その指は甘い。だけではなくて(3)

「プリンって……、作れるのか?」

 反射的に羽多野の口を突いたのは、自分でもびっくりするほど間抜けな質問だった。

 小巻にとっても博識かつ自信家である元上司の口からこのような言葉が出てくるのはよっぽど意外だったに違いない。アイラインで囲った目を一度ぎょっと見開いて――おそらく内心で「でもまあ、男なんて料理に関してはこんなもんか」と呟くだけの時間を置いてから首を縦に振った。

「作れますよ。基本的には卵と牛乳と砂糖を混ぜて蒸し焼きにするだけですから、お菓子作りの中ではそれこそビギナーレベルじゃないかな」

 かくして羽多野貴明はその日の仕事帰りに、約四十年の人生で初めてスーパーマーケットの製菓材料売り場に向かうことを決めたのだった。

 貧乏学生時代からこっち、結婚していた頃や秘書業務が多忙だった時期のブランクはあるものの、それなりに自炊はしてきた。万事において器用なタイプだという自負もある。プリンの難易度が本当に小巻の言うようなものであるなら、自分にだって作れるに違いない。

 そんな気安い気持ちでいたのだが、通い慣れたスーパーマーケットで、いざ「HOME BAKING」というサインの出ているエリアに足を踏み入れると、一切言葉のわからない、文字を読むことすらままならない異国に放り込まれたかのような不安と戸惑いに襲われた。

 棚に並ぶ多種多様の製菓材料のうち、羽多野に理解できるのはせいぜい「小麦粉flour」くらいだが、それすら、とてもメーカーの違いだけとは思えないほど多くのパッケージが並んでいる。よく見ると、グルテン含有量やら粉の挽き方やら細かい違いがあるようだ。

 その他にずらりと並ぶ粉、粉、粉。ベイキング・パウダー、ドライイースト、アーモンドパウダー、ゼラチン……あたりは名前は聞いたことくらいはある。しかし用途は完全に不明だ。

 ――落ち着け。

 羽多野は自分に言い聞かせて、ひとつ深呼吸する。

 気後れする必要などない。ここは英国だ。パッケージに書かれているのはすべて、羽多野にとって馴染みのある英語。作ろうとしているのは小巻曰く「製菓初心者でも作れる」プリン。人気のコンテスト番組で参加者が泣きそうになりながら取り組んでいるハイレベルな菓子作りとはまったく異なるレベルのものだ。

 そして、棚にどれだけ多種多様の謎の粉が並んでいようと、用のある商品はたったのひとつだけ。

「えっと、バニラエッセンス……」

 スマートフォンの画面には、プリンのレシピが表示されている。

 検索サイトで「プリン 作り方」と入力してみた結果があまりに大量であることには圧倒された。レシピの善し悪しがわかるはずもないので、写真だけを頼りに栄が好みそうなクラシックなタイプのプリンの中で一番上位のものを参照することにした。

 小巻の言うとおり、プリンというのはごくシンプルな料理らしく、レシピで指定されているうち聞き慣れない――つまり製菓に特有の材料は「バニラ・エッセンス」なるものだけだった。

 棚を端から見ていったところで「バニラ」という単語を発見する。黒く干からびたインゲン豆のような姿をした「バニラ・ビーンズ」、そして瓶に入った「バニラ・オイル」と「バニラ・エクストラクト」。

 経験上「バニラ・エッセンス」というのが和製英語であろうことは想像できる。検索して出てきた画像は小瓶なのでおそらく「バニラ・オイル」と「バニラ・エクストラクト」のどちらかが相当するのだろう。もたもたと棚の前でウェブ検索を繰り返し、半ば博打のような気分で後者を手に取った。

 帰宅した羽多野はすぐにプリン作りに取りかかることにする。

 予告通りであれば栄の帰宅は十時を回る。そんな遅い時間に家で食事をとるかどうかはわからないが、好物のプリンを前にしたならばどんな反応を見せるだろう。

 知る限り、ロンドンに来てから栄は一度も日本風のプリンを入手してはいない。大使館という特殊な環境に身を置いている以上、羽多野の知らないどこかで口にしている可能性は否定できないが、だとしても、それこそ脳の糖分が枯渇した状態で帰宅したところに予想外に差し出される「恋人お手製のプリン」に驚き――素直に態度に出すかは別として――感激することは間違いない。

 羽多野の脳内にくっきりと浮かんでいるのはレシピサイトに掲載されている写真と瓜二つの美しいプリンの姿。だが、そのイメージが崩れ去るまでにはさしたる時間はかからなかった。

 テーブルに材料を並べて、いざ作業開始とばかりにレシピに目を落としたところで羽多野の手は止まる。作業手順の最初に書いてあるのは「常温に戻したバターをプリン型に塗っておく」というもの。

「型、だと?」

 そこで初めて、プリンと言われたときにイメージする山形のシェイプは、専用の型によるものであることを知る。よくよく見れば材料の上にも「100mlプリン型4個分」という記載がある。

 完全な失策だった。「作り方は簡単」という言葉に引きずられた羽多野は、材料を買いそろえることに夢中で菓子作りに必要な器具のことをまったく考えていなかったのだ。

 改めてレシピを読んでみると、プリン型の他にも「漉し器」「泡立て器」など、男所帯には存在しない――というか羽多野にとっては「聞き覚えはあるが、どんな形状のものかすら思い浮かばない」調理器具の名前が続々と出てくるではないか。

 羽多野の中に、レシピに対する不信感が湧き上がった。

 だって、そんなよくわからない器具、必要なら冒頭の目立つ場所に太字、なんなら念を入れてフォントの色を変えるくらいの注意深さで記載しておくべきではないだろうか。それとも菓子を作る人間にとっては、プリン型やら漉し器やら泡立て器やらは、言われるまでもなく所有しているのが当たり前のものなのだろうか。

 ともかく、選択肢はふたつ。不見識を反省した上で明日にでも必要な器具を買いそろえ、レシピを熟読して万端の状態でプリン作りに挑む。もしくは、とりあえずこのキッチンにあるものを代用してみる。

 この時点で羽多野は薄々勘づいていた――もしかしたらプリン作りとは、小巻が言うほどに単純な作業ではないのかもしれない。だが、その予感に愚直に従うには、羽多野のプライドは少々高すぎた。

 せっかくやる気を出して材料まで揃えたというのに、今さら引っ込みがつかない。そもそも、専用の型がないことがそんなに重要なのだろうか。買い物に行ったところで日本で売っているようなプリン型がロンドンで手に入るとは限らない。第一ケーキ屋ではプリンのほとんどは、ガラスや陶器の器に入ったままで売られている。あちらのスタイルを目指せばいいではないか。

 羽多野はカップボードからマグカップを取り出すと、プリン型の代用にすることを決めた。泡立て器……なんてなくたって、卵と牛乳と砂糖くらい箸でぐるぐるやれば混ざるだろう。漉し器に至っては、そもそもプリン液は液体なので、わざわざ漉さなくたって大きな問題は起きまい。  

 泡立て器……なんてなくたって、卵と牛乳と砂糖くらい、箸で混ぜればいいだろう。漉し器? そもそもプリン液はどう考えても液体なのに、わざわざ漉さなくたって大差はない。

 強行突破することを決めた羽多野は「プリン型にバターを塗る」の段階はスキップして、レシピの次の手順であるカラメルソース作りに取りかかろうと、小鍋と砂糖を取り出した。

「あ……」

 そこで気づく。カラメル作りに使うグラニュー糖は三十グラム。だがこの家に正確にその分量の砂糖を量るためのキッチンスケールはない。一瞬代用品としてバスルームにある体重計が頭に浮かぶが、確かあれば百グラム単位までしか計れない。

 砂糖袋を手に再度悩んでから羽多野は――ええいままよ、と目分量で鍋に砂糖を流し込んだ。