りながら切符を手に、改札へ向かおうとしたそのときだった。

「どこに行くの?」

 背後から柔らかい、懐かしい声がした。

 これが聞き間違いだったらあまりに辛い。ユリウスは振り向くことをためらった。しかし期待にあらがえず、ゆっくりと声の方に顔を向ける。

「ニコ……どうして……」

 そこにはニコがいた。走って追いかけてきたのか少し息を切らして、ニコがはにかむような笑顔を浮かべて立っていた。

「西ベルリンからの到着が遅れて、聞いていた出所の時間に間に合わなかったんだ。行き違いだって聞いてどうしようかと思ったよ」

 いざ顔を見ると、嬉しくてたまらないのにユリウスは裏腹なことを言わずにいられない。

「……もう会いに来るなって言ったはずだ」

 それはもはやニコの身を案じる言葉ですらなく、自分の心を守るためだけの強がりだ。本当は期待したい。でも期待した挙句にまた失えば、今度こそ立ち直れないほど深く傷つく。だから思わせぶりに優しくしないで欲しい。

 ユリウスはうつむいて、切符を持っていない方の手で顔を覆った。感情があふれ出し自分がどんな顔をしているのかわからない。とにかくニコに見せられないくらいみっともない顔をしていることは確かだ。

 ニコは一歩踏み出し、ユリウスの目の前に立つと戸惑ったように言った。

「だって迎えにいくって約束したから。君は約束を守ってくれたから、僕も守ろうと思って」

「……手紙を書いたのに……宛先不明で戻ってきた……」

 ユリウスは自分が愚かなことを口にしていると知っていた。しかし恨み言にも似た言葉が口から飛び出すのを止めることができない。だって本当は手紙が戻ってきたことにも、あれ以来一度も面会に来てくれないことにも、そして今日門の外にニコの姿がないことにも、ユリウスは落胆し傷ついていたのだから。

 ニコのためにもう会わないとどれだけ決意したところで、自分の心はどこまでも欲深い。ユリウスは自分自身の弱さを完全に認めるしかなかった。

「ごめん、あの後すぐに住んでいたアパートが取り壊しになって引っ越したんだ。まさか君が手紙をくれたなんて知らなかった。うまく言いたいことが伝えられない気がして僕からは手紙は書けなくて……」

 あわてたように謝ったニコは、それでもユリウスが何も言わないので途方にくれた表情でつぶやいた。

「それとも、ここに来たのは迷惑だった?」

 迷惑なんて、そんなはずはない。しかしその気持ちをどう表現すればいいのかわからず、ユリウスはただ首を振って必死にニコの言葉を否定する。

 もう二度と会わないと思っていた。

 あきらめたつもりだった。

 それでも何度も夢に見た。

 夢の中でニコに触れ、幸せに溺れては冷たい部屋でひとり目を覚まして絶望に沈むことを何度繰り返しただろう。いや、刑務所の中だけではない。ユリウスは十四歳の時から数え切れないほどニコの夢を見てきた。いつも、会いたくて触れたくて叶わなくて――。

「これは夢じゃないのか。俺はもう、目を覚まさなくていいのか」

 ユリウスが半分独り言のようにつぶやくと、顔を覆う手にそっとニコが手のひらを重ねてくる。柔らかい動きで促されるようにゆっくり目隠しを外すと、そこではニコが笑っていた。

「悪い夢は終わりだよ、ユリウス」

 そう言って、懐かしい子どものように、初めて会う大人のように、ニコはただ優しく笑った。

「覚えている? 次に目を覚ましたら話をしようって言ったこと。僕には君に話したいことがたくさんあるんだ。もちろん離ればなれだった間の君のことも、全部聞かせて欲しい」

 ニコは固く握りしめたままのユリウスの左手に白い指を伸ばした。それから拳を解くとまずは「約束」の書かれたメモを取りあげ、ユリウスが止める間もなく小さく破り捨て風に流してしまった。もう決して二人離ればなれにならないのならば、これ以上の約束はいらない。

 それからニコはユリウスの手の中に最後まで残されたウィーン行きの切符に目を落とす。

「ねえユリウス、君はどこに行きたい?」

 ユリウスはまだ躊躇していた。自分は本当にニコと一緒に行っても良いのだろうか。再び自分たちはここからはじめることができるのだろうか。

 見つめてくるニコの目はどこまでも優しい。その優しさに背中を押され、ユリウスは愛おしい茶色の瞳をのぞきこみながら勇気を振り絞ってゆっくりと手を開く。ウィーン行きの切符はそのまま風に乗り、どこかへ消えていく。

 そしてユリウスは涙混じりの声で答える。

「ニコの行きたいところなら、どこへでも」

 

(終)
2017.07.01-10.05

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