栄がプリン好きという設定(「心を埋める(第1話くらい)」「Day After (おまけ)」参照)には、まだポテンシャルがあるのではないかと思って書きはじめた小話です。
パタパタとキーボードを規則正しく叩く音。思案しているのかときおり音が止んで、リビングを静寂が満たす。
午前中にジムに行き買い出しも終わらせた日曜日の午後、ダイニングテーブルでは谷口栄がパソコンとにらみ合っている。一方の羽多野貴明は、仕切りなしに隣接するリビングでカウチに寝そべって、本を読んだりタブレットでアメドラを観たりと怠惰な休日を満喫していた。もちろんドラマを観るにはヘッドフォンは必須だ。
集中しているときにペースを乱されるのが嫌いな栄が持ち帰り仕事をやっている最中に音を出したり話しかけたりして、怒らせる。一緒に暮らしはじめた当初は、そんな初心者丸出しな失敗をしたこともあっただろうか。だが修行を重ねた今では、羽多野は決してそんな過ちは犯さない。
ときおりそっと視線だけを動かして凜々しく整った横顔をうかがう。眉間のしわの深さを見れば疲労の具合は一目瞭然。それどころか、実は視線を向ける必要すらなかったりする。「谷口栄の取扱い上級者」たるもの、打鍵音と無音それぞれの長さに耳を澄ましていれば、視覚に頼るまでもなく仕事の進み具合くらい把握できる。
最初は調子良くキーボードを叩いていたのが、疲労や行き詰まりとともに無音の時間が長くなっていく。――そういえば、もう数分も長考が続いているようだ。
単語の意味がわからないのか、構文の意味がうまくとれないのか、それとも単に翻訳がしっくりこないのか。ともかく栄の疲れもしくは苛立ちレベルはそこそこの水準まで上昇してきている。
そろそろコーヒーでも淹れてやろうかとヘッドフォンを外した羽多野がそっと立ち上がった瞬間、栄も書類の束から手を離して疲れ果てたように天を仰いだ。
「……疲れた。なんか、むしょうに甘いものが食べたい」
「どうした? 君がそんなこと言い出すなんて」
負けず嫌いの栄が「疲れた」と口にすることは珍しいが、甘いものが食べたいなどと言い出すのはそれ以上にまれなことだ。
「さすがにこの分量の資料翻訳やってると、脳のエネルギーが枯渇しますって。頭全然回んない」
手元にあるのは分厚い紙の束。そんなものの翻訳、わざわざ休日をつぶしてまで一等書記官自らがやるべきことなのだろうか。
断ろうと思えば断れるのを、毎度のごとく良い格好しようとして安請け合いしてしまったに違いないと推測するが、口に出せば、それが事実であろうとも――いや、事実であればなおさら――短気な恋人の怒りに火がつくのは確実だ。羽多野は代わりにかける言葉を探す。
「ちょっとは手を抜けば良いんじゃないか? 翻訳ソフトで下訳するとか」
「機密情報は含まれないけど、資料自体は未公表なんです。オンライン翻訳なんて使えません」
近年オンラインの翻訳サービスの精度は驚くほど向上している。羽多野のような準ネイティブの人間であっても、ざっと機械翻訳にかけたものを原文と見比べて修正していった方が効率面では勝るくらいだ。だが、オンラインサービスゆえに、翻訳にかける際に文章は業者のサーバーを経由する。栄のような職業の人間にとってはそこがネックになるのだ。
「手伝おうか?」
オンラインサービスがダメなら、最後に残るのは「信頼できる人間」。だがこの提案にも栄は首を左右に振った。
「だから、未公表の資料なんだって。いつも言ってるでしょう、信用とかそういう問題じゃないんです」
「はいはい、職業倫理ね。わかってます、わかってます」
中身に機密が含まれていないのならば少しくらいは……と隙あらば抜け道を探すのが羽多野のようなタイプ。だが、くそ真面目を絵に描いたような栄はわずかなルールの逸脱すら許さないのだ。
お疲れモードで、それゆえ若干ご機嫌も斜めな王子のためにできることは少ないようだ。まずは温かいお茶でも淹れて――珍しく出された具体的な要望に応えることができれば、さらに良い。
とはいえ、男ふたりで暮らす部屋に甘いものの買い置きは見当たらない。万が一どこかに土産菓子でも残ってはいないかとストッカーを確認するが、ひとかけらのチョコレートすら残ってはいなかった。
羽多野は甘いものより酒が好きだ。出されたものは文句ありがたくいただく主義ではあるが、自ら菓子類を買う習慣はない。栄は酒も甘いものもいける口だが、健康管理と「恥ずかしいから」という理由でやはり、自ら菓子類を買うことはしない。
健康管理――栄の場合はナルシスティックな容姿へのこだわりゆえといったほうが正確だろう――はまだしも、自分で食べるために菓子を買うのが恥ずかしいというのは、いまどき失笑ものに古くさい考えだ。だが、化石のような価値観で自らを縛って勝手に苦しむのが他ならぬ谷口栄という男なのである。
わざわざペストリーショップに入って自分用の菓子を買うのは恥ずかしくてたまらない。スーパーマーケットの安い菓子で欲求を満たすことには抵抗がある。そんな栄がまれに勇気を出して甘いものを買いに行くと、結果として量がおかしなことになる。
「なんでこんなにたくさんあるんだ?」
あれは最初に栄がケーキを買ってきたときだった。紙箱の中には色とりどりのカットケーキが四つ並んでいるのを見て羽多野は首をかしげた。
生菓子なので賞味期限は短い。そして、いくら「今日は甘いもの解禁日」と決めているにしても、栄が一度にふたつも三つもケーキを食べるというのは考えづらい。
「……あれば食べるかなと思って。羽多野さんけっこう量食べるし」
「これ、ふたつずつのつもり?」
「いや、俺はひとつでいいです」
「ふうん」
歯切れの悪い言葉。視線を合わせない。それらの態度から総合的に考えて、羽多野はひとつの答えを導いた。
「要するに、ひとつふたつのケーキだといかにも自分用っぽくて恥ずかしいから、手土産っぽく見せようとして多めに買っちゃったわけか。いかにも谷口くんらしいな」
図星をつかれた栄は顔を赤くして拗ねて、部屋にこもってしまった。あのケーキは結局どうしたんだっけ。
甘いものといえば「パリ事件」もあった。いつだったか、パリ出張から戻ってきた栄は不機嫌だった。同僚の久保村に連れられて行った有名な菓子店で、自宅用に甘いものを買うと言い出せなかったのだ。
「出張のときこそ、土産だって言えば恥ずかしくも何ともないだろ」
「俺、職場ではひとり暮らしってことになってるんです。甘いものだって、自分で買ってまでは食べないって言ってるから」
「そんな整合性、誰も気にしないと思うけど。しかも一緒に行ったの、あの卵みたいな奴だろ?」
出張に同行した久保村という男については、栄からもトーマスからも聞いたことがあった。親しい同僚と言われたときは気になったが、名前を検索してみたところ、出身である保健省の採用パンフレットに丸々と太った気の良いハンプティ・ダンプティ風の男が掲載されているのを見つけた。
天地がひっくり返ってもこの男と栄がどうにかなるはずはないと確信して、羽多野は久保村という男への警戒や嫉妬の一切を捨てた。
職場でたびたび菓子類をお裾分けしてくるという久保村の前で甘いもの好きを隠す必要などない気がするのだが――人並み外れた自意識過剰の栄は栄はそのときも、「俺はいいです」と言って手ぶらで店を後にしてしまったのだという。
そんなことを思い出しながら、羽多野は口を開いた。
「ケーキかチョコでも、買ってこようか?」
栄は少し考えてから、「いや、いいです」と申し出を断った。
「こっちのケーキでかいし濃いから、この時間に食ったら夕食に響きそうだし」