ミカドゲームの裏側・編


ミカドゲーム」に至る長尾サイドのお話。


 

「うわ、柿の種7ポンド超え? マジかよ」

 商品棚の前で立ち止まった長尾は思わず呻き声を上げる。

 老眼にはまだまだ早い。一度目を擦って改めてプライスカードを凝視するが、書かれた数字に変化はなかった。

 昨今の国際情勢不安で原油が高騰。日本からの輸入品が軒並み値上がりしているのは知っているが、まさか大切な晩酌の友までもこのようなことになろうとは。

 ここは英国ロンドン中心部、レスタースクエア駅からほど近い好立地にあるジャパンセンター。

 ヨーロッパでも最大級の日系ショッピングセンターで、雑貨や食品、さらにはイートインコーナーまで、店内に入れば一瞬自分が日本のスーパーマーケットにいるのではないかと錯覚してしまうほどだ。欧州各地で在外勤務をしている同僚たちも出張ついでや休暇にわざわざ買い出しに来るらしい。

 思えば渡英当初の長尾は、ロンドン暮らしが長くなれば現地の食生活に馴染み、日本食材のお世話になる機会は減るのだろうと予想していた。しかし在英二年が経ち、今となっては過去の自分の甘さは滑稽にしか思えない。

 確かにこちらの食生活に慣れはしたし、好きな食べ物も気に入ったレストランも増えた。温いビールを美味いと感じることもある。大味で単純だと思っていたパイや煮込みやロースト料理の魅力も理解できるようになったつもりだ。

 だが、順調に英国生活に順応する一方で、長尾の中の残り半分は日本食への愛着に身を焦がしている。日本を離れてから日が経つほどに郷愁はむしろ増すばかりで、仕事帰りや週末などついつい日本食を求めてロンドンの街をさまよってしまうのだ。

 値段だけで言えば、もっと小規模な個人商店や、中国系の住民が経営しているアジア食品店の方が安い。だが品揃えの点で圧倒的であるため、いわゆるところの「独身貴族」である長尾は結局「ジャパセン」に通っていた。

 とはいえ――日本で買えば200~300円程度の柿の種6袋パックが1,000円超え。いちいちレート換算はしないよう心がけているのだが、さすがにこの値段にはひるんでしまう。

 他につまみになるものは、と見て回るが、ちくわも4ポンド、かまぼこも4ポンド。だったらおとなしくウイスキーにナッツとサラミでも合わせた方が身のためか。

「ったく、練り物買うにも躊躇するなんて、優雅な外交官生活とはほど遠いな」

 大使館職員の給与はレートや物価差を考慮して調整されることになっているが、法改正を要するため突然の通貨レート変動には即座に対応できない。円安が解消しない限り、しばらく気が重い日々は続きそうだ。

 改めて周囲を見回すと、心なしか日本人買い物客のカゴの中は以前より寂しいような気がする。日本食材の高騰に思い悩むのは自分だけではないと思えば幾分心が慰められるようだった。

 そう、自分だけではない。他の日本人、もちろん大使館の同僚たちだって――。

 長尾は昨日のやり取りを思い起こす。

 

 ちょうど経済部に用事があったので、密かに憧れている谷口のいる執務室に立ち寄ってみたところ、円安のせいで日本産の菓子類が高くて弱ったという話で盛り上がっていたのだ。

 いや、盛り上がっていたと言えば語弊がある。なぜなら常に優雅で高貴なオーラを纏った谷口がケチケチとスナック菓子の値段など気にするはずはないからだ。

 主に嘆いていたのは久保村という、医療や保健を担当しているくせに生活習慣病の不安を感じさせる小太りで気の良い男。

 卵のようにころころとして警戒心を抱かせない、すなわちライバルとして認識し得ない外見。ついでに既婚者で愛妻家であるからかろうじて嫉妬せずに済んでいる。とはいえ同じ経済部の同じ部屋、谷口栄が常に視界に入る環境で仕事ができるだなんて久保村は前世で一体どんな徳を積んだのだろう。フロアも違い、意図して機会を作らなければ谷口の顔を一週間見ないのもザラ、という長尾からすれば羨ましさしかない。

「奥さんからおやつ代の上限設定されてるんだけど、ここのところの値上げ続きで買える量がめっきり少なくなっちゃって」

 久保村は手にした「たけのこの里」を名残惜しそうに見つめてから口に放り込んだ。自称「三度の飯より食べることが好き」な久保村も、頻繁に日本食材を求めて街をさまよっているのだという。

「ビスケットとか、英国のも美味しいけど、やっぱり日本のスナック菓子やチョコレート菓子は別枠で恋しくなるんだよなあ」

 そんな久保村を眺め、栄はいつもどおり爽やかな笑顔を浮かべている。もちろんいつもと同様、体にぴったりと合ったスーツ姿も、寝癖や乱れの一切ない髪も完璧だ。

「日本と同じお菓子で、普通に売っているものもありますよね。オレオとかキットカットとか」

「あれは、それぞれの国でライセンス展開してるから、そもそも日本のとは味が違うんだよ」

 なんと、谷口がせっかく口にした慰めの言葉を久保村は斬って捨てた。

「そうなんですか?」

「そうだよ~。チョコの滑らかさも味の繊細さも全然違うって。谷口さんはチョコ菓子なんか食わないからわかんないのかもしれないけど」

「いや、俺だってたまにはそういうの食べることもありますよ」

 なぜか谷口は少しだけむきになっているようだった。

 俺にはわかる、と長尾はほくそ笑む。完璧すぎる男であればあるほど、周囲に溶け込むためにわざと隙を作ろうとするものだ。安っぽい大量生産の菓子など谷口には似合わないが、あえて久保村に話を合わせている。そんな細やかさにも長尾の胸はときめいた。

「だったら、ポッキーはどうです? 近所のスーパーマーケットで売ってましたよ。名前は違ったけど作ってるのはグリコだったから、あれなら……」

「ミカド、ですよね」

 長尾はすかさず会話に割り込んだ。せっかく立ち寄ったのだから少しくらいは憧れの人と話をしていきたい。

「あれ、長尾さん」

 こちらを振り向いた谷口の顔が、パッと明るくなった気がした。というのはもちろん大いなる希望的観測だが、きっと彼も久しぶりに会う長尾を歓迎しているはずだ。その証拠に笑顔で首を縦に振る。

「そうだ、ミカド。変な名前だって思ったんですよ。てっきりパクリ商品かと思ったら作ってるのグリコだし」

「確かに、不思議ですよね。なんでポッキーがミカドなんでしょう」

 谷口との会話を続けたいがために長尾もわざと大きな仕草で首を傾げてみせた。

 渡英して最初に「MIKADO」なる菓子を見つけたときに気になって調べたから、実は命名にかかる俗説は知っている。フランスの伝統的な竹ひご玩具「MIKADO」に見た目が似ているからとか、「ポッキー」の語感が疱瘡を意味する単語や男性器の俗称に似ているからとか。

 でも、そんな豆知識をひけらかして嫌味ったらしい男と思われるより、一緒になって不思議がった方がよっぽど好感度は高いに決まっている。

「よりによって、そんな高貴な名前つけなくたってって思っちゃいますよね」

「逆にしてみたら、日本で英国菓子に『マジェスティ』とか、イタリア菓子に『ポープ』とか……」

「うーん、ないとは言えないかも」

 しばし「ポッキー」の海外名について盛り上がった男たちだが、しばらくしてから真面目な谷口が話を本筋に戻す。

「で、ポッキーとミカドって、味は違うんですか?」

 長尾は黙り込んだ。

 どちらも一応食べたことはあるが、左党つまり酒好きである長尾が甘いものを口にする頻度が高くない。ついでに言えば、チョコレート菓子など「甘い」「チョコ味」でひとくくりにしがちで、味の違いも正直よくわからない。

 長尾と谷口は答えを求めて久保村に視線を向ける。が、ポッキーもミカドも食べまくっているはずの男もまた、頼りない表情を浮かべる。

「言われてみれば、どうだっけ。多分そんなに差はないと思うんだけど最近ポッキー食べてないから自信がないな」

 類似品が手に入るが故に、わざわざ高価な日本産「ポッキー」を買う必要性緊急性ともに低くなり、結果最近の久保村はすっかりミカド派となっているのだという。

「問題なくミカドを受け入れているなら、同じようなものってことなんでしょうね」

「いや、待って。改めて言われるとなんか気になってくる。今度食べ比べてみるよ。ああでも同じ味だった場合、わざわざそれを確認するために高い輸入品のポッキー買うのももったいないなあ」

 ただでさえおやつ代のやり繰りに苦労しているという久保村が真面目な顔で頭を抱えるのが面白くて、長尾と谷口栄は顔を見合わせて笑った。

 というのが昨日の話だ。

 

「ポッキーか。いくらするんだろ」

 思い出したついでに値段が気になって、長尾は普段立ち寄らないチョコレート菓子の棚に向かう。

 目的のものはすぐに見つかり、値段も思ったより高くはない。少なくとも柿の種の超強気な価格と比べると至って常識的だ。

「ポッキーね……」

 特に好きな菓子でもないが、ミカドと食べ比べてみれば、結果報告と称して谷口のところへ話に行く口実になるかもしれない。赤い箱を手にして買い物かごに放り込む。

 あとは帰りにミカドを手に入れて……手に入れて……。

「待てよ」

 そのときピコーンと、豆電球のアイコンが頭上で煌めいた気がした。

 何も一人寂しく食べ比べて結果報告しなくたっていいのでは。つまり、ポッキーとミカドを手に入れて、さも「ふと思いついちゃった」風に谷口に電話をかけてみるなんて、どうだろう。

 残業を理由に仕事帰りの飲みの誘いを断られることが続き、わざわざ休日に誘い出す理由は思い浮かばず、なかなか谷口との距離を詰めきれずにいる。もしやこれは、千載一遇のチャンスではないだろうか。

 それにポッキーといえば、あれ。

 ポッキーゲーム。

 一人が口に咥えたポッキーを、反対側からもう一人がかじっていく。徐々に顔が近づき、怯んだ側がポッキーを折れば負け。どちらも引かなければ最終的に二人の唇がくっつくという合コンの定番ゲームだ。長尾は男女の出会い目的の合コンに参加したことはないが、ゲイバーで同様のゲームをやったことがある。

 もちろん電話したからといって谷口がちょうど暇で、長尾の訪問を歓迎してくれるとは限らない。仮にマンションを訪れることを許されたとして、休日の昼下がりに同僚同士でポッキーゲームになだれ込むことはないだろう。

 でも、万が一。もしかしたら、あわよくば。

 ポッキーを手に、長尾はいそいそとレジに向かう。

 都合のいい妄想は一度生まれたら最後、膨張していくのみだ。そして、この妄想が終わるのは現実に変わったとき、もしくはパチンと弾けて割れたときだけ――。

 

(終)
2023.01.28