未生はそれから尚人の目の前で数件の電話を掛けた。まずは真希絵。尚人からの依頼について確認すると、すでに父を含め周囲の秘書たちには聞いてみたとのことだった。
「でも、やっぱり辞め方が辞め方だけに……」
気まずそうな返事は、彼女自身も羽多野の辞職に当たって幾ばくの罪悪感を残しているからでもあるのだろう。父が選挙に落ちて東京での活動が少なくなったこともあり、現在も羽多野とやりとりしている人間は事務所にはいないようだ。当時の住所と電話番号は保管していたが、すでに電話は不通になっていたのだと真希絵はため息をつく。
「お父さんも、悪いことをしたっていう気持ちがあるからなんでしょうけど羽多野さんの名前出すと機嫌悪くなっちゃうし」
あの父に「悪いことをした」などという人間らしい感情があるとは思えない未生だが、ここで真希絵相手に言い返しても何のメリットもないので黙っておいた。
「それにしても相良先生も、どうして羽多野さんの連絡先なんて」
「ともかく! 優馬が学校行けなくなったときに世話になった恩もあるから、面倒かけるけどできるだけの心当たりは聞いてみて」
当たり前の疑問を口にする真希絵を強引に言いくるめ、未生は改めて念を押した。
緊張した面持ちで未生を見守っていた尚人だが、状況が芳しくないことは理解したようだ。
「そんなに簡単にはいかないよね。でも電話が通じないとなると、後は住所か」
「選挙に落ちて東京の事務所全部畳んじゃったから、書類とかあんまり残してないらしいんだよな。いくらなんでも秘書の住所くらいわかるだろって思うんだけど、議員会館から送った段ボールもほとんど荷ほどきしてないみたいだし」
未生の目にもわかるくらい、選挙に落ちたことで父の周囲からはみるみる人が去った。スキャンダルによるイメージ悪化に、「ただの人」になったことが追い討ちをかけたかたちだ。秘書や事務所スタッフについても、選挙区を取り仕切っていた後援会は規模を縮小しながら残ったものの。東京の組織は解散となった。羽多野も、あそこで詰め腹を切らなかったところで、どのみち選挙後には仕事を失う運命だったのだ。
「政治家もたいへんなんだね。未生くんのお父さんみたいに戻れる実業がある人も多いんだろうけど、秘書さんたちの生活がかかっていると思えば、そりゃ選挙にも真剣になるよね」
「そういうとこ尚人は甘いんだよ。あいつは秘書やスタッフの首切ることなんてどうとも思っちゃいないって。自分がちやほやされたくて議員やってるだけなんだから。あんな奴に仕える方の目も節穴なんだよ」
それはさておき、今も残る古株の地元担当秘書によると、笠井事務所を去ってしばらくは完全潜伏状態だった羽多野だが、その後はときおり請われて保守連合の本部の手伝いに行くことがあったらしい。優秀な男であることは誰もが認めるところで、ある程度の空白期間――禊を終えればまたどこかの事務所で職を得ることも十分に想定されていたようだ。
「だから、今はそっちに聞いている最中で……というかそれが唯一の希望かもしれないな。あー、やだな。たいしたことわかんなかったら谷口にぼろくそ言われるんだろ」
尚人が未生を選んでくれた以上は栄が何を言おうがただの負け惜しみだと思っている。とはいえ栄が勝ち誇ったように笑って未生をこきおろすところを想像すると嫌な気分になった。隠さずに相談して欲しかったなどと言いつつ、いざ話を聞いてもできることはあまりに少ない。
「未生くん、十分だよ」
そう言って尚人が心配そうに未生の顔をのぞき込んできたときには、ちょうど父親のことを考えていた。最も最近羽多野と連絡を取っていたのが保守連合の本部だとすれば、問い合わせるのは秘書ではなく父本人の方が良いのではないか。今は落選中とはいえ、それなりの年数衆議院に身を置き、党の役職や省庁の政務三役も間近と言われた男なのだ。父直々の問合せであれば本部スタッフも適当な返事はできまい。ただ、羽多野の名前を聞くだけで不機嫌になる父を動かす方法があるのか――。
だが尚人は未生の思考を読んだかのように釘を刺す。
「未生くん、栄での負けん気だけでお父さんに連絡しようなんて、絶対に考えちゃだめだよ」
「え?」
尚人は単純だから隠しごとをしたってすぐにわかると思いあがっている未生だが、実際はお互い様なのかもしれない。なにしろ尚人だってこうしていとも簡単にこちらの考えていることを当ててしまうのだ。
「……こういうときに未生くんが無理をするようだったら、僕はまた嘘をついてしまうかもしれない」
腕にすがりついて訴える尚人があまりに真剣なので、照れくささから未生は逆に茶化すような言い方をする。
「なんだよ、そうやって俺を脅す気?」
「脅してるつもりはないけど、そう受け取られても構わない。僕のために君が嫌な思いをするところは見たくないんだ」
尚人はどこまでも本気だった。そして付け加える。
「今の僕が一番大事に思ってるのが誰だかわかってるだろう。栄に謝るのも失望されるのも、未生くんに辛い気持ちを味合わせるのに比べればなんてことないよ」
「尚人……」
未生はうっかり栄の無茶振りに感謝しそうになった。なんせ、おかげで普段は恥ずかしがりの尚人の口からこんなにもストレートな愛情の言葉を聞くことができたのだから。
そっと尚人を抱き寄せる。キスをしようかと思ったがおさまりがつかなくなりそうなのでとりあえず我慢した。もしかしたら尚人も未生の出方をうかがっていたのかもしれない。少しの間黙って抱きしめられていたが、それ以上のスキンシップを求められないことを悟ると気が抜けたように体を起こした。
「なんだか緊張したからか喉乾いちゃった」
言われてみれば、言い合いやら真希絵との電話やらで未生の喉もからからだ。「俺も」と返事をすると、尚人はキッチンに目をやる。
「お茶でも淹れようか。それか冷たいコーヒーとか」
「いいね」
真冬ではあるが部屋はエアコンがきいているし、怒ったりほっとしたりと忙しいふたりは冷たいものを飲みたい気分だった。アイスコーヒーを入れるために尚人がケトルに水を張り豆の準備をはじめると、未生はグラスを取り出す。今年の夏は長い時間を一緒に過ごして、アイスコーヒー作りの作業分担は完璧だ。
「一回会ったんだよな、夏に」
「そうなの?」
氷を出すため冷凍庫を開けながら未生がそう口にすると、尚人が振り返る。ちなみに一人暮らしにしては大きなこの冷蔵庫もどう考えても栄が選んで購入したものだ。目にするたび苦々しい気持ちになるものの、自動製氷機能はちょっと羨ましい。
「うん、尚人と待ち合わせしてるとき……確かまだ夏の試験期間に入る前だったんじゃないかな。新宿駅の地下通路で声かけられて、コーヒーおごってもらった」
「そんな話聞いたっけ?」
尚人が首をかしげたので未生はあわてて釈明した。
「言ってないかもしれない。でも別に、尚人と羽多野さんは知り合いってほどでもないだろ」
しかもあのときの羽多野との会話の内容――彼がなぜか未生と尚人と栄の複雑な三角関係を承知していることなんて。尚人の隠しごとを責め立てた身としては多少の後ろめたさを感じるが、だからといって第三者に醜聞を知られている事実を告げて繊細な恋人が平気でいられるはずもない。未生は「話す必要を感じなかった」の体で乗り切った。