その指は甘い。だけではなくて(6)

「ありがとう、しっかりした資料を作ってくれたおかげで今日のレクは大成功だったよ。急な頼みで迷惑を掛けたね」

 そりゃそうだろう。俺はその「急な頼み」のために貴重な土日を潰し、さらには追加注文に応じるために月曜の夕食の予定もキャンセルしたんだからな。

 ――という本音を口に出すことは当然できないので、栄は電話に向かっていつもどおり、心にもない愛想を振りまく。

「いえいえ、お安いご用です。書記官なんてこういうときに使われるためにいるようなものですから、お役に立てることがあればいつでもお申し付けください」

 電話の向こうにいるのは、栄の本来所属している産業開発省の大臣官房審議官。栄にとっては同じ法律職採用というだけでなく、同じ大学で同じ教授のゼミに属していた、二重、三重の意味での大先輩に当たる。

 良い意味では、栄のことを気にして目に掛けてくれるありがたい相手。悪い意味では、まるで舎弟であるかのように気軽に調べ物や頼みごとを振ってくる厄介な相手。ともかく、彼からの無茶振りを断ることはおろか、迷惑そうに眉をひそめる姿ひとつ見せることすら栄には許されないのだった。

 電話を切ると、事務室にパラパラと拍手の音が響く。

「いや~、谷口さんは大人だな」

 同僚の久保村だ。どうやら通話内容を聞かれていたらしい。

 先週も終わる頃に突然「来週火曜に英国の通関制度と、日英貿易の現状と課題についてレクをすることになったんだけど、資料作ってくれない?」と依頼されてがっくりと頭を垂れた栄の姿も、久保村には見られていたのだった。

「誰だって審議官から直電もらって『そんなショートな〆切じゃ無理です』って言えないでしょう」

「関係性にもよるけど、僕なら言っちゃうかも。いや、頼まれたことはやらざるを得ないだろうけど、チクリとしんどかったアピールくらいは。だから、一切嫌な顔見せない谷口さんって本当に大人だなって思ってさ」

 確かに、穏やかそうに見えて意外と言いたいことは口にするタイプの久保村なら、「チクリ」くらいは言ってしまうのかもしれない。だが、久保村が多少上下関係を逸脱した言動をしたところで許されてしまうのは、ゆるキャラのような丸々とした外見とコミカルな存在感ゆえだ。入省以来ずっと真面目な優等生として生きてきた栄が同じように振る舞えば、相手はその「チクリ」を本気の嫌味だと受け止めるだろう。

 器用なようで不器用。そつなく振る舞っているようで損している。それが谷口栄という人間。久保村だって「大人」とオブラートに包んだ言葉選びをしつつ、内心では栄のことを交渉下手だと思っているのかもしれない。

 ネガティブなことを考えはじめればきりはないが、今はとりあえず、この三日間栄を苦しめた案件が完全に終了したことへの安堵の方が大きかった。

「はい、お疲れさま。こういうときは、これが一番」

 久保村が立ち上がり、丸い個包装のチョコレートを三つほど栄の机に置く。色とりどりのリンドールは最近の久保村のお気に入りで、大袋いっぱいのチョコレートをデスクに隠し持っては、ときおり栄にもお裾分けしてくれる。

「ありがとうございます」

 一口で食べきるにはやや大きすぎ、かつ濃厚すぎるチョコレートは栄にとっては食べるタイミングを選ぶ菓子だが、そういえばここ数日甘いものに飢えていたのだった。

 あれは土曜だったか日曜だったか、脳の糖分切れを訴える栄に、羽多野は珍しく「何か買ってこようか」と献身的な態度を見せた。

 今さらではあるが、あれを断ったのは冷たかっただろうか。いや、良くなかったといえば昨晩のディナードタキャンの方が罪深いか。ただでさえ土日ほとんど羽多野を放置していたというのに……。

 落ち着いた状態でここ数日を振り返り、栄はふいに羽多野を粗末に扱ってしまったことへの罪悪感を覚えた。特に不満を訴えてきたわけではないし、羽多野の態度自体も普段どおりではあった。だが、もしかして栄が申し出たディナーのリスケジュールを却下したのは、羽多野なりの不満の表明だったりするのだろうか。

 羽多野は怒りや不機嫌を隠すようなタイプではないはずだ。だが、ときに思いもよらない繊細さや複雑さを見せることがあり、まだまだ栄自身彼のすべてを理解できているとは言いきれない。

「いや、でも怒ってるなら朝わざわざ同じ電車に乗ったりはしないはずだし……」

 ぶつぶつとつぶやいているうちに甘いものへの欲求は嘘のように消え去り、久保村にもらったチョコレートはデスクの中にしまいこまれた。ちなみに栄の引き出しの一角には、過去に久保村にもらったもののまだ手をつけていない駄菓子類がけっこうな量溜まっている。

 

 

 そんなこんなで、帰宅するにあたって栄はやや緊張していた。

 確かレストラン行きを断られた理由は「定休日だから」だったはずだ。気になって駅から自宅への道筋にあるレバノン料理店を確認したところ、店舗には明々と照明が灯り、ドアには「営業中」のサインが出ている。

 ――つまり、これはどういうことだ?

 自分が感情にまかせて攻撃しているうちはいいのだが、いざ守勢に入ると途端に弱気になってしまう。万が一にも羽多野が怒っているのではないかと考えるだけで、家に帰る足取りはますます重くなった。

「あら、おかえりなさい」

 ちょうど共同玄関にさしかかったところで、帰り支度を整えたコンシェルジュの女性が管理人室から出てきた。

「ああ、こんばんは。お帰りですか?」

 微笑みかけながら、栄は内心で「悪いことは重なるものだ」と考える。人が良く働き者の彼女のことを嫌っているわけではないのだが、いくら否定したところでこの女性は羽多野と栄のことをゲイのパートナー同士だと信じている。

 それはもちろん事実ではあるのだが、栄にとって羽多野といるところを他人から恋人扱いされるのはどうしようもなく居心地が悪く気まずい。

 栄の社交辞令程度の挨拶に、彼女はうふふと笑い返し、意外なことを言いだした。

「そうよ。お宅は今夜パーティなんでしょう? うらやましいわ、楽しんでね」

「……パーティ?」

 まったく意味がわからない。というか、他の誰かと勘違いしているに違いない。男ふたりの味気ない生活で、しかも同居していることは周囲に隠している。羽多野と栄が自宅でパーティを開くことなどありえない。

 だが、ハトが豆鉄砲を食らったような顔をする栄に向かって、彼女はうなずいてみせる。

「ええ、今日の午前中あなたのパートナー、めいっぱい材料買いこんで帰ってきてたわよ」

 栄の思考は完全にフリーズした。

 今朝の羽多野は完全にで、スーツを着て嫌がる栄と一緒に家を出た。ビクトリア駅で地下鉄を降りる栄を見送ってそのまま彼のオフィスへ向かったのではなかったか。

 それが、午前中に大量の買い物をして帰宅だと? 一体どういうことだ。

 羽多野の行動の意味がわからず、栄は不可解この上ない気分でエレベーターに乗り込む。自宅のあるフロアで降りて玄関前に立つと、帰宅しようとしているだけにも関わらず、あまりの緊張感に吐き気すらこみ上げた。