ミカドゲームの裏側・編(感想戦)

 バタン、と音を立てて目の前で扉が閉じる。

 と同時に、長尾の憧れの対象である谷口栄の顔はあっけなく視界から消えてしまった。

「……」

 ドアが再び開くことはなかろうか。そんな期待にすがって、にこやかな彼の残像を思い浮かべながら立ち尽くすこと数十秒。セキュリティの行き届いた物件特有の厚い扉は沈黙を守り、長尾はようやくその場を立ち去るしかないことを認めた。

 確か栄は、これから出かける予定があると言っていた。身支度を整えた彼が出てきて、ドアの前に居座っている長尾を見つけたらきっと不審に思う。最悪、ストーカー認定されてしまう危険性もある。

 いや、栄が絵に描いたような好青年であることや、自分と彼が数少ない同世代独身同士ということで築いている、同僚の中でも幾分特別(であるはず)の関係性を思えば、さすがにそれはネガディブすぎる考えだ。

 休日の午後を共に過ごしあわよくばポッキーゲームでも……という思惑が外れたことは残念ではある。だが、慎み深い彼のことだから、事前に「お裾分け」を予告すれば遠慮しただろう。その点からいえば、短時間とはいえ谷口栄の自宅訪問を達成したことはきっと大きな成果だ。

 出社日以外の栄の姿を見るのは初めてだった。

 スーツ姿に比べるとカジュアル感の強いシャツとアンクル丈のボトム。髪もラフに整えられているからか、普段目にする姿よりも若々しく、高嶺の花である彼が少しだけ親しみやすい雰囲気にも見えた。

 まだまだ自分の知らない彼の姿がある。

 常にきっちりとした栄は、一日家にいるような日でもTシャツや短パン姿ということはないだろうか。寝るときはスウェットか、それともパジャマか――まさか裸派ということはないだろうが。いやいや、そんなけしからん想像で憧れの人を汚してはいけない。

 清掃が行き届いた廊下を歩きながら、長尾は自分が堂々とここに通う権利を得た未来についてちょっとした妄想をしてみる。

 同性での職場恋愛など明らかにすることはできないから、付き合う場合は「秘密の恋」になるだろう。スマホのメッセンジャーアプリでこっそり約束をして、一度は別々に職場を出る。

 それからどこかで待ち合わせ? いや、周囲を気にせずのんびり過ごすにはお家デートが一番だ。栄が自宅に帰り着いた頃を見計らって長尾はこの部屋を訪れるのだ。お土産にはデリで買ったちょっと上等な惣菜とか、ほら、今手にしているような酒――。

 そこで、長尾は一度現実に戻る。

 手の中にあるのは半ば無理やり押しつけられた紙袋。エレベーターを待ちながら中身を確かめると、ネイビーブルーの地にシルバーの箔が押されて高級感を醸し出している。

 受け取るときから、それなりに値段のするものだろうということは察していた。手にしたスマートフォンで銘柄を検索してみると、アイルランドの小さな醸造所で作られる知る人ぞ知るウイスキーである、と出てきた。

 地元の限られたショップでしか入手できないゆえに、愛好家の間ではプレミア価格をつけて取引される。市場価格は、長尾がさきほど栄に渡した日本食材すべてを足した金額より、よっぽど高い。

「しまった……」

 訪問の口実を作ることで頭がいっぱいだったから、渡す品物の中身まで頭が回っていなかった。ジャパンセンターで買い集めた菓子やつまみ、調味料。どれも海外暮らしの日本人にとって嬉しい物ではあるが、決してハイセンスとはいえない。

 栄に「センスのない男」だと思われはしなかっただろうか。どんよりとした不安が心を覆うが、長尾は幹部自衛官となるべく徹底的にメンタルコントロールを学んだ男である。

「いや……、谷口さんは他人をそんなことで見下したりはしない」

 そう自分に言い聞かせ、瞬時にダメージから立ち直る。

 だって、差し出した袋を受け取るとき心底嬉しそうに笑顔を浮かべていたではないか。それに、渡したものを喜んだからこそ――そして、せっかくの訪問にもかかわらず、用事のため長尾をもてなせないことを申し訳なく思っていたからこそ――貴重なウイスキーを渡してくれたのではないか。

 そう考えると、彼が頑なに食事の誘いを断るのも、何らかのサインのような気がしてくる。

 もしかしたら、パブやレストランみたいな場所ではなく、もっと親密な場所で会うことを望んでいるのではないか。このウイスキーだって、今度は長尾の家で一緒に飲みたいという意味が込められてたりして。……というのはさすがに妄想が行き過ぎているだろうか。

 ほんの短い間だったが、憧れの人の家のチェックには抜かりない。

 玄関も、そういえばバスルームの洗面台の棚も、妙に空白が多いように見えた。いつの日か彼と親しくなることができれば、あのスペースに長尾の持ち物が収まるかもしれない。洗面台に並ぶ二本の歯ブラシを思い浮かべるだけで顔がにやけてしまう。

 幸いやってきたエレベーターには誰も乗っていない。おかげで、いくら表情をゆるめたところで誰からも怪しまれることはなかった。

 ちらりと目をやったバスタブの縁には奇妙なものがあった。ロンドン中の土産物でよく売っている、黄色いゴム製のアヒル人形ラバーダック。衛兵姿のアヒルと警官姿のアヒルが寄り添っていた。

 あんなおもちゃを愛でるタイプには見えないが、人は誰しも意外な一面がある。普段の栄からは想像もできない、子供っぽく可愛らしい一面。それを知るのが自分だけだと思うと、ますます頬は緩んでしまう。

 いつかあんなふうに、自分と谷口栄も仲良く寄り添って――。

「こんにちは」

 突然声を掛けられて、はっとする。楽しい妄想に夢中になっていて、グラウンドフロアに着いたエレベーターのドアが開いたのに気づかずにいたのだ。

 目の前には小柄な初老の女性が掃除道具を持って立っている。きっとこのアパートメントのコンシェルジュだ。

「ああ、こんにちは」

 にやけた顔を慌てて引き締めて、長尾は彼女に挨拶をする。誰にでも愛想良く挨拶するのはこの国で不審者と思われずやっていくための秘訣。とりわけ彼女とは――もしかしたら今後ことになるかもしれないのだから。

「ニコニコしてずいぶん楽しそうね」

「友人を訪ねていたんです」

 すると彼女は「もしかして、ミスター・タニグチのお友達?」とたずねる。

「ええ、まあ」

 長尾は大きく首を縦に振った。見るからに東アジア人で日本訛りのある長尾だ。ここに住む日本人が栄だけなのだとすれば、長尾が彼の知り合いだと思うのは自然なこと。それでも、自分が初対面の他人から彼の友人だと言い当てられるのは気分がいい。

 そして上機嫌な長尾は、彼女がぽつりとこぼした言葉を聞き流したのだった。

「あの人の家に友人が来るなんて、珍しいわね(It’s rare for a friend to come to “their” place.)」

 

(終)
2023.03.26