洗い場の床に下ろしてもらってひと息つくと、急に寒さを感じて尚人は身震いした。体を穿っていた熱いものを失い触れ合っていた体から離れたことで一気に体温までも失われたようだった。
「ごめん、寒いよな」
体が急激に冷えてきたのは自分も同じだろうに、未生は尚人を気遣いながらあわてたようにシャワーヘッドに手を伸ばした。
すぐにでも湯船に浸かりたいくらいだが、まずは汗や体液で汚れた体や髪を清めるのが先決だ。それに、せっかく溜めた湯はすでに冷めかかっている。単身用マンションには残念ながら追い焚き機能などという贅沢なものはついていない。あわただしく全身を洗ってからシャワーヘッドを湯船に入れて熱い湯を加える。
ひとりで浸かるには十分な大きさの湯船も成人男子が二人となれば窮屈だ。しかしどちらかが遠慮して洗い場に止まるようであれば、間違いなく風邪を引いてしまうだろう。
「えっと」
尚人は頭の中でパズルゲームのように、自分と未生がどのようにして湯船に入れば少しでも楽な体勢をとれるかを考える。だが未生は考えるだけ時間の無駄とでも言いたげにさっさと湯の中に体を沈めてしまった。そして、困ったように洗い場に立ち尽くした尚人に手を伸ばし、笑う。
「来いよ、冷えちゃうだろ」
「うん……でも」
向かい合えば脚を絡ませることになるし、未生に背を向ければ膝の上に座ることになる。究極の選択を前に尚人はもたもたと考えて、最終的には未生と向き合うことにした。恥ずかしい気持ちはあるが、今は彼の顔を見ていたい。
未生が場所を開けるように脚を左右に開き、尚人はその間に体を押し込んで膝を抱えた。胸やペニスが隠れる一方でまだ情交の名残が残る窄まりが未生の視界に入りそうで、ぎゅっと膝を閉じてかかとを尻につけた。こんなことになるならば色付きの入浴剤でも持ってくるんだったと脱衣所の方を未練がましく見つめる。
「怒ってる? 強引なことしたから」
言葉数の少ない尚人に未生が問いかける。出会った頃の意地の悪い計算高さはすっかり影を潜めたものの、尚人の様子に少しでも不安を覚えれば先回りして甘えてみせる姿には相変わらずの狡猾さの片鱗が垣間見える。そんなずるさも今は可愛らしく思える、と口にすれば未生は拗ねてしまうだろうか。
「もしも僕が怒ってるって言ったら、未生くんどうする?」
「そうだな、サービスが足りなかったかもって反省してもう一回頑張るかも」
いたずらっぽい笑いにつられて思わず尚人も吹き出した。
温かった湯もすっかりいい加減になったので、蛇口に近い側に座っている未生が水栓を止めてシャワーヘッドを壁のフックに戻す。普段と比べれば短いが、普段よりよっぽど激しい行為で強張った体は風呂に浸かるうちに少しずつほぐれていった。
「未生くん、前髪上げると雰囲気が変わるね」
尚人は手を伸ばしてまずは未生の頬に触れ、こめかみ近くを指でたどりながら額へ。それからびしょ濡れになって邪魔なのだろう、かき上げてほとんどオールバック状態になった前髪を指先で梳いてやる。
セックスのときにはいつだって大量の汗をかくが、さすがにこうも濡れることはない。初めて目にする姿は新鮮だ。かたちの良いつるんとした額があらわになると普段よりも少年っぽい雰囲気が漂うようだ。
「大人っぽく見える?」
おそらく照れ隠しなのだろうが、未生は冗談めかす。真逆の気持ちを伝えることはできなくて、尚人はあいまいに誤魔化した。だが顔に浮かぶ苦笑いに、考えていることは簡単にばれてしまう。向かい合って座ったのは完全に失敗だったが、かといって未生の膝の上に座って尻にあれを押しつけられた状態でいれば、また別の問題が生じていたことだろう。
「……あーあ……」
怒るか拗ねるかを想像して身構えたが、答えはそのどちらでもなかった。未生はおもむろに天井を仰ぎ、それからおおきな息を吐いた。
「どうしたの?」
「いや、冷静になって反省してた」
反省が必要なのは栄の頼みを断りきれず、その上未生に隠しごとまでしたこちらの方だ。尚人は首を傾げながら、風呂場で不安定な体勢でセックスしたことでも悔いているのだろうかと考える。だが、尚人自身戸惑いながらも結局は普段以上に楽しんでしまったのだから、今になってあれを反省されたところで気持ちは複雑だ。
「君が反省することなんて何も」
すると未生が左右に首を振り、濡れた髪からぱたぱたと滴が散った。
「いや、でかい声だしたりゴミ箱蹴ったりさ。ああいうの良くないってわかってるのに、つい。いくら腹立ってるっていっても、なんつうの? DV的な八つ当たりっていうの? それじゃあいつと一緒じゃん」
「未生くん……」
昼間の態度について未生が振り返り後悔しているというのは意外だった。確かに驚きはしたし恐怖も感じたが、自らのついた嘘への正当な反応だと受け止めていた。それに、恐怖といっても本当に怖かったのは声の大きさや物に当られたことではなくて。
「確かに怖かったけど」
「だよな。一緒に暮らしてるときに谷口からいろいろ言われてしんどかったって知ってるのに、結局同じことして」
早とちりした未生は、自己嫌悪のせいか今度は濡れた髪をかき回すように頭を抱えた。これではせっかく洗った髪がぐちゃぐちゃにもつれてしまう。
「いや、そうじゃなくて! 怖かったのは、未生くんに愛想を尽かされるんじゃないかってことだから! もちろん大声とか物を蹴るとか良くないんだけど、それはお互い様というか」
「尚人」
あわててまくしたてると、ようやく未生の表情が落ち着きを取り戻した。二人はしばらく顔を見合わせて、それからどちらともなく笑いだす。
結局いつも、同じようなことを二人して考えて、同じようなことを不安に思っているのだ。尚人は相変わらずそれを口にすることが苦手で、でもこうして未生が先んじてくれるから同じだけ素直になることができる。
「僕はできるだけ隠しごとをしない、君はできるだけ物に当らない。……ってことかな? 今日の教訓は」
「その『できるだけ』っていうの、やめない?」
「じゃあ、未生くんは何があったって二度とゴミ箱を蹴ったりしないって約束できる?」
「いや、それはさ……」
未生はもごもごと口ごもってから、悔しそうに白旗をあげる。
「やっぱ、年上はたちが悪いって本当だな。いや、年齢じゃなくて頭の良さ? 結局尚人と言い合いしたって最後は丸め込まれるんだよな」
悔し紛れのつぶやきがかわいそうではあるが、実際に尚人は未生より長く生きているのだから、たまには口げんかの勝ちくらい譲って欲しい。
そう、未生よりも八年分長く生きて――その八年というのは偶然にも、尚人が栄と恋人として生活した期間と一致する。ひどく長いようで、振り返ればまるで一瞬のように思える時間。きっと未生と自分との年齢差も同じようなものなのだろう。
あんなに恥ずかしかったはずなのに、向かい合って話しているうちに名残惜しくなって、結局指先がふやけるまで風呂に入ったままでいた。いざ立ち上がると右脚のダメージもまだまだ残っているようで尚人の足取りはぎこちない。明日の朝に目を覚ませば右脚だけがひどい筋肉痛、という奇妙な事態すらあり得る。せめて月曜の出勤時間までには普通に歩けるようになっていれば良いが……。
尚人の歩みがあまりに危なっかしいせいか、未生は普段になく甲斐甲斐しい。下着や服を着るのを手伝われるのは情けなかったが、尚人をダイニングの椅子に座らせて、洗面所から持ってきたドライヤーで髪を乾かしてくれるのは悪い気がしない。隠しごとをしたお仕置きだと予告された割には至れり尽せりで申し訳ないくらいだ。
未生の指が尚人の髪を梳き、頭皮をくすぐる。ドライヤーの温風もあいまってあまりの気持ち良さにうとうとと眠くなってくる。でも、尚人にはまだ眠る前に言っておきたいことがあった。
「僕が考えすぎたり、うまく気持ちを話せなかったりするのは性格だけど、それだけじゃなくてずっと不安だったんだよね」
尚人がつらつらと話しはじめると、未生は返事の代わりにドライヤーの風量を下げた。
「未生くんがいつも栄のことを持ち出して張り合うのを諌めてたけど、本当は僕もずっと栄のことを考えてた。好きとかそういうんじゃなくて」
「浮気で別れた罪悪感だろ。それは俺も共同責任」
さりげなく罪を分け合おうとする未生の優しさに、尚人は感謝する。でも今話したいのはそれだけではなくて。
「それもあるけど、やっぱり怖かったんだ。僕は未生くんの他には栄としか付き合った経験がなくて……それも最初は上手くいっていたのにどんどん駄目になっていったから」
恋愛経験値「N=1」の尚人が過去に学ぼうとすると、そこには栄しかいない。未生とは同じことを繰り返したくない、未生とは上手くやりたい、そう考えれば考えるほど過去をなぞってしまう。
栄へ過剰な対抗心を燃やす未生に「君は君で栄じゃないから気にしなくていい」なんて偉そうなことを言いながら、本当は誰より尚人自身が、未生を栄に重ねようとしていたのかもしれない。
電話で話をした栄は驚くほどあっさりしていて、一緒に暮らしているときとはずいぶんと雰囲気が変わったように思えた。栄とのやりとりで尚人は彼がもはや過去にとらわれていないことを知り――それと同時に、「尚人が知る栄だけが栄ではない」ことに気づいた。あれから一年あまりが経つ中で栄は彼の人生を生き、彼の家族や友人や新しく出会った人々と過ごす中で、尚人と相対しているときとは別の姿を見せ、別の関係性を築いているのだろうと。
「二度目の恋だからって、僕は考えすぎていたのかもしれない」
気づけばドライヤーの風は止んでいる、代わりに尚人の両肩には未生の大きな手のひら。そして未生は言う。
「違うだろ、二度目じゃなくて、一度目。俺とは」
「……そっか」
いくらか詭弁じみている気がしなくもないが、尚人は未生の話に乗ることにした。未生は他の誰でもない未生で、尚人と未生の関係も他の何とも比べることはできない。
うっかり隠しごとをしてしまいけんかになるのも、一緒に鍋を囲むのも、同じ湯船に浸かるのも、未生と一緒であればなんだって初めての経験。もちろん嬉しいこと、楽しいことばかりではないけれど。
「というわけで、これも一種の初恋?」
「さすがにそれは意味わかんない」
耳の上あたりに未生の鼻が押しつけられて、くすぐったさに身をよじりながら尚人は笑う。
未生のおかげで――そして、少し強引だけれど元気そうだった栄のおかげで、胸の奥に長いあいだ刺さっていた小さな棘がようやく溶けていく。長い間こだわり続けたものを手放すほんの少しの寂しさや不安と、それらを覆い隠すほどのあたたかな感情で尚人の胸はいっぱいになった。
甘く柔らかな空気を破ったのは、未生のふとしたつぶやき。
「そういえばさっきテレビ見ながら考えてたんだけどさ、羽多野のおっさんのこと。夏に会ったとき……」
せっかくいい雰囲気だったところを再び自分の失態に話を戻されるのかと尚人はあわてるが、未生はそのまま何やら考え込んでしまう。
「どうしたの?」
聞き返すと、少し間をおいてから未生は「いや、やっぱりなんでもない」と首を振る。
「……何かヒントになること言ってなかったか記憶たぐってみたけど、別に」
そして未生は「はい、ドライヤー終了」と自ら持ち出した話題を無理やり切り上げようとするかのように、タオルやドライヤーの片付けに取り掛かる。違和感を覚えながらも、尚人自身も積極的にその話を続けたいわけではない。
「……未生くんが一生懸命になってくれるのはありがたいけど、その話はやっぱり優馬くんのお母さんの連絡を待つしかないよ。もちろん栄の望みが叶うのが一番ではあるけど」
そう告げて立ち上がると、尚人はコーヒーを淹れることにした。
「望み、ねえ。まさか……いや、でもさすがにそれはないか」
ドライヤーをしまって戻ってきてもまだ何やらぶつぶつ言っていた未生も、コーヒー豆の香りが漂いはじめるとぱっと表情を変える。
たっぷり昼寝をした未生はきっと今日は簡単には眠らない。話をするのか映画でも観るのか、はたまたベッドでもう一度……なのかはわからないが、今日のところはお付き合いするのが道理というものだろう。尚人は長い夜を覚悟しながら、マグカップに熱く濃いコーヒーをたっぷりと注ぎ入れた。
(終)
2019.11.16 – 2019.12.14