第10話

 せっかく具材を張り込んだにも関わらず、未生の言葉を気にした尚人は食事に集中できず、ろくに味も感じなかった。

 土曜日の夜にセックスすることなど二人の間では不文律であるはずなのに、あらかじめ言葉にされるだけで過剰に意識してしまう。緊張した様子で箸の進まない尚人の様子に気づいているはずなのに、まるで観察することを楽しんでいるかのように未生はあえて指摘しない。

「尚人、こっちの牡蠣はもう火が通ってるよ。食ったら?」

「え、あ、うん。ありがとう……」

 言うまでもなく未生はいつも以上に食欲旺盛だったので、食材自体は無駄になることなかったし、美味そうに鍋の中身をたいらげていく姿を眺ること自体に悪い気はしなかった。

 食事を終えるとキッチンで並んで後片付けをする。役割はその時々だが、今日は尚人が洗い物をして未生が食器を拭く。尚人は几帳面というほどでもないのだが、水切りにたくさんの食器が置いてあるのがあまり好きではないので、乾きにくいもの以外はすぐに片付けたいタイプだ。そして未生もこの家の中では尚人のルールに従う。

「あ、土鍋は自然乾燥させた方がいいんだ。そのままにしておいて」

「へえ、そうなんだ」

「うん、土でできてるから、中に小さな穴がたくさん空いてるんだ。水漏れしないように使いはじめは〈目止め〉っていって、お粥を炊いてお米の粘り気で穴を塞ぐんだよ」

 この土鍋は栄と付き合いはじめて最初の冬に買ったものだ。まだ二人とも学生だった。当時から栄は高級志向で、一緒に外食する場合は学生にしては値の張る店を選んだ。

 割り勘にするには尚人の懐が厳しいし、かといって毎度奢られるのも申し訳ないので、時間のあるときはできるだけ自炊の提案をするようにしていた。学食では普通にものを食べるし、栄も学生が行くような安い定食屋やラーメン屋を知らないわけではなかっただろうから、今思えば彼もまた尚人に気を遣っていたのだろう。

 鍋をすると決めて、カセットコンロを買いに行った。尚人としては鍋は手持のもので構わないと思っていたのだが「こういうのって雰囲気が大事なんだよ」と栄は土鍋の購入にこだわったのだった。買ってきた土鍋の取扱説明書を読むだけでは不安で、実家の母に電話をかけて目止めの方法を聞いたことを懐かしく思い出した。

 本郷のワンルームマンションから麻布十番に持っていった土鍋の登場機会は、栄の仕事が忙しく食事を共にすることが少なくなるにつれてどんどん減っていった。前回使ったのは――一昨年の冬に珍しく栄が早めに帰宅した日に白菜と豚肉のミルフィーユ鍋を作ろうとして、急な呼び出しのせいで鍋ごと無駄にしてしまったときだろうか。確かあれは、未生と出会った頃。あの頃は無礼で強引で、宇宙人のような若者だと思っていた。その未生が二年後の今はかけがえのない相手になっているのだから人生とは不思議なものだ。

 一人で使うには大きすぎる土鍋は、再出発には不要だと思いつつ処分するのも忍びなくて持ってきてしまった。昨年冬には一度も出番がなかったが、ここにきて再び活躍の場を与えられて鍋も喜んでいるように思える。

「鍋って飲み会くらいでしか食ったことないけど、洗い物も少ないし野菜も食えるし、いいね」

 未生は拭った土鍋を広げた布巾の上に置くと、妙に感慨深げにそう言った。その言葉におそらく深い意味はない。未生としては率直な所感を口にしただけなのだろう。だが、尚人の胸はじくりと痛む。

 尚人にとって鍋とは冬の夕食の定番のようなものだった。実家の母は忙しく食事の準備に時間をかけられない冬の日には決まって土鍋を取り出した。寄せ鍋、もつ鍋、キムチ鍋――スープや中身はときどきだったが、居間のこたつで両親と兄と四人で囲むそれは家族で過ごす冬の思い出といって良い。だが、母親からはほぼ親子らしい庇護を受けることなく、父と暮らすようになってからは心を閉ざし続けた未生には、鍋はおろか家族で食卓を囲んだ経験すら少ないのだろう。

「一人用の土鍋とか、最近百円ショップでも売ってるらしいじゃん。俺も買おうかな。自炊面倒な日でも鍋くらいならできるかも」

 呑気に話す未生は何も気にしていない、いや彼は尚人と自分の育った環境の際に気づいてすらいないのだろう。あえてここで余計なことを口にすることが正しくないとわかっているから、尚人は痛みをそっと自分の中だけにとどめて、代わりに未生に言う。

「そうだね、一人用の小さいやつなら重くもないし、持ち帰るのが面倒じゃなければ明日一緒に買いに行く? でも、それはそれとして僕とも鍋しようよ。ふたりだといろんな具材入れられて楽しいし」

「そうだな。スーパーですっげえいろんな鍋用スープの素売ってるじゃん? あれいろいろ試してみたい。トマト鍋とかカレー鍋とかもあるらしいよ」

「カレーは鍋に色やにおいがつかないか心配だなあ」

 和気藹々と鍋について話しながらリビングに戻った。

 並んで座ると再び食事前のやり取りを思い出して尚人はそわそわしはじめる。テレビではバラエティタレントが大袈裟な表情で何やら訴えている。それを観ながら屈託なく笑う未生を横目で眺めるとなんとも言えない気持ちになってしまい、たまらず立ち上がった。

「……尚人?」

 きょとんと見上げてくる未生にどう返せばいいのかわからず、思わず口から飛び出したのは自分でも意外な言葉だった。

「な、鍋食べたらなんか暑くて汗かいちゃったから……先にお風呂入るね」

「あ、そう」

 普段ならばもっと遅い時間、それこそ寝る少し前に風呂に入るのに、明らかにタイミングが早すぎる。不審がられるか、もしかしたらセックスが待ちきれないかとからかわれるかと身がまえるが、未生はあっさりとバスルームへ向かう尚人を見送り、再びテレビに向かって笑い声を上げた。

 ほっとしたような拍子抜けしたような気持ちで脱衣所の扉を閉めて、尚人は風呂に湯を溜めはじめる。十二月の夜、浴室の空気はきんと冷たい。風呂が沸くまでの間は暖かいリビングに戻るべきなのだろうが、この緊張を隠して未生の隣にいれば、そのうち心臓が破裂してしまうかもしれない。だから服を着たままで洗い場の床にぺたりと座り込んで、バスタブに流れ落ちた湯がたてるあたたかな蒸気に手を伸ばしおおきく息を吐いた。

 湯が溜まってきたところで改めて服を脱ぎ、シャワーのレバーをひねる。四十二度に設定した湯を頭から浴びる。軽く体を流してからまずは髪を洗うのが尚人のやり方だ。体を先に洗ってしまうと、せっかくきれいになったところに後で髪を流した泡や湯がかかるのがもったいない気がしてしまう。

 目を閉じて、泡立てたシャンプーを髪に乗せる。わしゃわしゃとかき混ぜるように髪を洗っていると突然背後でガチャリと扉の開く音がした。

「!? ……っ、痛っ」

 弾かれたように振り返り、思わず開いた目にシャンプーの泡が入ってしまい尚人はうめいた。だが一瞬目にしたそこにいたのは確かに――服を脱いだ未生だった。いつの間に脱衣所に来ていたのか、シャワーの音にかき消されて気付かなかったのだ。

「み、未生くん、なんで……」

 目の痛みに顔をしかめながら、混乱した尚人は後ずさる。かかとが洗面器に当たりよろめいたところで腕を取られた。

「そんなに驚くことないだろ」

 落ち着いた様子の未生はシャワーヘッドを手に取ると、尚人に顔を上げさせてせまずは目の入ったシャンプーを洗い流そうとした。

「ほら、目開けないと泡が流れないだろ」

「うん……」

 とはいえあまりの痛みに目を開くのも辛いし、開いた目にシャワーをかけられるのも怖い。そしていざ目の痛みが和らげば、ぼんやりとした湯気の向こうにはオレンジ色の浴室照明に照らし出された未生の裸体。

 いまさら恥ずかしがるようなものではない。毎週末裸でくんずほぐれつしているし、カーテンは閉めていても昼間であれば互いの裸もはっきりと見ることができる。でも、いざこうして風呂場で立ったまま全裸で向かい合うと普段とは違う、妙な緊張に襲われる。

「……先に入りたければ順番譲ったのに」

 顔を見るのが照れくさくてうつむけば、一切隠そうともしていない未生の下半身が目に入りあわてて目をそらした。

 尚人がどれだけ恥ずかしい気持ちでいるかはきっとわかっているのだろう。むしろそんな反応すら未生は楽しんでいるかのようだ。

「そんなんじゃないって、わかってるくせに」

 そしてまだ泡の残る尚人の濡れた髪を撫でて艶かしい表情で笑う。

「俺があんなこと言ったから、今日は何されるんだろうってずっとどきどきしてた?」

「そりゃ、まあ」

「いろいろ考えたんだけどさ」

 未生の唇はほとんど尚人の耳にくっつかんばかりの距離まで近づき、ささやく声は甘い。

「やってみたいことは、いろいろあるんだけど。今日は準備も道具もないわけだしさ」

「ど、道具っ?」

「いや、道具は冗談として……」

 将来的な野望を感じて素直に「冗談ならよかった」とうなずく気になれない尚人は訝しい表情で未生を見つめるが、嬉しそうに表情を緩められれば何だって許してしまう。もちろん一緒に入浴というのはこれまでにないことだし、果たしてただ風呂に入るだけで済むかどうかといえば――きっとそうはいかないだろうという予感もあるのだが。

 未生の手のひらが尚人の裸の腰に触れる。冷たくもないのにその感触に体を震わせる尚人は、自分の中にあるのが戸惑いや羞恥心だけでないということに気付いていた。