第1話

「どうしよう……」

 通話を終えた瞬間に現実に引き戻された相良さがら尚人なおとは、真っ青な顔でつぶやいた。

 今の今まで話をしていた相手は、一年数ヶ月前まで恋人だった谷口たにぐちさかえ。長い交際と同棲を経て一応は円満に別れたことにはなっているが、その最大の原因は、言うまでもなく尚人の浮気である。

 栄との関係はそれよりもずいぶん前からぎくしゃくしていたし、ふたりの間にはすでに一年も性的な接触がなかった。そして最初に尚人を誘ったのは今の恋人である笠井かさい未生みおだ。だが、もちろんそんなことが何の言い訳にもならないことを尚人は理解している。

 未生の言動や行動はそれなりに強引ではあったが、無理やり犯されたわけではない。いくら栄との関係に行き詰まり孤独を感じていたとはいえ、いくら未生にしつこく誘われたとはいえ、最終的に「恋人がいる立場でありながら他の男と寝る」ことを選んだのは尚人自身にほかならなかった。

 未生と恋人同士と呼べる関係になってから半年近くが経とうとしている。再会したのは、ようやく春の気配が見えはじめる頃。ゆっくりと関係を深め――と思っていたのは実のところ尚人だけで、未生はかなり焦れていたと後でわかったのだが――改めて互いの気持ちを確かめて、再びキスしたり抱き合ったりするような関係になったのは六月だったか。そして気づけばもうクリスマスや年末が目の前に迫っている。

 未生との交際は順調だと思う。尚人は中野区の外れ、未生は大学のある千葉と住まいこそ離れているが毎日のように電話で話し、特別な用事があるとき以外は毎週末どちらかの部屋で一緒に過ごしている。もちろん多少のけんかや諍いはあるにしろ、未生のはっきりとものを言うわかりやすさは嫌いでないし、尚人も相手が未生であれば比較的臆せずに正直な感情を出すことができる。もちろん言い争いの内容がそもそもくだらないせいもあるのだが、互いに言いたいことを吐き出してしまえば、むしろけんかは早くおさまるのだということを、尚人は未生との関係を通じて学んだ。

 その未生は、先月誕生日を迎えて、二十二歳になった。

「二十二歳、か。若いな」

 思わず羨望に似たため息を吐いてしまったのは、別に未生の年齢がうらやましかったからではない。二十二歳の頃の尚人は卒論と院試の準備で多忙だったし、その後の修士課程でどれほど苦労して、それでも歯を食いしばって進学した博士課程はアカデミアへの道を断念して退学したことを思えば、二度と二十代を繰り返したいなどとは思わない。

 ただ改めて目の前にいる恋人の年齢を突きつけられると、未生との年齢差をはっきりと突きつけられると同時に、そして八つも年上である割に自分が未生と比べて未熟であるような気がしてくる。

 出会った頃は、年齢に見合わない狡猾さはあるものの基本的にひどく幼稚でわがままだった未生だが、ずいぶん変わったと思う。特に、短絡的な怒りゆえに実の父を週刊誌に売り、その結果として幼い弟を苦しめた経験は、未生を大きく変えた。

 もちろん今も子どもっぽい振る舞いや嫉妬で尚人を困惑させることは少なくない。とはいえそれはおそらく半分は計算でやっていることで――父親との葛藤を彼なりの方法で乗り越え自立しようとする姿にはたくましさすら感じる。

 だが未生本人は彼自身の若さにも、内面の成長にも自覚的ではない。むしろ特に尚人相手だと、若さや年齢差を指摘されると途端に未生の機嫌は悪くなる。要するに、尚人と同じ年齢で、社会的に自立していた栄に対するライバル心が顔を出すのだ。

「でも大学に行けば俺より年下の奴が多いから、俺のことを若い若いって言うの尚人だけだと思うけど」

 再入学組で大学の同期の中では年長に分類される――そんな小さなことを気にしていることがむしろ尚人には微笑ましかった。

「そういうのが若いってことだよ。三十くらいになるとね、ひとつやふたつの年齢差なんて誤差なんだから」

 そう言って一緒に誕生日ケーキを食べた。

 豪華な外食はなし。プレゼントは未生が負担に感じない程度の値段の、新しい通学用バッグ。普段未生と甘いものを食べるときはたいていコンビニエンスストアのものだが、ケーキだけはせっかくの誕生日なのでちょっとだけランクをあげてデパ地下で。とはいえホールではなく無理なく食べられるカットケーキをふたつだけ。質素な誕生日パーティは自分と未生の身の丈に合ったものだったと満足している。

 尚人は、自分と未生の関係において今の時間がどれほど貴重で大切なものであるかを知っている。互いに仕事や学業はあるし、家が遠くて行き来も楽ではないが、それでも比較的時間の融通が効く家庭教師と大学生というカップルなので互いの都合は合わせやすい。これからも付き合いが続くとして、数年後に未生が看護師として仕事をはじめれば――とりわけ、夜勤もあって時間の不規則な職場を選ぶようならば、今のようにはいかないだろう。

 未生はそこまで考えていないかもしれないが、尚人には苦い経験がある。栄と付き合いはじめて、最初はふたりとも学生だった。時間も心の余裕もある蜜月を幸せに思いながらも、尚人はその時間が有限で貴重だということをどれだけ認識していただろうか。あの頃は、授業やアルバイトの時間を除けばいくらだって一緒に過ごせることを当たり前だと思っていた。栄が念願の中央省庁に就職して、帰りがみるみる遅くなるのを目のあたりにし、自分が大学院での研究に行き詰まりを感じるようになって、尚人はようやく過去の自分たちがどれだけ恵まれていたかを思い知ったのだった。

 若い未生はまだ気づいていないかもしれない。でも一度苦い恋愛を経ている尚人は、自分たちの時間が無限でないことも、年齢を重ねることで人も気持ちも変わり得ることも知っている。だから無邪気に「早く一人前になって稼いで、一緒に旅行とかしたいよな」などと夢のように語る未生を見て、なんとなく寂しいような気持ちにもなるのだった。

 ――というセンチメンタルな回顧は楽しいものだが、今はそれどころではない。うっかり現実逃避をはじめた自分に喝を入れて、尚人は目の前の問題と向き合おうと心に決める。

 問題、それはついさっきの電話で栄から半ば無理やり了承させられた約束のことだった。栄は仕事仲間から、ある人物の連絡先を調べるよう頼まれているらしい。そして幸か不幸か、その男――羽多野はたの貴明たかあきは以前、未生の父親である笠井志郎しろうの秘書を務めていた。要するに、未生であれば父親のルートを使って羽多野の現在の住所や電話番号を調べることも容易だろうと、栄はそう言いたいのだ。

 しかし話がそう簡単にはいかないことは、未生に話を持ちかけずともわかる。なぜなら未生と実の父親の関係は非常に悪い。現在も大学の学費を借りている状態ではあるし、継母である真希絵や母親違いの弟である優馬を通じて最低限の情報はやり取りしているのだろうが、幼少時代に実の母とともに見捨てられた心の傷は決して塞がることはないだろう。許すことも和解することも望まない、ただ距離を置き自立することで父親との関係に決着をつけようとしている未生に、父親を通じての人探しを頼むことはあまりに残酷だ。

 さらに、尚人の記憶が正しければ、栄が探している羽多野なる人物は、一時期「悪徳議員秘書」としてマスコミを賑わせた人物であるはずだ。栄とは仕事上の因縁があるようだったが、胃潰瘍で倒れたところに居合わせて、救急車を呼んだだけでなく病院に見舞いにも来てくれたことから、尚人にとっては悪い印象はない。だが、その羽多野自体が、未生の父である笠井志郎の政治スキャンダルの責任を取る形で仕事を失い行方不明になっているのだとすれば――なおさら話は面倒だ。

 かつて裏切ったことで、今も罪悪感を抱いている栄からの頼み。だが、現在の大切な恋人である未生は栄を毛嫌いして、尚人と栄の断絶を望んでいる。隠れて連絡を取ったことを知っただけでも激怒するのは確実なのに、さらに人探しの依頼だなんて。

 振り返れば浮気などをした自分が悪い。今回のことだけ見ても、栄の古い手帳を見つけたからといって良識ぶって――しかし後ろめたいからと未生に黙って――栄に連絡をした自分が悪い。尚人は自分の馬鹿さ加減にうんざりして頭を抱えた。