前編

「けっこう伸びてましたね。うちに来るのもしばらくぶりでしたし」

 顔馴染みのスタイリストの男が、肩にかかるケープを外しながらそう言って笑った。羽多野は軽くなった頭を振りながら「しばらく海外にいたから」と答える。

 そろそろ散髪に行こうと思っていたところで予想外に落胆する出来事に見舞われ日本に帰国、さらにそこから一ヶ月近くも隠遁者のような生活を送っていた。「けっこう」というのは接客業ゆえのマイルドな表現で、店に入ってきた羽多野を見たとき、五年ほどの付き合いになるこのスタイリストは明らかに目を丸くしていた。

 最後にもう一度、ケープを取り去った状態で後ろから大きな手鏡をかざされる。合わせ鏡になった姿見にすっきりとした襟足が映る。これならば「一緒に歩きたくない」と言われることもないだろう。

「外国で切るとヤバいことになるって言いますもんね。どちらに行かれてたんですか?」

「……ロンドン。彼ら東アジア人の髪質に慣れてないから」

「らしいですね。でも、ロンドンだといいヘアサロンもありそうじゃないですか。探せば日本人のスタイリストもいそうだし」

 ほら確かヴィダル・サスーンもイギリスですよね、と言われてみればそうだったかもしれない。とはいえ三ヶ月近い滞在中にロンドンで何度か髪を切り、特に失敗したと感じたことはない。それなりの年数を北米で過ごした経験上、アジア人の髪を切り慣れていない美容師にどうオーダーを出せば惨事が避けられるのかは知り尽くしている。海外にいたというのはただ、みっともなく伸びた髪についての言い訳にすぎなかった。

 本日の目的は、谷口栄の指令どおりにこざっぱりした身なりを取り戻すこと。通い慣れたここは、南青山にあるそれなりに繁盛しているサロンだが、平日の午前中だったため無理やり直前に予約をねじ込むことができたのは幸いだった。

「ともかくさっぱりした、ありがとう」

 そう言って改めて鏡をのぞく。ひげも剃って髪もこざっぱりして、ついでに眉もトリミングしてもらった。自分で言うのもなんだが昨日鏡に映っていた顔色の悪い世捨て人とは別人のように見える。栄のような王子然とした整い方はしていないが、年よりは若いし決して見た目で世間一般に劣りはしないはずだ。

「しかし、急に髪を切りたいだなんて珍しいですよね。もしかしてクリスマスデートの準備ですか?」

「そんなんじゃないよ」

 会計をしながら茶化してくる男に素っ気なく首を振りながらも、羽多野の唇からは笑みがこぼれそうだった。

 店を後にすると、外は十二月下旬だというのに嘘のような陽気だ。陽が燦々と降り注ぎ、華やかなクリスマス飾りは光を反射してキラキラと輝いている。何もかもが明るく美しい――まるでたったの一晩で世界が裏返ってしまったかのようだ。昨日の朝までは最低の気分でいたのに、と思い返せば不思議な感情にとらわれる。

 帰国して以来、選考が進んでいたロンドンの企業と何度かスカイプで面談をする以外の時間、羽多野はほぼ常に酔っぱらった状態でいた。いや、面談のときすら、ビールの一本くらいは飲んでいたかもしれない。「PCの調子が悪い」と言ってビデオなしで通話している限りは多少飲んでいたってばれやしない。

 その会社に応募したのは十月で、同時期に英国就労ビザを得るのに必要な語学試験も受けた。もちろん栄には話さないまま。羽多野の中ではリラやその義父への復讐心よりも、前を向いて栄と生活を続けたいと思い始めていた時期だ。とりあえず外堀を整えて、都合の悪いことは追々話すことでなんとかなるのではないかと甘いことを考えていた代償は高くついた。

 本当は、ほとんどあきらめかけていた。惰性で選考を受け続け内定をもらった後はビザ申請書類を取り寄せたが、そんなものを手にしたところで栄の許しを得られるとは思っていなかったのだ。羽多野の過去を知ったときの栄の怒りと悲しみは凄まじく、どんな言い訳を募ったところで意味はないように思えた。あの激しい感情の根元にあったのが嫉妬なのか、プライドを傷つけられたことへの純粋な憤りなのかはわからない。ともかく栄は、羽多野を全身全霊で拒んだ。

 そして羽多野が栄を傷つけたと同時に――栄の激しい拒絶は羽多野の中の、過去に味わった数々の絶望を呼び起こした。どうしても妊娠は難しいだろうという診断結果を受けたとき、リラと別れて欲しいと義父に土下座されたとき、そして「悪いが、これも代議士を守るためだ」と笠井志郎のスキャンダルの責任を取って職場を追われることになったとき。

 運には恵まれない人生だった。親の都合に振り回され少年時代にアメリカで暮らしはじめたときには子どもながらに多くの屈辱を味わった。言葉が話せないゆえに現地校では知能の発達を疑われ、土曜日にバスを乗り継いで参加した日本語補修校では、高給取りの企業駐在員や外交官の子女たちに生々しい格差を見せつけられた。日本人エリートが嫌いで、アメリカという国も嫌いで、だからこそ鬱屈を晴らすためにはそれらを乗り越えるしかないのだと思っていた。

 だが、愛はなくとも利害は一致していたはずの結婚は思わぬ理由で破綻した。成功することで自分を馬鹿にした人間もこれまでの環境も見返してやる――その一心で生きてきた羽多野にとっては、簡単には立ち直れない挫折だった。帰国してしばらくは生活は荒れたが、やがて仕事に打ち込むようになり約十年。ようやく過去を忘れた頃になって再び積み上げてきたものを失った。

 党や議員の都合でいいように使われるのも仕事のうちだと理解していた。だから、小さなトラブルが面白おかしい報道により雪だるま式に大きくなり自分が悪の黒幕のように取り上げられるのも、別世界で起こる喜劇のように眺めていた。最終的に「政策秘書の首を差し出すことで事態の幕引きを図る」ことが決定したときも気持ちは覚めていた。少なくともその瞬間は。

 公設秘書になってからの年数分の多いとはいえない退職金、手にしたのはそれだけだった。笠井は慰労金名目で幾らかの金銭を申し出たが、税金の手続きが面倒なので断った。振り返れば、金を断る意地を張る程度には怒りを感じていたようにも思う。だが、リラに別れを切り出されたとき同様――要するに羽多野は、それ以上傷口を広げたくなかった。

 結婚生活は失敗に終わり、自分なりに熱心に取り組んだつもりでいた仕事ですらこのざまだ。もう何にも真剣になりたくないと思った。幸い十分な蓄えはあったから、一生安泰とまでは言わないが、小遣い稼ぎ程度にアルバイトでもしていれば生活に不便はない。まさかこんな場面で、リラとの離婚のときに受け取った和解金が役に立つとは、皮肉なものだ。

 ――別れました。

 久々に出くわした栄が恋人と別れたと言うのを聞いたとき、忘れかけていた感覚が生々しく蘇った。彼が目の前で倒れたとき、抱きとめた体があまりに軽かったこと。潰れるまで苛めてやるつもりだった気に食わないエリート青年は、一年前と変わらず羽多野の中に仄暗い欲望を呼び起こした。

 どうしようもない高慢さと愚直さ、そして危ういまでの脆さが、すらりと背の高い体躯と整った顔の中に同居している。一見器用そうに見えてひどく不器用な彼を優しい言葉で甘やかしてやりたいし、屈辱で汚してみたい。押し倒せばきっと抵抗するだろうが、ちょっと関節を抑えてやれば制圧するのは難しくない。常に自分は人を踏みつけ上に立つタイプだと信じている栄は、果たして男の腕の下に組み伏せられたときどんな顔をするだろう。その頃の羽多野はまだ自分が何を望んでいるかをはっきりとは知らなかったのだ。

 これまでの人生に深く傷つき失望していたことを認める羽目になるのはそれから約一ヶ月後、突然の電話を受けてからだった。

 ロンドンを訪れる決意を固めたのは、そこに谷口栄がいたからだ。リラや義父のためだけに訪英する気にはなれなかったが、元々欲望の対象だった栄がそこにいるのならば――退屈な無職生活の暇つぶしに彼を口説きに行くのも悪くない。ついでに、羽多野がもしくだらない復讐願望を打ち明けたとして、潔癖で生真面目な栄ならば馬鹿なことをするなと正論で叩きのめしてくれるのかもしれない。ごちゃごちゃと理屈をつけながら航空券を取って飛行機に乗り込んだ。

 救われたい――それが本当の、唯一かつ単純な願いであると認めたときに羽多野はようやく自らの弱さや過去と向き合えたような気がした。そして、自分を救ってくれるであろうただひとりの相手である栄に拒絶され今度こそ完全に希望を失った。

 だからこそ、切れたビールを買い足しに出かけた帰りにマンションの前にまばゆく輝く王子が立っているのを見つけたときには目を疑った。白馬の王子が救いに来るのが無精ひげを生やしたアラフォー男というのは、なんとも奇妙な話ではあるのだが。

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