「心を埋める」本編に出てきた塚本渚嬢(尚人の友人)視点のSSです。
塚本渚は、勤務先の大学であてがわれた研究室のドアを常に開けておくことにしている。空調の都合もあるので常に全開とはいかないが、いつだって完全に閉じることはないよう、インテリアショップで購入した趣味のいいドアストッパーを持参した。
というのも――。
「あの、先生。ここじゃ落ち着かないので、場所を変えてゆっくり話を聞いて欲しいんです。ごはんでも食べながら」
目の前に座る男子学生の視線は熱っぽい。
帰り支度をしている最中に「質問がある」と言って訪ねてきたので、長くはかからないだろうと部屋に入れたのが間違いだった。質問はやがて大学生活でのお悩み相談に変わり、恋愛相談を経て二人きりでの食事へのお誘いに至るまでには二時間かかった。
渚が大学生だった頃も、教員と恋愛関係になっている学生の噂はときたま聞いた。最終的に結婚した、という話もまれにあったっけ。そのほとんどが男性教員と女子学生の組み合わせだったと記憶しているが、いざ自分が教える側に立つと、意外なことに女性教員に憧れを抱く男子学生というのも少なからず存在する。
とりわけ渚のように、生育環境や心理面で困難を抱える児童生徒の支援を研究テーマにしていると、悩み多くかつ自我が未発達な学生ほど「この人ならば自分を理解してくれる」と誤解しやすい。そこから生じる諸々のトラブルを避けるための方策のうちひとつが「扉を開けておく」ことだった。
そして、もうひとつの重要な方策。
「相談ごとがあったらいつでもここに来てもらって構わないし、急ぎだったらメールやメッセンジャーでも。ただ、職場外で二人きりっていうのは、ちょっとね」
にっこりと笑ってかざして見せる左手薬指には、プラチナ台にダイヤモンドがキラキラと光る指輪。
「先生……」
この指輪が今まで見えていなかったわけではないだろうが、あえて誇示されたことで彼はがっくりとうなだれる。渚はあくまで軽い調子で、とどめの一撃を放つことにした。
「私みたいなおばさん教員と君みたいな若い子に何かあるなんてみじんも思ってないけど、それでも夫がうるさくて」
わかりました、と力なく返事して去って行く背中を見送りながら、あっさり引き下がってくれたことに安堵する。
先日はメンタルの不調を抱えた女子学生に「先生を殺して死にたい」と訴えられた。この手の研究をする者の宿命とはいえ、学生と心中するような趣味はない。
彼女のようなタイプには意味をなさないが、結婚指輪の存在は疑似恋愛的な感情を向けてくる男子学生にはこの上なく効果的だ。東京の空の下、今もどこかで元気に過ごしているであろう元夫に感謝を捧げ、渚は改めて帰る準備に取りかかった。
左手薬指の指輪は、昨年離婚してからもつけたままにしているダミーだ。わがまま言って離婚してもらったにも関わらず指輪はそのままだなんて、元夫には申し訳ないが、この業界、指輪ひとつで厄介ごとは半減する。
研究者の先輩方や大学関係者からのセクハラまがいのお誘い。さっきのような夢見がちな学生からのアプローチ。コンプライアンスや女性蔑視を理由に拒絶すれば角が立つところも、笑顔で「夫が」と言えばたいていは仕方ないと引き下がってくれるのだ。
こんな処世術、不要になるのが一番であると理解はしている。でも、理想の社会に到達するにはあまりに長い時間と労力が必要だ。だったら今降りかかってくる火の粉は、できるだけ波風立てずに振り払いながら世の中を渡っていきたい。それが渚のやり方だ。
大学を出て早足で駅に向かう。思わぬ来訪者のせいで、楽しみにしていた大学時代の友人たちとの勉強会にはすっかり遅刻だ。
トイレに行く間も惜しかったので、デスクで軽くリップを塗り直しただけ。まあいい。学生時代に合宿やら徹夜での論文執筆やらで、寝起きのすっぴんだってさんざん見せてきた相手なのだから。
以前はそこまで好きでなかった友人たちとの集まりが、いつからか楽しみになった。研究室を切り盛りする立場になり、多くの学生に対して責任を負うようになって、日々必死に背筋を伸ばし気を張って生活している。だから、気心知れた仲間たちの顔をみるとまるで故郷に戻ったような、ほっとひと息ついた気分になるのだ。
少し前までは、こんな風ではなかった。むしろ渚の存在は友人たちの中で浮いているといって良かった。
渚はいつだって他のメンバーより一歩先を歩いていた。博士論文の提出も、Ph.Dの取得も一番乗り。学振だって一度で通ったし、いち早く大学の常勤職員のポストを射止めた――しかも都内の有名私大。どれも自らの才能と努力と実力のたまもので、後ろめたさはない。そう思う一方で、もし逆の立場だったらと想像すると、周囲が渚に向ける羨望その他複雑な感情を理解することもできた。
居心地の悪さを感じることが少なくなった一番の理由は、ここ一年ほどで友人たちも大学のポストを決めつつあることだ。今日の懇親会も、来学期からの就職が決まった菅沼のお祝い会を兼ねている。
ギスギスとしたライバル心が和らぎ、同じ大学の教員同士ではできない愚痴や相談を気兼ねなく口にできる。それはやはり、学生時代からの友人同士の特権なのだと思う。
電車の中からメッセージを送ると、面々はすでに勉強会を終えて近くの居酒屋に移動したらしい。学生時代より少しランクが上の、けれど高級とは呼べない居酒屋。
大学教員といえば世の中では高給取りに分類される――実際に、特に私学教員は同世代より高額の収入を得ることが多い――だが、その一方で出て行く金も多い。経費精算が面倒で自腹を切るのは自業自得だが、学生たちとの食事や飲み会、研修旅行などで「ちょっと多めに出してやる」機会が多い。そしてその「ちょっと」も回数が多くなれば馬鹿にならないのだ。優雅な暮らしができるのは、テレビや講演、著作など副業で稼ぐタイプだけ。それが現実だ。
マップを頼りにたどり着いた店はそんなに広くない。予約者の名前を店員に告げるまでもなく、一番広いテーブルを陣取る面々を見つけることができた。
ちょうど一番こちら側に座っている菅沼が、渚の到着に気づいて手招きした。
「ごめん、遅れて」
声を掛けて、空いている椅子に座る。
「いつも塚本は重役登場だなあ。俺の会なのに」
すでに顔を赤くしている菅沼は、そう冗談めかした。彼は来月から北関東の国立大学に准教授として勤務する。本人は「都落ち」を自称するが、決して悪い就職先ではない。
「わざとじゃないの。帰ろうと思ったところで学生が質問に来ちゃって。なんだ、遅れたの私だけ?」
「うん。ちょっと遅れた奴もいるけど、揃ってる」
今はほとんどが社会人。平日夜の勉強会に全員が集まるなど無理があると思っていたのに、予想が外れた。
改めてテーブルを見回すと、確かに全員の姿がある。一番奥の席には――相良尚人の姿も。
「相良もいるのね」
つい彼の姿を探してしまうのは、尚人が一時期、徹底的にこの手の場を避けていたからだ。
「いるいる、今日は相良に発表頼んでたから、あいつの仕事の予定最優先で日程決めたしさ」
少し飲んでいるのかほんのり顔を赤らめて、楽しそうに周囲と話をしている尚人は、この一年ほどで別人のように明るくなった。
もちろん「明るくなった」という表現には、学部生時代の朗らかさを取り戻したという意味も込められている。だが、それだけではない。ただ温厚で朗らかなだけではなく、内面的な強さまでも手に入れ、尚人は一気に大人の男になったように見えた。