ミカドゲーム(12)

「イエス/ノー枕でも買ってみようかな」

 行為を終えて喉がからからだが、キッチンに行かなければ水はない。手近な場所にあるウイスキーグラスを手に取りながら羽多野が冗談めかすと、背中を向けて横たわる栄はこちらを見もせずに吐き捨てる。

「そのネタ、今の若者には通じないと思いますよ」

「君には通じたからいいんだ」

「一緒にしないでください。俺だって概念として知ってるだけです」

 片面にYes、片面にNoと大書きされた枕の元ネタは確か、新婚カップスをスタジオに迎えて話を聞くという昭和臭あふれるバラエティ番組だ。現代の感覚だと、日中に放映されるテレビ番組で夜の営みを想像させる景品など良しとはされない。件の枕は番組から姿を消して久しいと聞く。

「俺だって、ネタとして聞いたことあるくらいだって」

 元ネタの番組についての知識は曖昧だが、秘書時代に付き合いで出席したパーティのビンゴ大会で、類似の枕が景品になっているのを見たことがある。出席者のほとんどは脂ぎったおっさんばかりで、セクハラギリギリのジョークグッズが笑いと共に飛び交う空間には正直辟易した。

 だが、わかりにくい恋人と暮らすようになった今では、どちらを上に向けているかで相手の意思がわかるあの枕は、素晴らしい発明品なのではないかと思えてしまう。

 残念なのはここが英国で、おそらくはバラエティショップでもアダルトショップでもイエス/ノー枕は売っていないであろうこと。欧米の中では比較的慎み深いと言われる英国人だが、さすがに枕でセックスの意思を示す必要はないだろう。

「君は素直じゃないからな」

 栄の気持ちをどうやって性格に推し量るかは解決できない問題だが、理解したつもりで気を回しすぎれば足をすくわれることだけは事実だ。そういえば栄が口淫を拒んだとき、遠慮から途中で行為を止めた羽多野に対して栄は黙って不安を募らせた。

「そういう部分があるのを否定はしないけど、あなたに言われるとすごく腹が立ちます」

 首やら腹やら内股やらにいくつも赤い、情事の痕跡を残されて栄はさっきから文句たらたらだ。こんなことになるのなら、昨晩の配慮は不要だったと繰り返す。かといって馬鹿正直に羽多野がいつも欲望のままに振る舞うのが正解かといえば、ことはそう簡単ではない。

「でも、本当に嫌な日だってあるだろ?」

「子どもじゃないんだから、そのときは一撃食らわせてやりますよ」

「そりゃあ頼もしいな」

 子どもじゃないなら、閉じているドアをノックして一緒に寝たいと伝えるくらいすればいい。それができない男に偉そうなことを言われたところで、羽多野としては苦笑するだけだ。

 口先では威勢が良い割に小心なのが栄。肝心なときに限って意思表示できずに無理をする。

 改めて、自分たちはまるで似ていないと思う。

 多くのものを持って生まれてきたからこそ、栄は失敗への警戒心が強い。何かを失うことを過剰に恐れては身動きがとれなくなる。対照的に、人生のほとんどを満たされなさを抱えて過ごしてきた羽多野は貪欲だ。欲しいものが手の中にあっても、まだまだ足りない気がしていつだって飢餓感に苛まれている。

 噛み合わないからぶつかるし、噛み合わないから歩み寄る。ちょっとしたことで一喜一憂しながら、それでも生活は続く。続くのだと、祈るしかない。

「それにしても、喉がからからだな。君も水いる?」

 やっぱりウイスキーで喉の渇きは癒やせない。冷蔵庫からボトルを持ってこようと、シーツで乱雑に下半身を拭ってから下着だけ身につけ羽多野はベッドを降りる。

「欲しいです」

 汗に唾液に精液に、もしかしたら涙だって搾り取られたかもしれない栄は素直にうなずいた。

 ついでに風呂の準備をしようと立ち寄ったバスルームは、玄関同様ひどい有様だった。

 羽多野の存在を知られたくない栄は、長尾にトイレを借りたいと言われてから慌てて「同居人の痕跡」を消し去ろうとした。

 洗面台に羽多野の歯ブラシは見当たらない。趣味の違うふたりがバラバラに使っているローションや整髪料は選別する間がなくまとめて取り去られてしまったのか、棚には不自然な空白が目立つ。引越直後でもあるまいし、勘の良い人間ならばむしろこの状況を不審がりそうだ。

 むしろ背景を察して身を引いてくれるならばありがたいのだが――最後の最後まで粘っていたところからすると、残念ながらあの男は相当に鈍感なようだ。

 バスタブまでは注意が向かなかったのか、石鹸置きの隣でひっそり身を寄せ合っている二羽のアヒル人形を横目にお湯のバルブをひねってから、羽多野はリビングへ向かう。

 バスルームから排除されたあれこれが詰め込まれた袋の横を通り過ぎ、冷蔵庫から水を二本。そこでふと、飲食料品が入ったストッカーの扉が開いたままになっていることに気づいた。

「あれ?」

 よく見ると、蒸留酒の瓶が一本消えている。しかも欠けているのはアイルランド人の同僚が帰省ついでに買ってきてくれた貴重な一本だ。

「おい、どういうことだ」

 寝室に戻るなり、羽多野は栄を問い詰めた。日本食材のお礼にと長尾に何かを渡しているのは聞こえていたが、まさか自分のウイスキーが差し出されているとは思わなかった。

「大事なのはクローゼットに隠してるみたいだから、あっちのは一本くらい構わないだろうと思って」

 一切悪びれずに栄はうそぶく。だが、あの棚の蒸留酒は左と右に分けてあって、右側にはそこそこ大事な酒が置いてあったのだ。几帳面な彼がそのことに気づかないはずがない。

 長尾に渡したのが、同僚が地元の伝手で入手してくれた貴重な酒であることを訴える羽多野に、栄は最終的にはため息で応じた。

「……羽多野さん、ケチな男はみっともないですよ」

 そして、続ける。

「あれくらいのもの渡さなきゃ、借りができて飲みや食事を断りづらくなるでしょう。あなた、俺が長尾さんと飯に行くの嫌なんでしょう? だったら安い代償だと思いませんか?」

 そう言ってふふんと鼻で笑う姿は、傲慢で高慢な、絶好調の谷口栄そのものだった。

 セックスの頻度については決定権を譲っているにもかかわらず、疲れたとかその気じゃないとか文句ばかり。かといって先回りして自制したら「余計な気を遣うな」。日々振り回されてばかりだが――この様子だと、ひとまず今日のところは王子のご機嫌回復には成功したようだ。

 だとすれば、酒の一本くらい代償として潔く捧げよう。同僚には、自分で飲んだ振りをしてネットで検索した感想を伝えればいい。

「仕方ない。今日のところはそういうことにしておこうか」

 そう言って笑うと、急に腹が減ってきた。昼は十分に食べたはずだが、セックスは体力を消耗する。羽多野は長尾が置いていった袋の中から、今度は「ポッキー」の箱を取り出し封を切った。

「長尾さんのこと文句言いつつ、結局もらったものは食べるんですね」

「スーパーマーケットで売ってるような安い菓子、君は嫌いだろ」

 添加物がどうとか、材料の質がどうとか、栄は食にうるさい。いくら懐かしい日本の菓子とはいえ彼が好んでこれを食べるところは想像できなかった。それに、栄のために持ってきたものを実は同棲相手が食べているというのは、長尾あの男への密かな仕返しにもなる。

 次々ポッキーを口に運ぶ羽多野に呆れた視線を向けて、栄は「風呂に行ってきます」と立ち上がる。

 飲みかけの水のボトルに蓋をしてからサイドテーブルに置こうとしてか、ベッドに座る羽多野の前を横切って――次の瞬間。

 すっと近づいてきた栄が、羽多野が咥えていたポッキーに反対側から噛みつく。またビスケットの軸だけ折って逃げるのかと思いきや、後頭部に触れた手にぐいと引き寄せられ、唇と唇が触れ合った。

「え?」

 予想外のキスは、目を閉じる間もなく終わる。風のような早さで体を離した栄は、掠め取ったポッキーを咀嚼してから大真面目な顔で言った。

「MIKADOもポッキーも、味変わらない気がしますね」

「……そ、そうだな」

 果たしてこれは、どう反応すべきなのだろう。ノリの悪い男が見せた意外な行動に戸惑う羽多野に、栄は勝ち誇った。

「俺を見くびるなっていつも言ってるでしょう。人並みに市販の菓子食べることだってありますし、ポッキーゲームくらいできますよ」

 去って行く背中を見ながら、羽多野は思う。結局自分は栄には敵わない。これからも気まぐれな王子に振り回されて、お側に置いてもらえるよう機嫌をとり続けるしかないのだと。

 とはいえやられっぱなしも性に合わない。何か意趣返しができないかと首をかしげたところで、バスルームから大きな音が聞こえた。もしかしたら、仲睦まじく並んだアヒルのおもちゃを撤去し忘れていたことに気づいた栄が動揺して物を落としたのだろうか。

 面白い想像に、思わず口元が緩む。

 さて、様子を見に行って――なんならバスルームで頑張ってみたっていい。菓子の空箱をゴミ箱に投げ込むと、羽多野は口笛を吹きながら寝室のドアに手をかけた。

 

(終)
2023.01.30 – 2023.03.21