日曜の朝、羽多野が目を覚ますと隣はもぬけの空だった。
枕やマットレスのへこみは、ささやかではあるが確かな彼の痕跡。手を触れるとすでにぬくもりは消えているところからすると、栄は少なくとも数十分前には起き出して、ベッドを出て行ったのだろう。
栄の同僚の強引な来訪という予定外のイベントをきっかけに、昨日の午後はこの部屋で濃厚な時間を過ごした。
恥ずかしさからなかなか認めようとはしなかったが、栄だってその前の晩の「期待外れ」からくすぶる欲望を持て余していたに違いない。焦らしに焦らしてからの行為は盛り上がり、そこに至るまでに積み重なっていた羽多野のフラストレーションをきれいに流し去ってくれた。
アラフォー、アラサーのふたりだから、さすがに夜にも一戦交えるほどの精力はない。それでも甘い空気はいくらか残っていたようで「マッサージしてやるよ」という誘いに特段の抵抗もせずやってきた栄は、そのまま羽多野と同じベッドで眠った。
日本風に言えば2LDKの物件は、リビングダイニングは共有スペース、主寝室は栄の書斎兼寝室、客用寝室を羽多野の寝室に割り当てられている。これは羽多野が転がり込んだときから変わらない。
仕事を見つけて二度目に渡英してきた当初、二人の寝室が分かれたままであることに不満を抱かなかったといえば嘘になる。
性生活について自我を確立する過程で、長い時間を米国文化の中で過ごした羽多野にとっては、セックスの有無関係なしにパートナーとは同じベッドを共有することが自然だ。過去には何度か、客用寝室を「二人の寝室」にしても構わないと意思表明をしたこともあるが、栄はいつだって理由をつけて断った。
恋人としての同居期間が長くなるにつれて、羽多野もおぼろげながら栄の言いたいことを理解するようになってきた、つもりだ。
普段は別々に眠る二人がたまにベッドを共にすることにはポジティブな意味が伴う。だが、その逆は?
頻繁に機嫌を損ねる栄がそのたびベッドを出て行き、プライドの高さゆえずるずると戻ってくるきっかけをつかめなくなることは容易に想像できる。自分自身も「いつ戻ってくるつもりなのか」と悶々とした夜を過ごさなければならないことを思えば、きっと二人にとっては今の「通い婚」形式の方が良いのだろう。
もちろん今回のようなすれ違うだってたまには起きる。だが、隣で眠ることも、抱き合うことも、当たり前でないからこそいつまでも新鮮。そういう一面があることは否定できない。
「それにしても」
休日の朝、けだるい雰囲気の中で二人、ベッドでだらだらいちゃいちゃ過ごすのも悪くないと思うのだが、よっぽど疲れているとき以外、栄は目を覚ますとさっさと起き出してしまう。
もちろん羽多野に声をかけることは、あり得ない。
前向きに解釈するならば、羽多野を起こさないよう配慮してくれているのだろう。しかし、せっかく一緒に眠っていたのに目覚めると一人きり、というシチュエーションに拍子抜けしないといえば、嘘になる。
そういえば羽多野の悪戯のせいで、昨日の午後進めるつもりだった仕事を積み残してしまったとぼやいていた。そもそも、それはわざわざ休日に家でやらなければいけないような作業なのか――という議論をふっかけたところで無駄だ。もしかしたら早起きして仕事をしているのか、もしくは人の少ない時間帯を狙ってジムにでも出かけたか。
そんなことを思いながらベッドから起き、脱ぎ捨ててあったスウェットとTシャツを身につけて羽多野は部屋を出ようとしてドアを引き、そこで動きを止めた。
室内で靴を脱ぐ習慣のない英国の住居に日本のような「三和土」は存在しないが、栄と羽多野は玄関ドアから半畳ほどのスペースで靴を脱ぎ生活している。その境目あたり――玄関の、日本であれば上がりかまちのあるあたりに栄の姿があった。
高所の電球交換などに使っている踏み台に、こちらに背を向けて座っている。いつだって背筋をぴんと伸ばしている栄には珍しく、少し肩を丸めて、集中しているのか背後のドアが開いたことにも気づいていない。
視線を床にやると、昨日理不尽にもゴミ袋に詰め込まれた羽多野の靴の数々が整然と並んでいる。
汚れ仕事が好きなタイプには見えないのに、栄は皮革製品のケアに関してはまめだ。立派な靴磨き用のセットを揃えて、素材の違うブラシやら、レザーの色や種類ごとに適したクリームやら、こまめに使い分けている。
お気に入りの革製品を他人に任せたくない、というこだわりも一因であるようだが、あるとき栄が「無心になれるんですよね」とつぶやいているのを聞いて、少しだけ納得がいった。
走ることや、ジムでウェイトを上げることや、泳ぐこと。栄にとっては靴磨きもそういった行為と同じなのかもしれない。ひたすら集中して、仕事や人間関係など、頭を悩ませるすべてから短い時間だけでも解放される。その上靴もピカピカになるのならば、確かに悪くない趣味なのだろう。
足音がしないようにそっと近づいて、肩越しに栄の手元をのぞく。
蜜蝋クリームを塗って丁寧に磨き込んでいるのは、羽多野のレースアップシューズだ。昨日栄がゴミ袋に詰め込んだ中に、もちろんこれも含まれていた。
栄の足下にはすでにケアを終えた靴が、シューツリーを入れた状態で並んでいた。プロのわざとまではいわないが、道ばたの靴磨きよりはよっぽど美しい光沢を帯びている。
こういったことは、初めてではない。
雨の日に濡れてしまった靴を脱ぎ捨てておいたはずが、いつの間にか除湿と型崩れ防止のための新聞紙が詰めてあったり。そろそろ磨きに出そうと思っていた靴がぴかぴかになっていたり。
「見ていられないんですよ、靴が可哀想で」
決して羽多野のためなどではなく、几帳面な自分にとって我慢ならないから、という言い訳をして。でも本当にそれだけだろうか? うぬぼれを口にすることは控えているが、栄の手によって磨き上げられた靴を見ると羽多野は恍惚にも似た感情を抱かずにはいられない。
「朝から精が出るな」
声をかけると、初めて背後の存在に気づいた栄はぎくりと肩をすくませてから、体裁悪そうに振り返った。彼の性格からして羽多野の靴を磨いている現場は見られたくなかったのかもしれない。
「……だって、ケアに出すからって言って、あなたいつも面倒だからって後回しにするでしょう? 靴が可哀想です」
決まり文句を口にしてから、今日ばかりは少しだけ小さな声で栄は「それにまあ、今回は俺のせいでもありますから」と付け加えた。
珍しい。栄が自らの非を認めるなんて、雪が降ったっておかしくないくらいの珍事だ。どんな気まぐれかはわからないが、少なくとも栄だって昨日の振る舞い――恋人の存在を隠すため、荷物もろとも寝室に押し込めたこと――を悪かったと思っているのだ。
せっかく見せてくれた素直な一面を、わざわざ揶揄って怒らせるほど羽多野も愚かではない。
「ありがとう」
正直に感謝の言葉を告げると、意外そうに目を丸くしてから栄は照れたように顔を背けて、手元の小瓶を取り上げた。
「オーガニックの限定生産でけっこう高いんですよ、この蜜蝋クリーム。そろそろなくなりそうだから、次は羽多野さんが買ってきてください」
わかったよ、とうなずいて羽多野は床に座り込み、磨き上げられた靴を取り上げる。靴のデザインや素材に合わせて鏡面磨きにしたり、マットに仕上げたり、シューケアの世界は奥深そうだ。
「俺も靴磨き覚えてみようかな」
「どういう風邪の吹き回しですか?」
「お礼に、君の靴でも磨こうかなって」
手を止めて振り返った栄は、感動にむせぶどころか心底嫌そうに首を振った。
「絶対にやめてください。あなたみたいながさつな人間に靴を触られたくない」
「ひでえなあ、俺だって靴磨きくらいできるって」
「ティッシュペーパーで土埃を拭うのは靴磨きとは言いませんよ?」
軽口を叩き合いながら、そろそろ腹も減ってくる頃合いだ。靴磨きは栄に任せて羽多野は朝食でも作ろうか。
幸い、週末はまだ一日残っている。
(終)
2023.04.15