出会い未満編

「そういえば、私の後任は独り身なんですよ」

 大使館のロビーで偶然出くわした小郡おごおりがそう言った瞬間、長尾は背中に後ろめたい冷や汗が滲むのを感じた。とはいえそれは本当に刹那の話。なにしろ目の前の男は長尾の性志向を知るはずはないし、それはつまり、かけられた言葉に他意はないということである。

「後任って、もうそんな時期でしたっけ?」

「もう三年ですから。まだ日程は決まってませんが、早くて七月、遅くとも八月には帰任ですね。日本の夏を想像するとうんざりしますよ」

 白い歯を見せて笑う小郡は産業開発省から外務省に出向して、そこから経済担当アタッシェとしてここ在英日本国大使館に赴任している同僚だ。防衛省の中でも防衛大学卒、ばりばり制服組の駐在自衛官である長尾と所属は異なるが、全館あわせてもスタッフの数などたかがしれているので顔を合わせれば話をする程度の親しさはある。

 それに加えて実のところ──着任以来、小郡は長尾にとって「目の保養」だったりする。

 在外公館のような混成部隊の中で仕事をしていると特に感じるのだが、同じ官僚であっても出身省庁によって雰囲気は大きく異なっている。逆に言えば、もちろん個々人ごとのキャラクターはあるのだが、同じ省庁出身の官僚はどこか似たような空気をまとい似たような行動様式を持っている傾向があるのだ。それが採用時に選別された結果か、それとも採用後に職場に染められた結果なのかはわからない。

 在外公館で一番幅をきかせている外務省のプロパー外交官たちの妙に課外慣れした雰囲気、全身からエリート意識を漂わせつつどこか世間知らずな財務官僚、比較的おっとりとしたお人好しが多いのは医療・労働や教育担当。そして産業開発省出身者は全般的に役人にしては垢抜けて──民間でいえば商社マンタイプとでも言えば良いのか、イケイケで体育会系な雰囲気を持つ者が多い気がする。

 目の前に立つ小郡は長尾のイメージする経済官僚の姿を具現化したような男で、いつもファッショナブルなスーツに髪はワックスできれいにセットして、元体育系っぽい爽やかさと活発さとインテリっぽさを同居させたなかなかいい男だ。とはいえ完全ノンケの妻帯者なので長尾にとってはあくまで「目の保養」以上でも以下でもないのだが。

 その小郡はこの夏で三年の任期を終えて日本に帰国する。寂しいが、せめて後任も彼と同様長尾の目を楽しませてくれるような男であればと心の奥で願う。

「独り身……って、若いんですか?」

 長尾が問うと小郡は首をかしげる。

「若いかって聞かれると答えづらいですけど、私の三つ下です。うちの役所にしては上品なタイプっていうか、物腰は柔らかいけど仕事にはとことん真面目な有望株ですよ。谷口っていうんですけど、独身だし在外勤務も初めてですから是非仲良くしてやってください」

 そう言われたところでイメージはわかないが、小郡が褒めるからには悪い人間ではないのだろう。と同時に小郡が第一声で「独り身」を強調した意味も理解した。

 大使館に派遣される人間は年齢層が高い上に、特に男の場合は妻帯者が多い。慣れない環境でメンタルをやられないように家族帯同が多いとか、夫婦セットでの社交が多いからだとかまことしやかに囁かれてはいるが、実際に選別されているのか偶然の産物なのかは定かではない。ともかく長尾のような単身男は社交の場に連れて行く配偶者もいないし、休日に遊ぶ友人も少ないしで暇を持て余しがちになるのだ。

 小郡がわざわざ後任が独身であることを強調したのはつまり、彼が異国の地で心細い思いをすることを心配したからに違いない。そう自分を納得させて長尾は安堵した。

「へえ、だったら館内の少数派として是非飲み仲間になって欲しいものですね」

 そう笑ってまだ見ぬ「谷口」なる男に思いを馳せる。小郡のお墨付きということはきっと仕事の上では優秀だろうし悪い人間でもないはずだ。ついでに――さすがに三十路で独身だからという程度でお仲間認定するほど愚かではないが、せめて小郡と同様目の保養になってくれるような男ならいいと不埒なことも頭をよぎる。

 ともかく本格的な夏までは、もう少し。