次の朝は、普段どおりの火曜の朝だった。
正確には、羽多野は細心の注意を払って普段どおりの朝を装った。少なくとも栄には一切の違和感を抱かせなかったはずだ。
時間をずらして家を出ろとにらみつけてくる栄をいなしながら、一緒に玄関を出て駅へ向かう。一駅だけは同じ車両に乗り、栄だけがビクトリア駅で降りて職場に向かう路線に乗り換える。
「じゃあ」と背を向ける栄に羽多野は「ああ」と小さく返す。いつもならば、そっけない別れを物足りなく思うところだが、今日に限っては仕立ての良いスーツに包まれた姿勢の良い背中がホームに降りて、人混みの中に消えていくのを待ち遠しく思った。
念には念を入れて、もう一駅先まで乗ってから羽多野も下車する。勤務先の駅はもっと先だが、すでに休暇の連絡は入れてある。
対外的な用件は入っていなかったので、自分の仕事の調整さえできれば急な休みを取ったところで誰に迷惑をかけるわけでもない。こういうところは日本企業や議員事務所と比べると圧倒的に気楽だ。
製菓用品が充実している大型スーパーマーケットの場所はしっかり下調べしてあるが、まず必要なのは買い物計画の復習。とりあえずは近くのカフェに入ってコーヒーを注文して心を落ち着けることにした。
初心者向けだと侮っていたプリン作りの大失敗は、羽多野のプライドをいたく傷つけた。だが、これまでも数多の屈辱や挫折を味わうなかで羽多野はすでに学んでいる――失われた自信を取り戻すには、挫折を覆い隠すほどの成功体験が必要であるということを。
つまり、プリン作りに再度挑んだ上で成功させ、当初思い描いたように栄の驚きと満足を引き出すことができさえすれば、昨晩の失敗は塗りつぶされるだろう。
「それに……」
塗りつぶす、といえばもうひとつ。
昨晩悔しさのあまり眠れず、ベッドの中で悶々とプリンについて考える中で思い出したことがあった。東京まで追ってきた栄を初めて抱いたあの日の晩のことだ。
四ッ谷のマンションで、羽多野の目の前にあったプリンをかすめ取った栄は体裁悪そうな顔をしつつも、久しぶりに味わう好物にご満悦だった。一方の羽多野は、喜ばせるつもりで買った高級モンブランが空振りに終わった挙げ句に、栄がプリン好きであるのを知らなかったことを「そんなことも知らないんですね」と謎の上から目線でなじられた。
「……それにしても、プリンとは意外だったな」
あまりの理不尽さに自分の分のモンブランを食べ終えても心にはもやもやとした気持ちが残り、思わずそんなことをぼやいていた。
「意外? 俺が甘いもの食べるのが、そんなに滑稽ですか?」
「そういう意味じゃない。高級志向の谷口くんだからてっきりこっちの方がお好みだろうって思ってたんだよ。値段だって三倍もしたんだから」
あくまで「良かれと思ってモンブランを選んだ」ことを主張する羽多野に、しつこいと言わんばかりに栄はため息を吐いた。
「値段の問題じゃないでしょう。高ければ喜ぶだろうなんて、安易な」
金額の話に持ち込むのは下品だと言いたげな冷めた視線。普段から社会的地位や経済力で人を値踏みしてばかりの栄なのに、完全に自分のことは棚に上げている。
「まあいいや。わかった、覚えたよ。これからケーキ屋で君に何か買うときはプリンにする」
セックスの余韻で多少心に余裕があった羽多野はおとなしく引き下がり、そこで口論は終わった。
栄は最後のひと匙までじっくりプリンを味わってから、自分の羽多野への態度がひどすぎたと自省でもしたのか、突然ぽつりとつぶやく。
「子どもの頃、たまにプリン食べるのが楽しみだったんですよ」
羽多野の耳がぴくりと動く。あまり自身の内面を語りたがらない栄が少年時代の思い出を自ら口にする機会は貴重だ。それこそ多少の横暴など水に流せてしまう程度には。
「たまに?」
聞き返しながら首をかしげる。代々文京区に暮らす法曹一族の谷口家、プリンくらいいつだって買えるだろう。そんな羽多野の疑問に栄はうなずいてみせる。
「うちの母親、基本おやつも手作り派だったんですよ。不味くはないけど味気なくて。外で甘いもの食べる機会は貴重でした」
「ああ、そういうことか」
そういえば似たような話は前に少しだけ聞いたっけ。保守的な脳みそをお持ちの谷口家に嫁いだ栄の母は「跡継ぎ息子を産み、健康に育て上げること」に血道をあげた。やや過保護、過干渉な育児方針は、栄がこだわりが強く潔癖な扱いにくい人間に育ったことと無関係ではないだろう。
谷口家では、幼少時代は家での食事もおやつも、誕生日やクリスマスなどイベント時のケーキもすべて母親の手作り。たまに連れて行かれるレストランやデザートパーラーで頼むのも基本的には「できるだけシンプルで体に良さそうなもの」。
「で、プリンってわけか」
「あからさまなんですよ。母の趣味で観劇やら買い物に連れ回されると、そういうときだけ罪滅ぼしみたいにパーラーで甘いもの食わせてくれるんです。かといって俺に選択権はなくて、出てくるのは決まってプリン・ア・ラ・モード。でもそれがうまくて」
長時間面白くもない母親の用事に付き合わされて、疲れ果てたところで出てくる皿いっぱいのプリンにフルーツ。子ども心に最高級のごちそうであったことは間違いない。
三つ子の魂百まで。栄にも幼少時代の思い出をいまだに引きずるような可愛いところがあるのだと微笑ましい気分になったことを、昨晩羽多野はふと思い出したのだ。
そして、新たな野望を抱いた。
――リベンジするからには、その思い出のプリンとやらを超えてやろうではないか。
店名までは教えてもらっていないので、羽多野は銀座界隈の老舗パーラーのプリン・ア・ラ・モードを検索しまくった。それから英国在住日本人がロンドンにある材料で日本風の菓子を再現しているブログを探し当て、具体的な再戦プランを立てにかかった。
どの牛乳を買えば良いか、どの砂糖がいいか。英国で一般的なプティング型やオーブンを使用した場合の焼き上げ温度や時間はどうすべきか。自己顕示欲の強すぎる素人がインターネット検索結果を汚しているに過ぎないと個人ブログなるものを馬鹿にしていた羽多野だが、こうして悩める人の役に立つこともあるのだ。
羽多野はやるときはやる――しかも徹底的に――男である。同じ失敗は決して繰り返さない。昨晩の失態の原因が準備不足知識不足であることは明白なのだから、今日は丸一日かけて綿密な準備と実践を繰り返して完璧に仕上げたプリンを準備すると決めている。
そうすれば今後栄が好物のプリンについて考えるとき、一番に浮かぶのは銀座のパーラーではなくなるはずだ。ロンドンという異国の地で恋人が作ってくれた完璧なプリン・ア・ラ・モードは、少年時代の思い出など塗りつぶしてしまうだろう。羽多野にとってはそれもまたひとつの独占欲のかたちなのだ。