第2話

 栄のことはずっと気になっていた。親兄弟の次に長い時間を一緒に過ごした相手のことだから、別れたからといって簡単に頭の中から消えてなくなりはしない。元気で過ごしているか、慣れない外国生活で困ったことはないか。だが、もはや恋人でもなければ友人とも呼べない自分が栄と連絡を取る理由はどこにもない。別れた直後は短いメッセージで互いの近況を確認していたのもいつからか途切れた。

 未生が尚人と栄の交流を嫌がるというのは尚人が栄への連絡を控える大きな理由だ。栄から前に一斉メールで渡英のお知らせが届いたときには、返事をするかしないかで未生との間に一悶着あった。だが、あのときは社交辞令程度の返事すら嫌がる未生の狭量さに腹も立ったが――同時に尚人は、未生の反応を理由に問題を先送りできることにどこかほっとしてもいた。

 栄と連絡を取れば必然的に未生と付き合い始めたことを明かすことになる。もちろん義務ではないし、黙っていたところで栄が異国の地にいる以上は当面、偶然街中で出くわして二人の関係がばれるようなことはないだろう。だが、栄が彼なりの精一杯の誠意を持って尚人を送り出してくれた以上、いつかはきちんと話をするのが筋だと思っていた。

 だから、本やノートを詰め込んだ段ボールの中に紛れ込んだ栄の手帳を見つけたときに、これはいい機会だと思ったのだ。栄が古い手帳に執着する男でないことなどわかっている。なのにわざわざ「必要なら送ります」などと白々しいメールを送ったのは、ただの口実だった。もちろん栄に連絡をするなどと言えば未生がどう反応するかはわかっているので、こっそりと。そのメールに対して栄が電話を返してきたことには驚いたし戸惑いもしたが、結局は週末をこの部屋で過ごした未生が帰るのを待ってから折り返した。

 わがままだというのはわかっている。未生を選んだならば未生が嫌がることや悲しむことをすべきではない。どうしても栄に連絡を取る必要があるのならばきちんと未生に話をして、理解を得た上でやるべきだ。でも、きっと未生の口から許しの言葉は出てこない。いや、なんだかんだと栄に敵愾心だけでなく引目のようなものを抱えている未生は最終的には尚人の言い分を受け入れるだろうか――大きな不安や不信感とともに。

 取り立てて人格者ではないが決して悪人でもないと思っていた自分の中に眠っていたどろどろとした感情。栄との関係が冷え込むまで、そして未生と出会うまで尚人は自分がこんなにもエゴイストであるとは知らなかった。いくら未練でも愛でもないと言い募ったところで、栄にもいい顔をしたくて、そのくせ未生を不安にさせたくもないだなんて間違っている。

 だが、自分の振る舞いが誤りであることをわかって、なお尚人の栄に対する罪悪感はあまりに深い。一緒に暮らして、毎日心と体をすり減らしている栄を目の当たりにしながら、彼がどれほど苦しんでいるか、どうすれば彼を少しでも楽にできるかについて何ひとつわかっていなかった。

 職場でぎりぎりまで追い詰められている栄にやすらぎの場を与えるどころか「がんばって」などという無責任な言葉で、さらに追い詰めるような真似をしていた。それどころか、栄の態度に不満と不安を募らせて、対話の努力もしないままに他の男との関係に溺れた。その関係が明らかになった後はふたりともに捨てられひとりになることが怖くて、未生への未練を残したままで栄にやり直したいと取りすがった。

 きっと――こうして栄の役に立ちたいと願い続けること自体が、ただ彼に嫌われたくない、罪悪感から解き放たれたいというだけのエゴに過ぎないのだろう。

 ためらいながら掛けた電話の向こうにいる栄は元気そうだった。渡英前の挨拶メールの返事をせずにいたことを謝る尚人に「気にしていない」と言い、それどころか尚人と未生の現在の関係についてもすでに承知していた。切り出そうとして切り出せず言い淀む尚人を見かねたように、栄の方から「知っている」と告げたのだ。

 俺は地獄耳なんだよ、という一言で誤魔化されてしまったが、栄は未生が自身の生き様を見直して、かつてとは異なる生活を送っていることすら知っていて、意外なほどあっさりした反応を見せた。

 安心というよりは、拍子抜けという方が正確だったかもしれないが、栄のような魅力的な男がいつまでも尚人などに未練を募らせるわけがない。ただ長く一緒にいた情があっただけで、改めて世界を見渡せば栄に惹かれる相手など履いて捨てるほどいるだろう。だが栄は尚人が今は未生と上手くやっていると聞き安心したように笑うだけで、彼自身に新しい恋人ができたという話はしなかった。

 むしろ、かつては興味を示すことのなかった小説の内容を聞いてきたり、かと思えば人探しを頼んできたり。栄にとって何か打ち込むことがあるのならば、それは尚人にとっても喜ばしいことだが――やたらと前のめりで、強引で。自身の優位を疑わず無理を通したがるようなところは昔からあったが、その際もいつだって態度は柔らかく紳士的だった。あんな、何だか少し子どもっぽい、わがままを押す子どものような態度は尚人の知る栄の姿とは異なっている。別れてから一年と少しのあいだに栄の側にも大きな変化があったのかもしれない。

 そう、尚人は今も栄の幸せを祈っている。恋人ではなくとも栄が尚人にとっては常に感謝の対象で、幸せでいて欲しくて、助けになれるならば何だってしてやりたい相手であることは変わりない。――それが、未生を傷つけたり困らせたりしない範囲でさえあれば。

 ともかく未生に話をするにしても、しないにしても頭の整理が必要だ。ひとまずコーヒーでも飲んで落ち着こうと尚人はキッチンに向かった。湯を沸かしつつ、フィルターに一人分の豆を入れたところでポケットのスマートフォンが震える。

 今度はスカイプではなく、通常の電話着信。相手は未生だ。そういえば時刻はもう十一時過ぎ、未生が居酒屋のアルバイトを終えてアパートに戻る頃合いだった。原則毎日一度の電話、それは夕方まで一緒に過ごす日曜であろうと変わりはない。

 緊張が声に出ないよう気をつけながら、尚人は通話ボタンにタッチする。

「もしもし」

「もしもし、尚人? バイト終わって今帰ったとこ」

 いつもどおりの明るい声に、仕事終わりの疲れが少しだけ混じる。いくら若くて体力があるとはいえ、勉強、アルバイトに、週末ごと尚人のマンションまで片道一時間半をかけての移動となれば疲れることもあるだろう。それでも未生は一日でも早く父親から自立したいという目標と、できるだけ尚人を不安がらせず一緒にいたいという気持ちを両立するために頑張っている。

「たいへんだったね。疲れたんじゃないの?」

「いや、日曜は客も少ないから楽勝だよ。もちろんその分シフト入るやつも少ないんだけどさ。金曜のオールなんかに比べたら全然」

 そうだ、土曜の午前中にここにくる前も、未生は金曜夕方から翌朝までの居酒屋ゴールデンタイムに長時間働きづくめなのだった。

 こんなにも頑張っている未生相手に、栄からの頼み――いや、率直に言えば未生に対する挑戦や煽りも入っていたか――を打ち明けることの重さが改めてずしりと重く肩にのしかかる。

 思わず黙り込む尚人に、未生が不思議そうに「どうかした?」と問いかける。「俺は尚人と違って馬鹿だから」というのが口癖だが、集中力に長けてその気になれば勉強だって人並み以上にこなせる上に、他人の感情への察しもいい。鈍くて優柔不断な自分に比べれば未生の方がよっぽど賢い人間だと思う。

「え? ど、どうしたって……何もないよ? 急にどうしたの」

 あわてて取り繕う尚人を、未生は笑いながら茶化した。

「なんか元気なさそうだから、具合でも悪いのかなって。それとも今週末も俺が無理させすぎたから?」

 土曜の夜、日曜の昼と、家にこもりきりで抱き合っていたことを思い出して尚人の顔は赤くなる。

「……変なこと言うなよ」

「週イチしか会えないんだから、大目に見てよ。尚人のとこ行くのが楽しみでバイトも授業も頑張ってるんだからさ。ったく明日も一コマ目から授業だよ」

「だったら、あんまり夜更かししないほうがいいんじゃない?」

 言えない。とてもではないがここで栄の話を切り出すことなどできない。尚人は乾いた笑いで未生との会話をやり過ごした。