尚人が大学を辞めると言いだしたとき、渚は意外だとは思わなかった。修士課程に入った頃から緩やかに、けれど確実に、尚人の研究に対する意欲も、アウトプットの質量も下降線をたどり続けてきたことに気づいていたからだ。
長い時間をかけて彼なりに努力して、工夫して、とうとう本当に行き詰まってしまったのだ。おとなしいタイプにありがちな、一度決めたらてこでも動かない頑固さを持つ尚人だから、いくら引き留めたところで翻意しないだろう。渚は黙って彼を見送った。
尚人は大学を辞めてから友人たちと距離を置くようになった。退学の意思はかたくても、大学の外で生きる人生を受け入れるだけの覚悟は足りていなかったのかもしれない。そんな尚人を心配して、せめて完全につながりが途切れてしまわないようにと、断られても断られても毎回集まりの案内だけは送り続けた。
「相良、すっかり持ち直したね」
渚のつぶやきに、菅沼も同調する。
「うん。今日の勉強会の事例発表も良かったよ。妥協して仕事選んだんだとばかり思ってたけど、最近は水を得た魚みたいだな」
あの頃が嘘のように、最近の尚人は勉強会にも飲み会にもまめに顔を出す。彼が今の仕事で得た現場感あふれる知見は興味深く役に立つものばかりだし、互いにもう少し地盤固めをしてから、数年後には産学連携で面白いことができるのではないかという話も出ている。
研究者はアカデミアの世界の内側だけでは何もできない。渚たちのような教育学や教育心理学を専門とする研究者の場合は、教育機関やその他支援機関など、現場の多くの人々の協力や知見によって研究を成立、発展させていく。
学生時代からわかっていたつもりではいたが、いざ教員になって自分の研究のみならず学生たちのためのコーディネートを行う必要に迫られ、渚はますます現場の重要性を実感するようになった。
専門的な知見を持ち意欲のある尚人のような人間が現場や子どもたちと研究者をつないでくれるのだとすれば、きっとそれはお互いにとって素晴らしい価値を生む。
「富樫さんも相良のやりたいこと尊重してくれるみたいだしね。いっそ大学よりやりたいことできるのかも」
「おい、大学就職を目の前にした俺に夢がないこと言うなよ」
「ごめんごめん」
そういえば、アルバイト先だった家庭教師派遣会社に正社員としての就職を決めたときも、尚人から直接の報告はなかった。当時の尚人は自身の進路を恥じていたのだろう。
それがいつから、なぜ。
一年ほど前に尚人は、大学時代から同居していた谷口栄のマンションを出た。同居、というと聞こえが良いが実際は家賃負担を抑えることが目的の「居候」なのだと照れたように笑っていたことを思い出す。
谷口栄は同じ大学の法学部を出て官僚になった男で、学部時代から尚人とは仲が良かった。都会育ちで華やかな雰囲気の栄と、地方出身の朴訥とした尚人はアンバランスな二人に見えたが、だからこそ馬が合ったのかもしれない。派手さはないながらも少しずつ尚人の外見や振る舞いが洗練されていったのも、栄の影響があったのだろう。
尚人の実家はごく平凡な地方公務員の家庭で、大学院進学後は特に、実家に金銭的な負担をかけまいと苦心していたようだ。そこに手を差し伸べたのが栄だったが、最近になって海外赴任のためマンションを引き払うことになり、結果として尚人との同居も解消されたのだと聞いている。
そのとき尚人は久しぶりに友人たちに彼の方から連絡をしてきた。皆で引っ越しの手伝いをしたことから自然に交流は再開し、今に至る。
あの引っ越しが大きな転換点になったこと自体には、疑いの余地はない。渚はぼんやりと、むかつくほどに完璧な微笑みを浮かべた谷口栄の顔を頭に思い浮かべた。
愛嬌があり社交的な割に、栄は尚人の人間関係に立ち入らないタイプだった。だから渚たちも多少の面識があり、尚人を通じて「賢くて優しい超人」のイメージを植え付けられた程度……いや、教養時代はあちこちの教室で女子学生の注目をさらっていた男だから、そういう意味で栄を知っていた者もいたか。ともかく、深い関わりは持たなかった。
正直言えば、渚はあの鼻持ちならない男のことを嫌っていた。
整った顔に柔らかな物腰。嫌味にならないよう気を遣ってはいるのかもしれないが、ひと目で仕立てが違うとわかる服装や持ち物。紳士的な態度の裏に、隠しきれない壁を感じるタイプの人物。
ひがみと思われてしまうかもしれないが――尚人の友人である自分たちと積極的に関わろうとしないのは奥ゆかしさからではなく、内心では文科三類を馬鹿にしているからではないのか。そんな疑いすら抱いていた。
そして、察しの良い栄にはきっと、渚の疑念はばれていた。だからこそ渚に対する彼の態度は丁寧さの中に冷淡さを漂わせていた。
第一、口先では栄を褒めそやして、一緒に住まわせてもらって幸せだと言う割に、居候開始からしばらく経って以降、尚人は全然幸せそうではなかったではないか。研究の行き詰まりが顕在化した時期と重なるせいもあったかもしれないが、素朴でのびのびとした部分がどんどんな失われ、遠慮がちで、いつも何かに怯えているようにすら見えた。
そして、栄のマンションを出てからの変化。深くを聞くつもりはない、なぜ彼らがいつも二人だったのか。他の友人たちを含めて集団で行動することがなかったのか。
教員になってから学生たちから様々な相談を受けるようになった。そして渚は、学生というのはこちらが思っている以上に恋愛や性に関する悩みを深刻に捉えているのだと知った。相談の中には性志向や性自認――いわゆるLGBTに関するものが、意外なほど多く含まれる。
同性との恋愛に悩んでいる、と男子学生から小さな声で打ち明けられたとき、渚の脳裏に浮かんだのは、仲睦まじく並んで歩く谷口栄と相良尚人の姿だった。
いずれにせよ、場所が大学ではなくたって、尚人が彼にとっての本筋に戻ってきてくれたのは喜ばしいことだ。なんせ渚はずっと、相良尚人には一目置いていたのだから。
尚人は押しの強さに欠けるし、研究者に必要な図太さが絶望的に足りなかった。人を対象とする研究を行う以上は、ときに相手の内面に踏み込まなければいけないが、優しく内気な尚人はそれをためらう。観察対象に対して冷静な視線を持つべき場面で感情に流される。それは研究者を目指す上での弱点で、尚人が論文を仕上げるだけの成果を得られなかった理由でもある。
だが、一方でせっかちで独善的な渚とは正反対に、丁寧に優しく関係性を構築する粘り強さを持つ彼は、渚には心を開かないタイプの子どもの心を開くことができた。自分とは違う能力を持ち、異なる成果を出す人間。そんな風に思っていたのだ。
博士号がなくたってアカデミアに戻ることはできる。多少格は落ちるし、博士課程の指導はできないが、Ph.Dなしで教鞭を執っている人間だって山ほどいる。だが、ただでさえ博士号取得者の増えた若手たちと競争しながら講師職を探すより、尚人にとっては現場に寄り添って仕事を積み上げていくことのほうが幸せなのかもしれない。
「……おい、相良こっち来いよ! 塚本が話聞きたいってさ」
尚人についての話ばかりしていたせいで、話したがっていると思われたのか、菅沼がテーブルの反対端に向かって声を上げる。そちら側の一角に座る面々がぱっと顔を上げた。
「ちょっと待ってよ、今ちょうど圧迫面接中なんだから」
いたずらっぽい言葉に首をかしげる。圧迫面接?
答えはすぐに出た。顔を赤くして押しとどめようとする尚人に構わず、彼の隣にある大きな紙袋が持ち上げられる。袋の隅からリボンがのぞいている。
「相良、プレゼント持ってるから菅沼へのお祝いだと思ったら違うんだって。彼女へのプレゼントなんだよね?」
「違うって、そういうんじゃなくてさ……」
必死に否定しようとする尚人だが、誰も信じようとはしない。それどころか超草食系もしくは超秘密主義で通っていた相良尚人から初めて漂う恋の気配に、アラサーにも関わらず面々は沸き立っている。
「大丈夫大丈夫、邪魔するわけじゃないんだから」
「ヒントちょうだい。年上? 年下? 大学関係? 会社関係?」
「いや、だからさ……」
酒の勢いも借りてまさしくこれは「圧迫面接」だ。端から見ていてちょっと気の毒に思えるくらいだが、ひとつひとつ選択肢を出してイエス・ノーで回答を迫られるうちに嘘の下手な尚人はどんどんプレゼントの相手に対する情報を明かしてしまう。
――いや、恥ずかしそうではあるが、少しだけ嬉しそうにも見えるその表情。本人もまさか、まんざらではないのか。
「へえ、年下か」
「何選んだの? 相良って地味だけど、着てるもののセンスはいいもんね。彼女さん喜ぶよ」
「たいしたものじゃないんだって……」
紙袋には、渚も知っている穴場セレクトショップのロゴ。相手が年下で、たとえばまだ学生だったとしても、過剰にはならない程度の価格帯でセンスのいい服飾小物を揃えることができるタイプの店だ。そして、その店はメンズとレディース両方を扱っている。
口数は少ないが、年下の恋人が可愛くてしかたないという顔で少しずつ情報を明かす――というか、のろけて見せる尚人。だが、いけない。これ以上突っ込まれると、酔いのせいでポロリと言わなくてもいいことまで言ってしまう危険性がある。
もし渚の予想が当たっているとして、いつか尚人が心底望んで周囲に打ち明けるならば祝福する。だが彼が長い間胸の奥に秘めてきたことは決して酒の席で、酔いに任せて明かすような話ではないはずだ。
そろそろ助けが必要なのかもしれない、と、渚はビール瓶を手に立ち上がる。
相手が男だろうが女だろうが、年上だろうが年下だろうが構わない。ただ今夜は戻ってきてくれた友人の幸せそうな顔を肴に、楽しく酒を飲み交わしたい気分だった。
(終)
2021.11.20-11.21