第1話

 関東甲信越地方の梅雨入りが発表されたとある六月の土曜日、笠井かさい未生みおはどんよりとよどんだ瞳で総武線の車窓を流れていく雨粒を眺めていた。

 講義とアルバイトで疲れ果てて快速に乗り換える気力もないからこのまま座って各駅停車に揺られ新宿で丸ノ内線に乗り換えようと決めるが、実のところそれすら短い道のりとはいえない。よりによって尚人は同じ丸ノ内線でも荻窪を始発終点とする本線ではなく、中野坂上から方南町へ延びる支線沿いに住んでいるのだ。

 黄色い電車から、赤い電車へ。

 それまで一度も気にしたことがなかったが、尚人に家の場所を聞いて路線図に赤く伸びる丸ノ内線を見ると確かに中野坂上からちょろりと盲腸のように短い線が飛び出していた。実際にこのような行き止まりの支線のことを「盲腸線」と呼ぶこともあるのだという。

 あれはまだ桜が咲く前、初めて尚人の暮らすマンションを訪れることになり中野坂上駅の方南町行きホームに立ったとき、未生は我が目を疑った。車体に引かれたおなじみの赤いラインこそ確かに丸ノ内線だが、ホームに鎮座しているのは東京にはあるまじき三両編成。おもちゃのような編成で中野坂上とその三駅先にある方南町の間をひたすら往復しているらしい。ちなみに新宿方面との直通運転もあることにはあるが、本数が少ないので遭遇する確率は低い。

 無駄に感じる乗り換えのおかげでただでさえ遠い道のりがさらに遠く感じられる。千葉のアパートから尚人の部屋までドアトゥードアで二時間弱、往復四時間。よく考えれば優馬ゆうまたちの暮らすN県の小都市へ行くのと変わらないくらい時間がかかる。これではちょっとした遠距離恋愛だ。

 いや――現時点では、恋愛ですらないのかもしれない。

「何なんだよ、あのクソめんどくさい乗り換えは」

 訪問相手である相良さがら尚人なおとの顔を見るなり未生は不満をあらわにする。

 今にも雨が降り出しそうな六月の空の下、駅から徒歩十分弱の道のりを早足で歩いたから体は汗ばんでいる。深夜バイトの後そのまま来れば印象が悪いだろうとシャワーを浴びてデオドラントもつけてきたのだが、これではなんの意味もない。額を流れる汗をハンドタオルで拭いながらスニーカーを脱ぎ捨てた。

 だが、出迎えた尚人は飄々としたものだ。

「この近所に丸ノ内線の車庫があるからね。方南通りの歩道橋に上ると、たくさん車両が並んでいるのを見下ろせるよ。珍しい光景だし興味があるなら行ってみる?」

「興味ねえよ! 電車なんか、オタクじゃあるまいし」

 涼しげな顔で見当違いなことを口にする鈍感な男に向かって堪え切れず未生は声を荒げるが、ムカつくほどに常識人の尚人は同情どころか乱暴な言葉に眉をひそめて先生の顔になる。

「人の趣味を馬鹿にするような言い方は良くないと思う。だいたいどうしたんだよ、来るなりそんな苛々して」

 未生が苛立っているのは確かで、これが八つ当たりだというのもまた事実だ。父親の元からかろうじて自立らしきものをして三ヶ月目に突入したものの、大学、アルバイト、尚人との関係、今のところどれひとつとして上手くいっている気はしない。

 四月から通い始めた大学は、はっきりいって異世界だった。これが大学だというのならば未生がこれまで二年間通っていたアレは一体何だったのか。もしかしたら大学という名だけが似通った別のものだったのだろうか。そう思いたくなるほどカリキュラムも授業も周囲の雰囲気も、何もかもが違っていた。

 何より未生を苦しめるのは基礎学力の不足だった。かろうじて受験はクリアしたものの、合格することを重視するがあまり解法テクニックに頼り、また得意科目に勝負をかけて――例えばこれから始めても無理だろうと判断した英語などはおざなりにしていた。周囲が当たり前のようにこなす一般教養ですら宇宙人の言葉のように聞こえるのに、看護学部では看護学概論といった専門基礎科目がすでに一年の前期から始まる。

 難解な講義、容赦ない課題、自分よりはるかに賢い周囲の学生たち。覚悟していたとはいえ、地獄の受験勉強を終えたら少しは楽ができるのではないかという期待を密かに抱いていた未生にとって今の生活は完全なる誤算だった。

 もちろん生活、端的に言えば金の問題もある。入学金や前期授業料などのまとまった金は継母の真希絵まきえに借りたが、それらを別にしたところでアルバイトだけで生活を賄うことなど到底できるわけもなく未生は月に五万円の貸与型奨学金を申し込んだ。既定の四年で卒業できたとして、新社会人になる時点で二百四十万円の奨学金プラス真希絵への借金を抱えるのだと思うと目の前がくらくらする。

「なあ、尚人って今奨学金払ってるんだっけ」

 そういえば以前尚人が奨学金返済について話していたことがあったっけ、そんなことを思い出して訊ねてみる。すると尚人は氷とお茶の入ったグラスを差し出しながら遠い目で答えた。

「うん。僕は大学に十年近くいたからね……ちなみに金額は聞かない方がいいよ」

 エアコンで除湿しているだけの部屋の温度が急に氷点下まで下がったような気がした。温和な尚人の表情に浮かぶ虚無がおそろしくなった未生は思わずうなずきそれ以上の追及はやめた。

 エリート彼氏に囲われていた頃は麻布十番の分譲マンションに暮らしていた尚人だが今の暮らしは実につつましい。とはいえ前の住居から持ってきたのであろう一人暮らしには大きすぎる冷蔵庫や洗濯機、あの男の趣味が反映されているのは間違いないセンスのいい服飾小物などを見ると複雑な気持ちに捕らわれるのは確かだ。

 一方の未生は父親からの独立を決意した結果、完全なる苦学生の身分となった。できることといえば忙しい中疲れた体に鞭打って、週に一度ここにやってくることくらい。

 後悔はしていないけど、不安にはなる。

 何の目的もなく大学に通っていたころより、確固たる将来の目標を持っている今のほうが大きな不安を抱えているというのは自分でも不思議な気がする。だが実際にそうなのだ。遠い将来の不安要素より目の前の不安の方が重要問題、人間とはそのようなものなのかもしれない。

「大学はどう? 前期も折り返したから慣れてきた?」

 ローテーブルを挟んで床に座った尚人が訊ねたので、未生は力なく首を左右に振った。

「全然。なんとか出席点だけはと思ってるけど、レポートも試験もどうにかなる気がしねえ」

 しかも看護学科の学生はなんと女子学生が九割で、男子はごく少数。人数が多いだけでなく女子学生の方が押しが強く学力も高い者が多く、マイノリティの未生としてはどうにも居場所のなさを感じてしまう。数少ない男子学生の中でも見た目の良い未生はもてるといえばもてるのかもしれないが、彼女たちのバイタリティにはちょっと引いてしまうし、今は女性に言い寄られても嬉しくはない。

 見てろよ、あいつらああやって声かけてくるのも最初だけだよ。実習に出始めたらすぐ医者のことしか見なくなるから――数少ない同性の同志からそんなことを言われたときも特に残念には思わず、むしろ若いのにしっかりした人生設計を持っている彼女たちに感心したくらいだ。

「半年弱の勉強で国立合格なんて奇跡を起こしたんだから試験くらい何とでもなるって。ほら、課題持ってきてるならここでやれば? 僕も仕事あるし。一般教養だったら手伝えることもあると思うよ」

 疲れを隠そうともしない未生を慰めているつもりなのかもしれないが、毎度のこととして尚人の発言はどこかずれている。

「……確かに合格したのは奇跡ですけどね。いいです、相良先生の力は借りずに俺は自力で頑張るんで」

 そう言っていじける未生を尚人は不思議そうに眺めた。

「何に拗ねてるんだよ、君は」

 とはいえ他にやることもないので未生はカバンから教科書とノートを取り出して課題に取り掛かるのだが、そう時間が経たないうちに睡魔に襲われ集中力は途切れてしまう。

「うう眠い」

 シャープペンシルを投げ出して目を擦ると、よっぽどひどい顔をしているのか尚人も心配そうにこちらを見る。

「大丈夫? 寝るならベッド使ってもいいし、目を覚ましたいならコーヒーでも淹れようか。それか少し早いけどお昼にする?」

 開け放した引き戸の向こうは寝室。尚人は普段は自分が使っているであろうセミダブルベッドを指し示した。安アパートにベッドを置くスペースなどなく、今のところはホームセンターで買った薄いマットレスを床に敷いて寝ている未生にとってふわふわの寝具の載ったベッドはひどく魅力的に映る。

「じゃあ五分だけ横になる」

 蜜に誘われる虫のようにふらふらと寝室へ向かいベッドに倒れこむと微かに尚人の匂いがした。

 シャンプーの匂いなのか、デオドラントやパフュームの匂いなのか、はたまたそれらと体臭が混ざった匂いなのかはわからない。だがそれはかつて尚人を腕の中に抱いていたときに感じていたのと間違いなく同じ香りで、だからこそ未生の胸はざわめく。

「尚人も来いよ、一緒に昼寝しよう」

 あくまで冗談めかして、決して邪な気持ちで口にしたわけではない。とはいえまったく下心がなかったかといえばそれも嘘になる。

 だって三月のあの日に「まだお互いを知らないから」と主張した尚人が未生の告白を退けて以来、二人の仲は一ミリも進んでいない。セックスどころかキスも、抱擁も。それどころかなんとか時間を作ってここに来ても泊めてもらえた試しすらない。もちろんその理由の一端が、平日は未生が授業尚人が仕事で忙しく、週末はアルバイトに明け暮れているからであることも否定できないのだが。

 平日の時間が限られているので週末は稼ぎ時、金曜と土曜は時給の高い夜間に働くと決めている。未生は今日も夜勤から帰宅してすぐ家を出て昼前にここにつき、夕方には再び千葉に戻らなければならない。一緒に過ごせる時間は短いのにも関わらず、尚人は触れさせてもくれず寂しそうな様子も見せない。これでは正直、間男時代より扱いが悪いのではないか。

「なあってば」

返事がないことに焦れて伸ばした手は、そっけなくぴしゃりと払われる。色気のない返事のおかげで、懐かしい匂いに反応を示しかけた体の熱は一気に冷めた。

「嫌だよ。休日に寝だめするのって健康に悪いらしいし」

 あくまで未生の下心には気づかないふりで尚人はそう言う。わざとなら腹立たしいし、天然ならばなおさらたちが悪い。

「寝だめじゃないってば。今日も朝までバイト……」

 だが、ふくれっ面でそう反論する間も睡魔は無常に手を伸ばし、最後まで言い終わる前に未生は柔らかな布団の誘惑に負け意識を手放していた。