重く力の入らない体が深い場所から引き上げられる感覚で、目覚めが近いことを知る。たった今まで見ていた気がする夢も、まぶた越しに照らす朝の光に霧散してしまったのだろう。
本当はまだ眠っていたい。激務に耐えた体は疲れ切っているし、今日は待ち望んだ週末。少しくらいの寝坊は許されるはずだ。そんなことをうつらうつら考えながら水面に浮かぶ意識を再び眠りの淵に沈めようと努力していると視界がふっと薄暗くなる。続いて閉じたままのまぶたに押し付けられるのは、熱くて濡れた——。
ぱちりと目を開けると、そこには同居中の男の顔があった。しかも、どアップで。
「……何やってるんですか」
やや冷たい印象を受けるものの、年の割には劣化も少なく、あくまで外見のみを評価するならば男前の部類に入る。とはいえ、それとこれとは話が別だ。谷口栄は視界を占拠する男の顔を両手で押しのけると、言葉と表情に遠慮のない不快感を滲ませた。
容赦なしに顔を押さえつけられたことが面白くないのか、嫌々といった様子で上体を引く羽多野貴明の答えもまた不満げだ。
「それはこっちのセリフだ。そんな嫌そうな顔しなくたっていいだろう」
だが、栄の頭には「申し訳ない」の「も」の字も浮かびはしない。だって、正式に同居を許してやってからは早くも半年ほどが経つ。なのにこの男はいまだに栄が何をすれば喜び何をすれば嫌がるかを把握していないというのか。いや、羽多野のことだから、わかっていてわざと嫌がらせしている可能性も高い。どっちにしたって気に食わない。
「嫌そう、じゃなくて実際に嫌なんですよ」
厭味ったらしく言いながら頭まで布団にもぐりこんだのは、あわよくばここからもう一度心地よい眠りに戻れるのではないかと期待したから、というのは理由のひとつ。しかし無粋な男のせいですっかり意識は覚醒してしまった。
もうひとつの理由は、栄が寝顔を見られるのも寝起きの顔を見られるのも好きではないこと。自分の顔が整っている自信はあるのだが、それ以上に自意識過剰なたちだから気を抜いた瞬間はできることなら見られたくない。もっとも同居して週に一、二度はベッドを共にしている以上、意地や見栄を張ったところで無理があることもまた承知はしている。
案の定、栄が何に不満を述べているのかを理解している男が喉で笑う声が布団越しに響いてくる。
「大丈夫、いつもどおり可愛い顔をして寝てたから」
「あんまり馬鹿にしないでください」
「だったら『可愛い』は謹んで取り消す。いつもどおり男前な寝顔だったな」
「……」
駄目だ。これ以上続けたところで、からかわれておしまいだ。返す言葉を失って、それと同時に栄は隠した顔を出すタイミングまでも見失ってしまった。
実のところは必要以上に不機嫌を装う理由は、もうひとつある。それはつまり、栄が眠る自分に羽多野が何をしたのかを知っていることを意味した。
――眠っている恋人のまぶたにキス、なんて。
恋愛にのぼせあがって周囲が見えなくなっている若いカップルならまだしも、四十がらみのバツイチ男が三十路男にやるのは鳥肌が立つほど恥ずかしい。しかも自分がやる側ならともかく、やられる側。釈然としない気持ちと羞恥心が腹の中でハーモニーを奏でる。
栄は羽多野がたまに見せるこういう気障な部分が気に食わない。本人曰く、下町で工場勤務の父親のもとで育ち、小学生時代に移り住んだアトランタでは企業駐在員や外交官家庭の子女に格差を見せつけられて反骨精神を磨いた雑草系。そんな素朴なはずの男が、青年期に欧米生活を送っただけで、そしらぬ顔でバタ臭い愛情表現をするようになってしまうのだろうか。
いや、もちろんそれだけではないことを栄は知っている。
脳裏に一瞬浮かぶのは、品が良く無自覚に自己中心的な女の顔。栄はそれを打ち消そうとするが、うまくいかない。
あの女、高木リラ。どこぞの金持ち日系人の娘で、羽多野の元配偶者。東京の下町とアメリカの南部しか知らなかった羽多野にテーブルマナーや美術鑑賞のイロハを教え込んだいけすかない女。いや、きっとリラだけではない。学生時代の羽多野が野心のため、もしくはただの若い性欲解消のためどれだけの女を口説いたかは想像するまでもない。なんせ現地の女にモテようと下半身の毛の永久脱毛までやった男だ。鼻持ちならない気障な態度も無駄にねちっこい性技も、アメリカ暮らしで女を口説く中で身につけたのだと思えば栄はむかむかと面白くない気分になってしまう。
もちろん栄にだって長く付き合った恋人がいるのだから、羽多野の過去ばかりを責める筋合いはない。それ以前に、自分が羽多野の女性遍歴を気にしていること自体を隠している。
羽多野は元々は異性愛者で、自身に妊娠能力がなかったことが原因でリラと離婚させられ自棄を起こすまでは同性に微塵の興味も抱いていなかった。その事実は栄の喉の奥に小骨のように引っかかっている。
栄はそもそも両刀というものを信用していない。自分がもしも女を抱くことができたなら、確実に今頃は世間体を気にして結婚し、子どもの一人や二人もうけているだろう。だから、他人だって最終的に同じだと思ってしまう。
最終的に天秤にかけられた場合、自分は女に負ける。この顔も体も、学歴も社会的地位も何もかもが「女である」というただそれだけの事実に敗北するかもしれないのだ。想像するだけで屈辱だ。
羽多野の場合は無精子症による結婚生活への挫折が性志向の変化の原因となっている。だとすれば——もしも羽多野好みの女が現れて、その女が子を持つことに興味を持っていないのだとすれば?
打ち込んだ仕事を失い、葬り去ったはずの過去を突然再び突きつけられたことに動揺していた羽多野が、それゆえ栄にのめり込んだのは事実だろう。だから、ふとした瞬間に魔法が解けて目を覚ましてしまうことがあるのではないか? 羽多野との生活を重ね、このうっとうしい男の存在が当たり前になっていくほどに、密やかな不安も育つ。
もちろんこんなこと決して本人に伝えはしないのだけど。
布団をかぶったままでつらつら考えごとをしていると、次第に理不尽な気持ちが大きくなる。なぜ自分が羽多野ごときのせいで休日の朝からこんな憂鬱を味わう羽目になっているのか。なんせ心の奥深い場所ならばともかく、普段の〈正常な〉認識の中では、栄は自分は羽多野なんかよりよっぽど上等な人間であると信じて疑っていないのだ。
「おい、いつまで拗ねてるつもりだよ」
耐え兼ねたように投げかけられる言葉はさっきより少し甘く、機嫌を取ろうとする響き。栄はまだ返事をしない。
そういえば、自分は羽多野のベッドにいるのも奇妙だ。寝間着はしっかり着込んでいて、普段ここで目を覚ました朝ならば必ず感じる強い倦怠感や腰の痛みもない。ゆっくりと記憶を手繰り寄せて——昨晩は「してない」ことに思い当たった。
ここ一ヶ月の栄は、多忙を極めていた。というのも三年ぶりに日本の総理が英国を訪れたからだ。ヒラの議員団、そして各省の政務三役クラスの訪英も十分重要なイベントではあるが、皇室や首相ともなるとまた話のレベルが違ってくる。随行者も多くセキュリティも大規模になることから、大使館挙げての総力対応。右往左往しながら、栄にとっては赴任してからの一年を締めくくるにふさわしい大イベントとなった。
慌ただしい準備期間そして本番を経て、幸い目立った不手際もないまま総理は木曜夜に政府専用機で日本に戻って行った。翌金曜日は、残された館員たちは燃え尽きながらも後始末に明け暮れて、そして夜。
疲れ果てている反面、栄はほぼ一ヶ月放置し続けた同居人もといパートナーである羽多野の機嫌を多少は気にしていた。もちろん自身もそろそろ少しは人肌恋しくもあった。食事をして、軽く酒を飲んで、風呂を済ませてそのまま羽多野の部屋に行けば、あえて何も言わなくたってOKの印——だったはずなのだが。
「こっちは谷口くんが寝落ちしたって、疲れてるんだろうとそっとしておいてやったのに、冷たいよな」
完全にいじけた口調で責められて、自分がことに及ぶ前に眠り込んでしまったことを思い出した。