第12話

「本当に羽多野さんって、最っ低ですね……」

 ベッドに倒れ込んだ栄が疲れ果てたような顔でつぶやくのを見て羽多野は笑う。

「そこは『すごく良かった』って言うところじゃないのか?」

 枕が飛んでくるのは想定済みだったから軽々と両手で受け止めた。ヒーティングの効いた部屋で、しかも風呂上りだから真冬なのに暑さを感じるくらいだ。ビールの一本でも飲みたい気分だったが、さすがにここから飲み直すのも良くない気がして水でがまんした。

 攻撃が簡単に防がれたことも気に食わない様子で栄はぶつぶつと文句を言い続けている。

「信じられない。あれから、まさか」

「君が悪いんだ、人のこと遅漏だなんて言うから。俺の体が十分若いってこれで納得したか?」

 ベッドサイドのゴミ箱の中には三つの使用済み避妊具がティッシュに包んで捨ててある。最後まで律儀にコンドームを着け続けた自分を褒めてやりたいのが正直なところだ。

「遅いのと回数が多いのは両立するし、両立するっていうのはそれだけ最悪だってことですよ」

 栄はまだ恨みがましい顔をしているが、殴る気力はおろか怒鳴る気力も残っていないのは明らかだ。

 そう、飲酒の影響とあえての自重で当初こそペースの遅かった羽多野だが、一度出したところで勢いがついた。というか、要するに止まらなくなったのだ。前から抱いて、裏返して抱いて、栄が完全にへばって半泣きで「もう勘弁してくれ」と訴えるまで許さなかった。前回と同じ轍は踏まないつもりが結局は似たようなことを繰り返している。だが理性を失った理由に関しては羽多野の側にも言い分がある。

「でも、しつこいようだけど谷口くんにだって原因はあるんだ」

「は? なに人のせいにしようとしてるんですか」

「だって、締め付けたよね。俺が君の名前を呼んだとき」

 凛々しい顔が嘘のようにぽかんと口を開き、一瞬の後に栄の顔は真っ赤に染まる。

「してません!」

「嘘だ、だから思わず俺も出しちゃったし」

「勘違いですって。絶対そんなことないです」

 本人が意識しているかどうかは別問題として、確かに耳元で「栄」とささやいたとき、彼は反応したのだ。嬉しかったのか、照れくさかったのか、はっきりとした理由はわからないが、栄のあの反応は確実に羽多野を煽った。

 悪趣味だ、と本人は言っていたっけ。確か父親の名前が「ほまれ」で「栄」の妹は「いつ」。成功を約束された――というかむしろ成功を義務付けられたような名前を栄本人がどう思っているのか確かめたことはないが、羽多野はそれを彼に似合う良い名だと思う。

 いつだって名前で呼びたい欲はあったが、という照れくささや、いざ呼んだときのネガティブな反応が目に見えるので控えてきた。これを機にできれば日頃から、と思わなくもないがさっきのように特別な反応が引き出せるのならば、普段は今までどおり苗字で呼び続けるのも悪くはない。

「君もたまには俺を名前で呼んでくれてもいいんだけど」

「結構です」

 冗談まじりの提案はあっさりと却下されるが、羽多野の密かな野望リストにはしっかりと追加された。

 一度横になったら寝返りを打つことすらおっくうそうに、寝転んだまま栄は羽多野を見上げる。

「それにしたってのろのろと長い時間かけて……本当に別の意味で〈蝸牛の方がまだまし〉ですよ」

「わかったよ次からはもうちょっと加減する。俺だって悪かったって思ってるから風呂は手伝うって言ったのに」

「いえ、あなたと風呂になんて入ったら――」

 何をされるかわからない、と言いたいのは聞かなくたってわかる。前回同様栄は羽多野に入浴を手伝われることを頑なに断った。

 さすがに三発出した後のアラフォー男にあれ以上の行為は難しいが、彼の体を洗っているうちにちょっとしたいたずらくらいはしてしまったかもしれないから反論はできない。悔悛かいしゅんの意を示すため羽多野は栄が入浴しているあいだにベッドのシーツを替え、風呂から上がるのを見計って髪を乾かすなど、それなりに下僕的な業務も果たしたのだ。

 栄の部屋にあるベッドは羽多野の使う客用寝室のものよりさらに大きいクイーンサイズだ。英国でこの間取りの住居に単身で住むことは想定されていないから備え付けのベッドのサイズが大きいのだろう。

 上掛けをめくって当然のように彼の隣に身を横たえようとするとにらみつけられた。

「自分の部屋に帰ってください」

「これだけでかいベッドなんだからケチなこと言うなよ」

「は? 無料で一部屋貸してあげる寛大な俺のに『ケチ』って、あんまりな言い草じゃありませんか?」

 ぶつぶつ言いながらも本気で追い出そうとする様子はないので、羽多野はこのまま居座ることに決めて枕に頭をのせた。羽多野だって一日外で動き回って、最後にだ。すぐにゆるやかな睡魔が押し寄せる。

 時計を見るともう午前三時が近い。さすがに羽多野にも多少の罪悪感があった。

「悪い、平日に無理させたな」

 すると仏頂面のままの栄は意外な返事をする。

「……なんとなくこうなるような予感はあったんで、仕事は片付けてきました」

「え?」

「人と会う予定もないから、朝起きたら具合悪くて休むって電話します。何かあればトーマスが対応してくれるでしょうし」

 まるで照れ隠しのようにひときわ機嫌の悪そうな表情を浮かべる栄に、羽多野は笑いがこぼれるのをがまんできない。と同時に別の種類の安堵や喜びが胸を満たす。

 かつての栄だったらぜったいにこういった事情では仕事に穴を開けなかっただろう。相変わらず外面ばかり気にする融通で生真面目な仕事人間ではあるが、そういえば半年前と比べれば驚くほど切羽詰まった雰囲気は感じ取れない。本来所属する役所で出世争いの相手である人々とつばぜり合う日々から離れ、少しは気楽な日々を送れるようになっているならば羽多野にとっても嬉しいことだ。

 かたちの良い眉毛の間にぎゅっと寄せられた皺を伸ばそうと指でぐりぐりと押すとうっとうしそうに振り払われる。

「何するんですか」

「いや、ちょっとは谷口くんが生きやすくなるように、及ばずながらこの下僕もお手伝いさせていただこうと」

 今度は栄が笑う番だった。ほんの二年ほど前のことなのにまるで遠い記憶を呼び起こすように、懐かしそうに笑顔を見せる。

「……俺がぶっ倒れるまでプレッシャーかけてきた人がよく言いますね」

「君だって、最初のあれは謝罪するって態度じゃなかった」

 そんなのはただの言い訳だし、羽多野だって少しは反省している。でもそれを直接伝えるのは照れくさいからあきらめの悪い言葉を口にしてしまう。

 あの頃、容赦なく栄を追い詰めたことは、彼の精神状態やEDを悪化させる原因になっただろう。もちろん決定的な別れのきっかけは未生の介入だったとしても、栄と尚人の関係が壊れていく過程には自分の関与もあったはずだ――たまにそんなことを考える。かわいそうなことはした、でも後悔はしない。だって結果的に今こうして栄が羽多野の隣にいるのだから。

「手を」

 ふと思い出して問いかける。

「さっき、手をつなぐのが嫌だって言っただろ。理由が聞きたい」

 抱き合っているさなか、手に触れようとしたら栄は拒んだ。ふとそのことが気になった。

「覚えていません」

「しらばっくれるなら、こっちにも考えがあるけど?」

 脅しに似た、というよりは完璧な脅しの言葉に栄は大きなため息をつく。プレッシャーに負けたというよりは眠くて、早く話を切り上げたいというのが本音なのかもしれない。ゆっくりと口を開く。

「俺、手を離すのが下手なんです」

「手を離すのが?」

 栄はうなずいて、それからまるで表情を見られるのを嫌がるように腕を伸ばすとサイドテーブルの照明を消す。寝室は闇に覆われ、羽多野の視界も真っ暗になった。

「あの何年も前から違和感はあったんです。終わりつつあるところに笠井未生あいつのことが決定打になって……。やり直せないなんて最初からわかってたのに、ナオの手を離すのにずいぶん時間をかけて……あいつも自分も消耗して」

「一度握ってしまえば、離す方法がわからないから?」

 羽多野はようやく栄の言わんとすることを理解した。恋人という言葉を使いたがらないのも、直接的な言葉で口説いてもはっきりとした返事をしないのも、抱き合う最中に手を握られることを嫌がるのも。

 キスして、抱き合って、こうして一緒に過ごして……実態としては同じことなのに、手を握って言葉にして〈かたち〉を作ってしまえば、その〈かたち〉の先を気にしてしまう。不安な気持ちはわからなくもない。羽多野だってリラとの離婚の後は、いろいろなことが面倒になって特定の相手はほとんど作らずにきた。でも、今回は違う。

 羽多野は上掛けの下の右手を動かし、栄の左手を探り当てるとぎゅっと握る。動揺する気配はあったが、逃げられはしなかった。

「――人の話、聞いてます?」

「聞いてる」

「だったらどうして俺が嫌だって言うことを」

 声には怒りではなく困惑が滲む。だから羽多野は右手にぎゅっと力を込めて続けた。

「君は手を握るのも離すのも苦手なんだろう。俺は欲しいものは自分から掴みにいく主義だ。それに、俺を捨てた元妻を十年も恨み続ける程度にはしつこい」

 前の恋愛では主導権は栄にあったのかもしれないが、今度はそうはいかない。大人しく従順な男を相手との恋愛を基準にしている栄には悪いが、羽多野には羽多野のやり方がある。失敗して、傷も負って、やっと見つけた相手なのに、簡単に手を離すなどと口にされたってたまらない。

 やたらと自信に満ちた羽多野の言葉に、栄の声には再び笑いが混じった。

「……つまり?」

「そう簡単に逃げられると思うなよ」

「やっぱり最低……」

 そして、細く形の良い指がぎゅっと握り返してくる感触。望むような言葉はもらえないし、わがままな態度には翻弄されてばかり。しかし不器用な彼がたまに気まぐれにご褒美を与えてくれるから、羽多野はますます栄という人間に溺れていく。まったく、どこまで自覚しているのかはわからないがとんだ小悪魔だ。

 やがて握り返してくる力が緩み、手をつないだまま栄が寝息を立てはじめる。そう、適度な運動の後は悪い夢など見ることなくぐっすりと眠れるものなのだ。

 家探しの首尾は上々。トーマスとアリスから栄の話も聞き出せたし、夜には十分なご褒美をもらった。昨日はどうなることかと思ったが、二度目のロンドン生活はなかなか順調な滑り出しと自画自賛できる。羽多野とあんな話をした翌朝に、栄から「体調不良で仕事を休む」という連絡を受けたトーマスが何を感じるかは問題といえば問題だが、そつのない彼は栄に余計なことは言わないだろう。

 睡魔に襲われ羽多野もそっと目を閉じる。手の中の温もりだけを感じながら、思いも寄らないふたりでの休日に、明日はどこで何をしようかと考える。そしてじき、意識は眠りに吸いこまれていった。

 

(終)
2020.1.15-2.5