腕時計に目をやると午後一時を回っている。栄はもう昼を食べただろうか。電話で聞こうとスマートフォンを取り出すが、連絡の取りようがないことを思い出す。日本で使っていた携帯電話の番号はリラからの連絡に感情が昂り、渡英前に解約していた。ロンドンではプリペイドのSIMカードを購入したが課金残高もゼロだし、そもそも欧州外では使えない。
「さすがに不便だな……」
そうぼやいて、少なくともあと一ヶ月はあるだろう日本での生活のために回線を確保しようと決める。
とりあえずまずは帰宅だ。昼飯をどうするかは、それから話し合えばいい。いや、さすがに時間が下がっているから何か買って帰ろうか――迷いながら駅に向かう途中「ベトナムデリ」と看板に書かれた店の前で羽多野は足を止めた。白とセラドンブルーを基調にした清潔感のある店の内部に視線を向けると、ショーケースの中には色鮮やかな惣菜やサンドウィッチが並んでいる。
羽多野はそこでチキンとポークそれぞれのバインミーとパクチーサラダを買い、ついでに駅近くにあるパティスリーにも入った。栄は酒も飲むが意外と甘いものも好きであるらしい。ただ、体型や健康、さらにおそらくは「男のくせに自分のために甘いものを買うのはみっともない」というくだらない理由により、普段口にする機会は多くない。
「いらっしゃいませ」
にこやかに店員から声をかけられ、ずらりと並ぶケーキの左から右まで眺める。秘書業が長かったので手土産選びには自信のある羽多野だが、ようやく思いを遂げたばかりの――恋人と呼んだら気が早いと叱られるだろうが――気難しい男が相手だと思うと迷ってしまう。
「……お悩みですか? よろしければお手伝いしますけど、お好みなどございますか?」
よっぽど深刻な顔をしていたのか、見かねた女性店員に声をかけられた。
「ええと、少なくて悪いんだけど切ってあるのを二つほど。……好みは」
そこで口ごもる。「甘いものも好きだ」と聞いたのは確かだが、栄が羽多野の前でケーキを食べる場面など記憶にないし、具体的な好みなど知るはずもない。
「えっと、とりあえず一番高い方から……」
「お子様ですか? 大人の方ですか?」
「大人です。正直好みはよくわからなくて」
値段の高いものであれば少なくとも誠意は伝わるだろう――という安易な考えでいた羽多野に、親切な店員は「だったらひとつは無難なものを入れたほうがいいかも知れませんね」と助言した。結局一番高価かつ限定品だという丹波和栗のモンブランと、定番かつ一番人気だというプリンを包んでもらった。
紙袋をぶら下げて家に帰る途中、改めて不思議な気分になる。いつだって自分本位で、他人にはほとんど関心のなかった自分がこうして栄の機嫌をとるのに懸命になっている。栄自身の家柄は立派なものだが、彼がそれを継ぐわけではないし、もちろん栄の親や祖父の肩書きが羽多野に何かをもたらすわけでもない。付随する金やコネクションではなく、人そのものを求めること――下手すれば中学生だってやっている恋愛というものを、三十八にもなって羽多野はようやく経験しているのだった。
最初から明確な思いがあったわけではないが、半ば強引に家に転がり込んでプライベートの栄を知るにつけ惹かれる気持ちが強くなった。栄の高慢さは隠された努力の裏返しで、滑稽なほど外面を気にするのは表向きには他人への寛容さとして現れる。彼がどれほどの葛藤を抱えていようと――いや、抱えているからこそ、内面の歪さをせめて外向けには美徳に転嫁しようともがく姿は滑稽で痛ましく、何より美しかった。そして、そんな栄が羽多野の前では硬い殻を脱ぎ、感情的に怒ったり拗ねたりする姿に胸をかき乱された。
栄といれば自分は憎しみと絶望から救われるのかもしれない。その思いが強くなればなるほどに、本当の姿を知られることがおそろしくなった。失望されたくなくて、軽薄な男を取り繕って――でも、もう何もかもばれてしまった。失敗ばかりを繰り返した愚かで幼稚な男だと知り、それでも栄は羽多野を許した。だから羽多野もようやく前を向くことができる。
「ただいま。谷口くん、昼飯は――」
玄関のドアを開けると同時に先走って声をかけ、次の瞬間栄の靴がないことに気づく。
「谷口くん?」
らしくもない悪戯かと名前を呼びながら部屋に入っていくが、寝室にも、リビングにも、もちろんトイレにもバスルームにも栄の姿はなかった。部屋は今朝とは別世界のように片付いている。潰したビール缶ではちきれそうなゴミ袋がバルコニーに置いてあった。ただ栄だけがいない。
最初は、買い物か昼食にでも出かけたのだろうと思った。買ってきた惣菜は夜にでも食べればいい。気を紛らわすために冷蔵庫のビールに手を伸ばすが、戻ってきた栄に空き缶を見られたら叱られそうなので止めた。どのみち半時間か一時間も経てば帰ってくるだろう。
まるで思春期の男子のように、意味もなく洗面所に行って美容院でセットされたばかりの自分の髪型を確かめて「悪くない」とひとりごちる。リビングに戻ってソファに座り込むと、昨日のセックスの記憶が生々しく蘇った。
行為後に正気に戻った栄は羞恥に耐えきれなかったのか、羽多野の手助けを拒んでひとりで入浴した。脚は震えていたし、腹の奥に出されたものの処理にも慣れていなかったのだろう。時間はかかったが風呂を上ると苦虫を噛みつぶしたような顔で寝室に現れた。
「お風呂、上がりました。お湯抜いて溜め直してるところなんで」
貸してやった服に身を包んだ栄を見て、羽多野はちょっとした満足感を味わった。顔や首筋が赤いのは彼にとって初めて後ろを使ったセックスの余韻なのか、それともただ湯当たりしているだけなのか。
「お湯、抜かなくても良かったのに」
「俺が嫌なんです」
どうやら潔癖気味なところのある神経質な栄は、自分の使った風呂の湯を後から人に使われることにすら抵抗があるらしい。そんな彼にあれこれとひどいことをしてしまった自覚はあるが――だからこそ羽多野の心は深く満たされていた。ずっと欲しかった相手に受け入れられたことによる甘い感情と、プライドの塊のような彼を思うように蹂躙して征服欲が満たされたことへの残酷な充実感。
「君は横になって休んでろ」
そう言って羽多野が交代で風呂に行き、戻ると栄はもう眠っていた。
気まぐれでわがままな男だから、夜が明ければ一転冷たい態度に変わっている可能性もあった。だが、彼に触れて押しいる喜びを知ってしまった羽多野にはもう、ちょっとやそっとのことでは栄を手放すことなどできそうにない。髪を撫で、額に口付け眠りについた。
ふと、ソファの背もたれとクッションの間に一冊の文庫本が落ちているのが目に入る。書店のカバーがかかった表紙をめくると現れるタイトルは『タイタンの妖女』――邦訳版は所有していないから、これを持ち込んだのはきっと栄だ。小説は読まないと言い切った彼がなぜこれを買ったのか、少しは羽多野のことを理解したいと思ってくれていたのか。そんなことを考えると心がざわついた。
やがて、インターフォンが鳴る。羽多野はソファから跳ね起きてディスプレイに映る人物を確認もせず解錠し、玄関に飛んで行った。
「今、顔を確認せずに開けたでしょう。無用心ですね」
「君こそ、鍵は渡したんだから勝手に入ってきてもいいのに。大体、何も言わずいなくなるからどこに行ったのかと」
相変わらずそっけない栄に、羽多野は前のめり気味に訴えた。そうだ、余裕ぶっていたが本当は不安だった。昨晩の行為も今朝の甘いやり取りも何もかもが夢で、栄は羽多野に愛想を尽かして消えてしまったのではないか。もう戻ってこないのではないかと。
栄は玄関にスーツケースを引っ張り込んで玄関の内鍵を閉める。
「掃除が早めに終わったから新宿に行ってホテルをチェックアウトしてきただけです。子どもじゃあるまいし、外出ひとつするのに羽多野さんに申請する義務なんてありませんよ。たかが数時間で大袈裟な」
そこで羽多野は気づいた。自分はたったの一時間ほど栄の居場所がわからないだけで不安に襲われたが、羽多野が突然ロンドンから姿を消して以来、栄は数週間もその居場所を探し続けていたのだ。昨晩も何度も責められ謝ったが、今こうして短い時間でも逆の立場を味わうと、申し訳ない気持ちはますます大きくなった。羽多野が気まずい表情を浮かべたのに気づいたのか、栄は顔を上げ、話題を変える。
「それより、髪。ちゃんと切ってきたんですね」
「ああ、どう?」
「どうって、別に。普通ですよ」
栄の性格的にベタ褒めは考えられないにしても、もう少しどうかした反応を期待していた羽多野はわざとらしく肩を落として見せた。
「なんだよ、いい男だって惚れ直してくれると思ったのにな」
「勘違いしないでください。あなたは俺の好みとは対極です。俺は……」
耳にタコができるほど聞いたいつものフレーズがまたはじまりそうだ。羽多野は栄が右手に持った大きな不織布の袋を取り上げ、先に立ってリビングに向かう。
「はいはい、素直で穏やかで、なんでも谷口くんの言うこと聞いて、三歩後ろを歩いてくる男版大和撫子みたいなのがいいんだろ? 悪いけどそんな奴そうそういないし、いたって君には似合わないからな」
今日は意地悪いことは言うまいと決めていたのに、あからさまに「おまえなど好みではない」と告げられれば黙っていられない。図星を突かれた栄は言葉に詰まり、リビングに入り立ち止まると小さな声でつぶやいた。
「わかってます。だから……とりあえずのところは、あなたで我慢しようって言ってるんじゃないですか」
羽多野は振り向いて栄の髪を撫でる。外は晴れているが風は強い。乱れた髪を整えてやりながら頬が緩むのをこらえきれなかった。とりあえず、今の栄から引き出せる回答としては満点。そしてホテルをチェックアウトしてきたということは、少なくともこの休暇の間、栄はここに滞在するつもりでいるということだ。
栄のアパートメントと違ってここには寝室はひとつしかないので、栄のスーツケースはとりあえずリビングに置くことにする。
「こっちの袋は?」
「ああ、昼ご飯まだかもと思って、買ってきました」
玄関で受け取った袋をまじまじと見ると、西新宿の某高級ホテルのデリカテッセンのロゴが踊っている。中には数種の惣菜とサンドウィッチ。完全に買い物の内容が被ってしまった上に、値段はこちらの方が圧倒的に高い。
「谷口くん、ずいぶんいいとこ泊まってたんだな」
「泊まったのは近くにあるもっと安いホテルですよ。公務員の給料がいくらか知ってるでしょ。羽多野さん食欲なかったみたいだし、俺もちょっと美味しいもの食べたかったから買い物に寄ってきただけで……あれ、それは?」
「いや、俺も昼飯まだかなーと思って。バインミーとサラダだから完全に被っちゃったんだけど」
店先で見た時には色合いもよく実に美味そうだったバインミーだが、高級ホテルの惣菜と並べば心なしか色褪せて見える。多少の敗北感はありつつ、栄は栄で羽多野のためにわざわざ遠回りして買い物をしてきてくれたのだと思えば悪い気はしなかった。
「……昼と、夜の分までありますね」
テーブルいっぱいのサンドウィッチと惣菜を前に腕組みをした栄は、とりあえずまずは羽多野の買ってきた品で昼食にすることを提案した。
「バインミーはそのまま食べるのが一番ですけど、こっちのグリル野菜とローストビーフのサンドウィッチは夜に温めてホットサンドにしても美味しいですよ。あと、パテとチーズと、オリーブも買ってます」
「じゃあ、後でちょっといいワインだけ買いに行く?」
「いいですね」
珍しく意見は完全に一致した。そして、とりあえずは羽多野の買ってきたバインミーとサラダ、冷蔵庫からビールを取り出しふたりは遅い昼食をはじめる。
「じゃあ、まずは乾杯」
そう言って羽多野がビールを注いだグラスを持ち上げると、栄が眉を潜めて「乾杯って、何に?」と首を傾げた。相変わらず細かいことを気にする男だ。何も考えていなかった羽多野は手を止めて数秒、それから気を取り直してもう一度。
「俺と谷口くんの明るい未来に、乾杯」
馬鹿なこと言うなと顔をしかめられることを覚悟していたが、栄は照れくさそうに笑うと黙ってグラスを持ち上げた。
「お、まんざらでもなさそうな」
「違いますって、あなたがあんまりくだらないこと言うから呆れちゃって」
コツンとグラスをぶつけ合って、後はいつも通りの軽口の応酬。目の前に愛情を感じる相手がいて、こうして一緒に食事をして酒を飲んで。たまには喧嘩もして。それは羽多野にとってはひどく新鮮なことで、同時に懐かしくも思えた。
いつの間にか日常になっていたこの光景がこれからも続いていくように、もう決して手放さずに済むように――羽多野はささやかな祈りを捧げる。
(終)
2019.11.09-2019.11.10