第2話

「……未生くん、そろそろ起きなきゃ」

 優しく肩を揺さぶられた未生ははっとして目を開ける。真上には見下ろしてくる尚人の顔。腕を上げると夏用のブランケットがはらりとめくれた。そして窓から差し込む光の角度は意識を失う前とは明らかに変わっていて――。

「何時!?」

 弾かれたように体を起こすと尚人が「四時」と答える。未生がこの部屋に着いたのは午前十一時くらいで、つまり昼食前に少しだけ仮眠を取るはずが四時間以上も熟睡していたことになる。他の予定もなくずっと二人でのんびりできる週末ならばともかく、問題は今日の未生には七時からアルバイトのシフトが入っているということだった。しかも、千葉で。

「何で起こしてくれなかったんだよ!」

「起こしてるじゃないか。バイト七時からって言ってたし、これから出たって間に合う……」

「そういう問題じゃないだろ、何のためにわざわざ片道二時間もかけて――」

 ほとんど怒鳴るようにそこまで言ったところで未生は口をつぐんだ。四月からアルバイトを始めたアパート近くの居酒屋は遅刻に厳しい。尚人の言う通りすぐにここを出ればシフトの時間には間に合うが、かといって悠長に言い争いをしているような暇はない。

 そもそも起きるなり感情的に大声を上げた未生の怒りの理由に尚人はまったく気づいていないのだから、いくら怒鳴ったところで無意味だ。未生は洗面所に飛び込んで顔を洗い、手に水を付けて髪についた寝癖を直す。そして持ってきた荷物をつかむと、そのまま玄関に向かった。

「駅まで送ろうか?」

「いいよ、急いでるから」

 尚人ののんきな問いかけをそっけなく断ると、スニーカーに足を突っ込みながら振り向きもせずそのまま部屋を飛び出した。本当はこんな態度を取ってはいけないとわかっているのに我慢ができなかった。きっと尚人はうろたえた顔をしているのだろうが、今は可哀想だと思えない。

 もちろん電車に乗り込んで一人になれば気持ちも冷静になる。

尚人に悪気がなかったことなどわかっている。疲れて眠り込んだ未生を起こすのは忍びないと思いぎりぎりまで寝かしてくれたのだろう。善意からの行為だとわかっているのに――いや、わかっているからこそ未生にとって週に一度の短い逢瀬が台無しになった失望は途方もなく大きかった。

 言葉を選ばず言うならば、未生はここのところ極端なまでに欲求不満を募らせている。

 別れを告げられて一年間、自分でも信じられないことであるが未生は貞操を守り通した。もちろん家庭のごたごたや受験勉強でそれどころでなかったせいもあるのだが、心の中の尚人の存在があまりに大きくて、復縁は半ばあきらめつつも他の相手を探す気にもなれなかった。

 悟りを開いたわけでもない健康な二十一歳の男子にとっての一年間がどれだけ長いものかは、多分尚人だって理解できるはずだ。なのに年上の恋人――とはまだ呼べない相手は、残酷なまでに涼しい顔をして未生の不満に気づかないふりを決め込んでいる。

 本当ならば久しぶりに再会したあの日、尚人の気持ちがこちらを向いているとわかったその瞬間に引っさらってどこかに連れ込んで、めちゃくちゃに抱いてしまいたかった。というか、ほとんどそのつもりになっていた。なのに尚人は未生と恋人関係になることを保留し、自分たちはもう少しお互いを知るべきだと釘を刺したのだ。

 不満ではあったが未生は了承した。というのも、いくら気にするなと言われたところで未生は尚人と栄が別れたことに少なからず責任と罪の意識を感じていたからだ。時間が必要だという尚人の気持ち自体は理解ができたし、ともかくあの時点では未来への希望を持つことができるというそれだけでも十分だった。

 もちろんあのときは、お預けの期間がこんなに長引くなどとは思ってもみなかった、ということは全力で言い添えておきたい。

 マンションの訪問が三度を数えた時点ですでに未生の焦りと自制心は危険水域に達していた。その後大学が始まり気力体力が減退したため、かろうじて押し倒すような真似はせずにすんでいるものの、このままでは臨界もそう遠くない気がしている。

 第一何なんだ、あの態度は――思い出すと再び苦々しい気持ちが湧いてきた。未生と尚人が初々しい十代かつ童貞の二人であるならば百歩譲って理解できなくもないが、互いに成人しているどころか過去には何度もセックスをした仲だ。未生に対して恋愛感情のかけらもないころにはいくらでも体を許しておきながら今になってもったいぶるというのも理不尽に思える。

 尚人は「お互いを知る」ためにどれだけ時間を掛けるつもりなのか、何をどれだけ話せば十分「お互いを知った」ことになるのか。

 尚人の言葉や考えることはときどき未生には難しすぎる。元々の賢さが違うせいでもあるが、それ以上に恋愛経験の差も影響しているのかもしれない。セックスだけで言えば、栄と未生の二人しか知らない尚人よりも多くの相手と爛れた関係を繰り広げてきた未生にアドバンテージがある。だが恋愛となれば、他人とまともに関係を築こうとしたことすらない未生はあの鈍感な尚人と比べても赤ん坊に等しい。

 以前の未生は、友人が告白だとか付き合うだとか言っているのを聞くたびに、最終的にはセックスをしたいだけなのになぜそんなまどろっこしい手続きを踏むのかともどかしく思っていた。くだらない儀式などすっとばして互いにヤリたいか否かを確かめるだけで話はずっとシンプルなのだと。

 だがいざ恋愛という、誰かを独占したいとか体だけでなく心まで欲しいとか自分と同じだけの気持ちを返して欲しいとか――そんな得体の知れない営みに巻き込まれてしまえば、結局のところ未生も凡百の男女と何一つ変わらず相手の一挙一動に翻弄されてしまうのだった。

 一刻も早くこの不毛なお試し期間を終え、早く互いを恋人と呼べる関係になりたい。かつて尚人が谷口栄を指して口にしていた「彼が」「僕の恋人が」という、あの舌先からとろけるような甘い響きで未生のことを呼んで欲しい。そして嫌というほど抱き合って、泣かせて鳴かせて腰が立たなくなるまで苛めてやりたい。

 だが当然ながらそんな未生の純情と邪心は一向に尚人には伝わらず、友人とも恋人ともいえない中途半端な関係にひたすら苦しめ続けられるのだった。

「笠井くん、今週と来週のどこかでバイト入れてない日ある?」

 同じ学科の栗原くりはら範子のりこにそう声をかけられたのは週明けのことだった。

 土曜日は例の一件の後で未生は朝までアルバイトに精を出し、日曜の朝になって尚人からのメッセージに気付いた。機嫌を損ねたまま帰った未生を気にかけている文面にほだされて、とりあえず前日の件は水に流して普段通りの返事をした。……とはいえ釈然としない思いは残り、月曜の未生は相変わらず上機嫌とはいえない。

「月、木は入れてないけど。それがどうかした?」

「成人組で親睦会やろうって話になったの。未成年混ざってるとどうしても気を遣うから、飲める年齢だけでたまには」

 そっけない未生の返事をものともせず、範子は人懐っこい笑みを浮かべる。

 新入生全員合わせても百人にも満たない看護学科だが、三ヶ月の間に女子学生は既にいくつかの仲良しグループに分かれている。十人足らずの男子学生はそれだけで一グループと言えなくもないのだが、日々就労に精を出す未生は誰とも深い付き合いをしてない。

 噂に聞いたところ、女子グループには「真面目グループ」「ちょっと派手目グループ」のようないわゆる高校までのスクールカースト的な分類に加えて「浪人組」「他大学中退・社会人経験者組」というものがあるらしい。そしてさらに大きなくくりとして存在しているのが「未成年/成年」の区分なのだという。

 新入生のうち高校からストレートで合格した面々は当然ながら全員がまだ未成年である。生まれ月にもよるが一浪を経験した学生の多くもまだ二十歳には達していない。

 そういえば新入生歓迎会のときも半分以上の学生がウーロン茶やソフトドリンクを飲んでいたし、そもそも学生街の居酒屋はわざわざ一人一人の客のIDチェックまでやっていた。アルコールへの締め付けが厳しくなる中、酒を介してのコミュニケーションを取ろうと思えば、どうしても成人と未成年を切り分けないわけにはいかないのだろう。だがそんなこと、未生には関係のない話だ。

「悪いけど俺、酒好きじゃないし」

 幸か不幸かこの大学の人々は、未生が前衆議院議員の笠井志郎しろうの息子であることは知らない。実母のアルコール依存が原因で酔った女が苦手だという説明をわざわざするほど野暮でもないので、未生はとりあえず酒が好きではないという言葉でごまかす。何より一度外に飲みに行けば数千円は飛ぶわけで、そんな金があれば往復二千円弱もかかる尚人宅への交通費に充てたいのが偽らざる気持ちだ。

 しかし背後で話を聞いていたのか、突然数人の男子学生が未生と範子の会話に割り込んでくる。

「笠井、そんなこと言うなよ。数少ない成人組の仲間じゃないか」

「親睦は大事だし、笠井が来るならって言ってる女子もいるらしいぜ」

 未生の記憶が確かならば彼らのうち一人は二浪、一人は高校卒業後に介護の仕事をしていたものの一念発起して大学進学を目指したと言っていた。いずれも遅咲きの大学デビューへの意欲は並大抵ではなく、要するに酒を介して女子学生との距離を縮めるのに未生を利用したいと言っているのだ。

 それでも頑なに断り続けると、彼らは勝手に「説得は俺らにまかせて」と自信たっぷりに宣言して範子を解放すると、未生の腕をつかんで物陰に引きずり込んだ

「おい、笠井。付き合い悪いんじゃないか? せっかく栗原さんが誘ってくれてるのに。どうせ将来的には医師という強力なライバルが現れるんだから、先手を打って立ち回るならいまのうちだぞ」

「だから俺、そういうのも興味ないってば」

「……もしかして、おまえ彼女いるのか?」

 直球の質問に、正確には恋人でもなければ女でもない相手の姿を思い浮かべて未生は首を縦に振る。

 それであきらめてくれれば幸いと思ったのだが、そううまくは運ばない。彼女持ち宣言は、彼らにとってはむしろ未生が「女にがつがつしていないちょうど良い撒き餌」と認定されたらしい。参加費なら払ってやるから、としつこく絡まれ結局未生は回答を保留することでようやくその場を離れることを許された。

「ったく、女、女って馬鹿みたいに。あいつら何しに大学きてるんだって話だよ」

 過去の行状を思えば一体どの口で――というところでもあるが、自分のことは棚に上げた未生が電話口でそう愚痴をこぼすと、しかし尚人は意外なことを言い出した。

「え、飲み会くらい行けばいいのに」

 その言葉に、忘れようと努力していた尚人への不満が再び息を吹き返す。

「……俺忙しいし、酔っ払い嫌いだし。第一そんな金があったら尚人のところに行きたいし……」

 なぜそんなに簡単に、飲み会に行けばいいなどと言えるのだろうか。その場にはたくさんの女子学生がいることも伝えているのに、未生がそんな場所に行ったとして尚人は嫌だったり不安だったりはしないのだろうか。

少しは不安な気持ちや嫉妬を見せてくれれば、まだ未生の心は楽になる。なのに――。

「未生くんは同世代との人付き合いに興味ないのかもしれないけど、大学時代の友人って一生ものだし、特に君の学部だと実習とかでお互い協力することも多いだろ。仲の良い友達くらい作っておいた方がいいと思うけどな」

 完全に上から目線の言葉に、頭の中で何かがぷつりと切れる音がした。

 未生が尚人のためにこんなにも健気に禁欲生活を送り、周囲のつまらない人間より尚人を優先したいと言っているのに、当本人がこの態度。あまりに冷たいのではないか。

 尚人は飲み会の暇や金があれば未生に会いに来てほしいとは思わないのか。そもそも恋人であると認めてくれないし、セックスも許してくれないのだからそんな気は毛頭ないのか。未生はただ、からかわれて弄ばれているだけなのか。

「わかったよ、行けばいいんだろ。飲み会でもなんでも行くよ」

 尚人の態度があまりに冷淡に感じられて、未生は絶望のあまり一言吐き捨てて終話ボタンを押す。

 すぐに折り返された電話も無視したまま、その晩は課題も予習復習も手に着かずふて寝を決め込んだ。