その指は甘い。だけではなくて(2)

 週が明けて月曜日、夕方になって羽多野のスマートフォンに栄から連絡が入った。

 ――急ぎの仕事が入って遅くなります。すいませんが夕食はキャンセルで。ひとりで行ってくれても構いません。

「どうしたんですか、デートのキャンセルですか?」

「……なんだよ、藪から棒に」

 女の勘とはおそろしいものだ。と思う羽多野だが、テーブルの向かいに座った神野小巻は長い黒髪をかきあげて「何を当たり前のことを」と言いたげな表情をする。

「だってあからさまにがっかりした顔をするんだもん。しかも即座に否定しない時点で、図星。いいなあ、タカの彼女は愛されてて」

 小巻のインターンシップ期間は先月いっぱいで予定どおり終了となった。日本には帰りたくないと熱心すぎる就活&婚活を繰り広げていた彼女は努力の甲斐あって日系大手企業のロンドン支店で採用が決まり、先日勤務を開始したところだ。当初は現地企業に絞って応募していたものの、最終的には贅沢を言っている余裕もなくなったのだ。

 日本では誰もが名前を知っている大企業だし、今後気が変わって帰国したくなったときも融通がきくかもしれない。話を聞く限り社員教育も福利厚生もしっかりしている。かなりの好条件にもかかわらず、小巻の行動のベースにあるのが「元夫や日本の友人知人を見返してやりたい」というネガティブなモチベーションであるゆえ、本人としては満足できずにいるのだ。

 欧州企業が常に日系企業より優れているわけではない。だが、できるだけ日本人が少なく、日本人であることがメリットと見なされない環境で評価されたい気持ち自体は羽多野にも理解できる。リラの存在がなければ大学院を卒業する際に羽多野も米国で就職活動をしていただろうが、その場合は間違いなく日系企業は候補から外していただろう。

 そんなこんなで、ひとまず「インターンシップ教育係」が終了し羽多野はせいせいしていたのだが、抜け目のない小巻は新しい勤務先のサービス資料を手に早速営業活動にやってきた。ちなみに英国在留権を狙っての婚活はまだまだ継続中なのだという。

 小娘の相手が億劫であること以上に、羽多野にとって神野小巻との関わり方は頭の痛い問題をはらんでいる。どうやら「実家が太い日本人の女」と羽多野が関わることは、思った以上に栄を刺激するらしいのだ。

 ちょうど同時期に栄がジムで出会ったいけ好かない英国男に言い寄られていた件も重なって、お互いに疑念をたぎらせ不毛な争いを繰り返した。あの喧嘩はおそらく恋人関係になって以来最大の危機だった。

 最終的には仲直りできたし、浮気疑惑も嫉妬心もマンネリ防止のスパイスになったと思える程度にはもできた。だが、栄にあのジェレミーなる男がいるジムを退会させ、できるだけふたりきりで会わないよう言い含めた手前、いくら会社の面会スペースであるとはいえ自分が小巻と向かい合っていることにいくらかの後ろめたさはあった。

 まあ、多少なりともスケベ心を持ってジェレミーと会っていた栄と、心底面倒くさいと思いながら小巻の相手をしていた自分では、そもそもの罪状が段違いだと羽多野は今でも信じてはいるのだが――。

「そういえば、婚活はどうなったんだ」

 話をそらそうと羽多野が切り出すと、小巻はいかにも欧米かぶれの日本人らしい大げさなジェスチャーで「全然だめ」と返す。

「そういう意味でも日系企業に入ったのは大失敗。主要ポストは本社派遣が占めているから会社での出会いにも期待できないし、ちょっと落ち着いたら転職活動再開しようと思ってます。そのときはまたCVの添削お願いしますね」

「……冗談じゃない。俺はもう君の指導役じゃないんだから」

 社風にもよるが、一部の日系企業では重要な情報や意思決定は日本人スタッフに独占されている話は聞いたことがある。そういう企業ではローカルスタッフのモチベーションは上がらないし、現地採用枠に優秀な人材が集まりづらい。小巻が狙うエリート英国人との出会いは望み薄というわけだ。

 それにしても、結局彼女は就職がしたいのか結婚がしたいのか。喉元まで出かかるが、下手に小巻の人生プランに口出しすればまた男を紹介してくれなどと言いだす危険がある。

 今も華々しい国際結婚を狙う路線は変わっていないようだが、何かの拍子に「羽多野の友人である、イケメンエリート官僚」への関心が再燃たら大問題だ。何しろ小巻は彼こそが〈うらやましいほど愛されている〉羽多野のパートナーだとは知るよしもないのだ。

「まあ、婚活にしろ転職にしろ、気が済むまでがんばってみればいいんじゃないか」

 結局羽多野は、一切心のこもっていない相づちでこの場をやり過ごすことにした。

 それにしても、栄のワーカホリックぶりは相変わらずだ。

 弱音を吐きつつも、結局週末まるまる費やして例の翻訳作業をやり遂げてしまった。これでも本人曰く「日本にいる頃と比べたらずっとまし」で、もちろん当時の栄の多忙は、羽多野が容赦なく仕事を発注していたからでもある。

 真面目なのは栄の美徳だ。下手に暇を持て余してまた「俺はやっぱり押し倒されるより押し倒す方が向いているのでは」などと妙な考えを起こされても困る。だが一緒に過ごす時間が減るのは羽多野としても面白くないし、何より息抜き下手な栄の心身が心配だ。ねぎらい半分機嫌とり半分でできたばかりのレバノン料理店に誘ったところ色よい返事が得られたところまでは良かったが、今度は「残業」なる伏兵が邪魔をする。

 ――そこでふと蘇るのは、昨日聞いた「甘いものが食べたい」という呟き。

 そうだ、今日は帰りに何か甘いものを買って帰ってやろう。脂肪も糖分もがっつりな英国風ケーキはもたれるというのなら、優しい甘さで胃にも優しい何か――そういえば――栄は確かプリンが好きだと言っていたっけ。

 東京の羽多野のマンションではじめて栄を抱いた翌日、羽多野は店員に勧められるままに限定品の高級和栗のモンブランと、何の変哲もないカスタードプリンを買って帰った。

 あのとき良かれと思ってモンブランを差し出した羽多野の前からプリンをかっさらった栄は「俺がプリンが好きだってことすら知らないんですね」と、まるでそれが努力不足だと言わんばかりに羽多野を責めたのだった。

「プリン、か」

「え? プリン?」

 脈絡のない呟きに、小巻が怪訝そうに眉をひそめる。羽多野はうなずいた。

「そう。普通の、古くさい喫茶店で出てくるような固めのプリン。ああいうのどっかで売ってるっけ?」

 プティングと呼ばれるデザートは英国発祥である。だが、とりあえず何でもかんでも蒸したり焼いたりして固めたものをプティングと総称するらしきそれらは、日本のカスタードプティングとは別ものだということに羽多野は気づいていた。

 果たしてあの、昔ながらのプリンは万国共通のデザートなのか、それとも日本固有のものなのか。東京での手土産選びには自信のある羽多野だが、プリンの国際比較にはまったくの素人だ。しかし運良く目の前にはスイーツ大好きな日本人女性がいる。

「似たものはあるけど……」

 突然の話題転換に不審そうではあるものの、菓子の話となるとすっかり乗り気で、小巻はロンドンで手に入るプリン似の菓子について語りだした。フランス菓子のクレームブリュレやクレームカラメル。スペイン菓子のカタラーナ。イタリアにはブネと呼ばれるチョコレートプティングもあるのだという。

「でも、やっぱり日本のプリンと比べると濃厚すぎるというか、ちょっと違うんですよねえ。ほら、喫茶店とかで出てくるレトロなプリンって卵と牛乳のシンプルなやつじゃないですか。でもこっちのはクリームが多い気がするんですよねえ。しかも乳脂肪分高いやつ」

「へえ」

 プリンが何でできているかなど考えたことはない。牛乳を使うか生クリームを使うかで味にどのような違いがあるのかすら、羽多野は正直よくわかっていなかった。だが、日本風のプリンを探し求めるに当たってその差異は重要なものであるらしい。

 難しそうな顔をして小巻は続ける。

「日本料理店のデザートが確実かなあ。でもまあ、プリンなんて材料はシンプルでどこにでも手に入るわけだし。一番確実な方法は自分で作ることじゃないですか?」