時期的には「こぼれて、すくって」プロローグと第1話のあいだです。
ドアを開けて部屋に足を踏み入れた瞬間に、一日中窓越しに熱され続けた空気が熱く肌にまとわりついた。
季節は七月。ヨーロッパには熱波が襲来しており、北に位置する英国とて猛暑に例外はない。連日ニュース番組では熱中症で救急搬送された人の数だとか、街中の噴水で涼む人々の情報が流れ、厳しい顔をした専門家が地球温暖化への警鐘を鳴らしている。
家を探すときに「近年は暑くなる年もあるからクーラーが付いてる物件の方がお勧めですよ」と言われたのだが、なんせこちらは体力自慢の陸上自衛官だ。しかも着任したのは暑さもピークを過ぎた八月後半だった。過酷な訓練で暑さ寒さには慣れているつもりでいた長尾は不動産屋のアドバイスなど右から左に聞き流し、さんさんと日光の差し込むトップフロアにある広々としたスタジオタイプのフラットを契約してしまったのだ。まさか翌年の夏には連日気温三十五度を超えてくるとは想定外していなかった。
日本ほど湿度は高くないし日が落ちればそれなりに過ごしやすくはなるのだが問題は日没が夜十時近いという点で、仕事を終えて帰宅した今くらいの時間帯はまだまだ日差しも強い。窓を全開にしてみるものの、風はほとんど入ってこない。建物の設計上、日本のようなエアコンを後付けするハードルは高いから、せめて今週末には扇風機でも買いに行くべきか。
「やってらんないな」
思わずつぶやいて冷蔵庫の扉に手をかける。とりあえずこういうときはよく冷えたビールに頼るのが最善だ。栓を抜いたビール瓶を片手にフライパンに火をかけるとオイルと刻んだニンニクを炒め、そこに凍ったままの冷凍枝豆を投入した。
ガーリック枝豆を当面のつまみにソファに倒れ込み、テレビのリモコンを拾い上げる。たいして面白くもないテレビドラマ、ありきたりのクイズ番組、次々にチャンネルを替えていくとテニス中継に画面が切り替わった。ちょうど今はロンドン郊外のウィンブルドンで行われる全英オープンの真っ最中だ。
高校まではサッカーをやっていた長尾だが、防衛大学に入校して以来は競技スポーツとは縁がない。体を動かすのは訓練でお腹いっぱい――とはいえスポーツ全般観戦することは好きだ。
前売りチケットは言うまでもなく高倍率、当日券入手も始発では遅すぎるといわれるウィンブルドンだが、目当ての試合の観戦を終えて出て行った客の座席がリセールされるため夕方に行けば存外すんなり観戦できるという豆知識は大使館の同僚から聴いた。しかしこの暑さの中で現地観戦するよりは、冷房のない部屋ではあっても一応日陰で、冷えたビールと枝豆を手に観戦するほうがよっぽど気楽には違いない。
それにしても、退屈だ。
長尾にとって三十を過ぎてはじめて得た在外公館勤務の機会は同時に、社会人としてはじめて自衛隊や防衛省を離れて――言い方は悪いが「シャバ」の空気を吸う機会だった。もちろん自衛官の身分を失ったわけではないので気を抜きすぎるわけにはいかないが、軍隊式の規律や厳しい上下関係に縛られた生活からしばし離れるとなると心は踊った。
「長尾ちゃん、せっかくだから向こうで彼氏作ってくればいいのに」
気晴らしにときおり顔を出すゲイバーのオーナーであり長尾の数少ないお仲間であり旧友であるコウキからは出国前に真顔でそう言われた。
「ロンドンって多いんでしょう? 向こうのゲイからはアジア人モテるって聞いたことあるよ? 日本だと仕事柄何かと我慢してるし、せっかくの機会なんだからさ」
確かに、日本での長尾の生活は抑圧的そのものだ。
*
北陸の田舎町で育ち、運動も勉強も飛び抜けてできる方だった。だが祖父母と両親だけで細々と営む農家には、三人の子ども全員を大学までやる余裕はない。弟と妹が将来どのような道を歩むかはわからないが、最初から「うちは裕福でないから大学には行けない」といったふうに自ら選択肢を狭めることは望ましくないと考えた弟妹愛にあふれる長尾少年は、高校の進路担当の教員から「防衛大学校」なるものの存在を聞いた瞬間飛びついた。
入学時点で自衛隊員の身分となるため学費はかからない。それどころか勉強し、訓練をすること自体が仕事と見なされ在学中から一定の給与までもらえるというのだ。
家族親類の中には高校卒業時点で将来の仕事――しかも自衛官という場合によっては身体の危険も伴うような――を選ぶことを不安視する声もあったが、長尾の意思は固かった。今振り返れば若さゆえの無謀な決断に思えるが、それは長男としての矜恃でもあった。
防衛大学時代の訓練や集団生活は予想以上にきつかった。内情を知らずに入った同級生の少なからずが初年度のうちに退校し、それどころか正規の退校手続きのあいだすら待ち切れないのか外出したまま宿舎に戻ってこない「脱走」を試みる者までいた。だが長尾はもともと体育会タイプだったし、田舎育ちゆえ娯楽への執着もそう強くはない。新しい生活にもやがて馴染んだ。そして、上下関係が重視される社会では初年度さえ耐え切れば二年目三年目と年月を重ねるにつれて過ごしやすくなる。
卒業して正式に陸上自衛官として任官された後は久留米にある幹部候補生学校で一年間を過ごし、その後は目黒にある当時の陸上自衛隊幹部学校に入校して順調な幹部自衛官としての道を歩んできた。
唯一の危機といえば――薄々感じていた自身の 同性愛志向をいよいよ本格的に自覚したことだろうか。
はっきり認識したのは二十歳頃、よりによって男ばかりの集団生活の中で悶々と過ごし、はじめて同類との出会いを求めてゲイバーなるものに足を運んだのは休暇中に遊びに出かけた東京でのことだった。そこで最初に声をかけてきたのがコウキで、同時に長尾にとってははじめて寝た相手でもある。
最近では女性自衛官も多いとはいえ、自衛隊はまだまだ男中心の社会だ。しかも仕事柄寝食風呂を共にする生活を送る機会を避けられないだけに、その中に同性愛者が紛れていると知れば不安を覚える同僚も多いだろう。なにしろ日本に比べればよっぽどLGBTへの理解が進んでいるといわれる欧米ですら、軍隊やスポーツチーム内での同性愛者の扱いは一筋縄ではいかないのだ。
長尾は生まれもっての長男気質というか、組織や集団では調整役に回るタイプだ。和を乱すことが何より苦手な自分がなぜよりによって、という気持ちもあるし、田舎育ちの長男としていつかは結婚して親に孫の顔を見せてやらねばという思いもある。
のらりくらしとその場をしのいで、職場では浮かないように自分の性志向を隠し、たまに「そういう店」で気晴らしをするという中途半端な状態のまま三十路に突入した。そして気づけば地元の農協に就職した弟は結婚して二人の子を設けていた。
「兄ちゃんは結婚とかしないの?」
昨年の正月に弟から訊かれた瞬間こそ気まずい気持ちに襲われたが、意外なことに救いの手を差し伸べたのは他ならぬ母だった。
「正樹、お兄ちゃんは仕事がたいへんなんだから。転勤もあるし、何か……災害でもあれば長く家を空けることもあるでしょうし……そんな簡単に結婚とか」
「言われてみれば、兄ちゃん今も研修所の寮みたいなところにいるんだっけ。とりあえず一人暮らししなきゃ彼女もできないよな」
家族は長尾の仕事に対して偏ったイメージを持っている。弟はともかく父や母は兄弟で一番出来の良かった長尾がわざわざ防衛大学を選んだ理由が一家の経済面を気にかけてのことだとわかって遠慮している面もあるのだろう。いずれにせよ長尾が独身生活を維持するに当たって都合が良い以上は、誤解も遠慮も都合よく利用させてもらうだけだった。
正直、長尾はお仲間の中ではモテる方だ。
ゲイの好みも千差万別とはいえ、しっかり鍛えた体に短髪、爽やかかつ人当たりよく柔らかい雰囲気を持つ長尾のようなタイプを好む男は多い。しかも長尾は相手の嗜好や相性にあわせて、抱く方抱かれる方のどっちもできる。これだけの好条件を持ち合わせている男がなぜ特定の相手を作らないのかと聞かれれば「いや、仕事も仕事だし、なかなか長い間一緒に過ごせないから今はね」などととりあえず良識ぶった返事をするが、本当の理由は――ものすごく理想が高いのである。
多少ゲイ受けするからといって調子に乗っているわけではない、つもりだ。それに長尾の好みである、いわゆる「高スペック王子系イケメンタイプ」は、世の女性たちからすれば垂涎かもしれないが、こちらの世界では際立って人気があるというほどでもない、はずだ。
「はず」というのは、そもそも物腰が柔らかく見るからに育ちが良さそうなエリートは、まずもって進学先に防衛大学校を選ばないし、就職先に自衛隊を選ばない。まかりまちがって選んだとすれば二週間以内に脱走するに決まっている。つまり長尾の理想のタイプは周囲には存在しえない。少女漫画のヒーローやテレビの中のイケメン俳優に憧れる少女さながらの現実味の伴わない、ただの夢想に過ぎないのだ。
いや、「過ぎなかった」。
照れながら理想のタイプを語るたびに「いいかげん現実見たほうがいいよ」と呆れた顔で苦言を呈されてきた長尾の夢を具現化したような人物がこの世に存在することを知ったのは、ちょうど今日の午前中のことだった。
夢のような瞬間を反芻しようとしたところで、スマートフォンが鳴る。一般電話の呼び出し音ではなく、これはスカイプだ。時計を見るとちょうど時刻は午後九時を回ったところ。日本時間だと午前五時過ぎ。
訃報でもない限り家族や職場の知人はこんな早朝から電話などかけてこない。テーブルに置いた端末に手を伸ばすと案の定、相手はコウキだった。彼の経営する小さなバーが営業を終えるのは午前四時。片付けをして帰宅するとちょうどこのくらいの時間になるのだ。月に一度か二度程度、頻繁ではないが存在を忘れない程度のやり取りは続いている。
確かに過去にセックスをした仲ではあるが、長尾はコウキを恋人にしたいという感情を抱いたことは一度もない。客商売に慣れたコウキは明るく面倒見が良いので友人や相談相手としては申し分ないのだが、長尾の理想とはかけ離れている。
トランスジェンダーとまではいかないものの、ややオネエっぽい話し方やしなのある物腰も性的な奔放さも、恋人にするには厄介だ。一方コウキにとっても長尾のようなタイプは恋愛対象にはなり得ないそうだ。公僕なんて今どき格好悪い、という第一の理由には閉口した。
「だけどオレ初ものが好きだからさ。店でおどおどしてるとこ見て、『あ、絶対こいつ経験ない』って思ったらどうしても声かけたくなっちゃって」
まさかあのときは、自分の童貞目当てで声を掛けられたとは思いもしなかったが、結果的に筆下ろしをしてもらい、さらにはどさくさに紛れて後ろの経験までさせてもらったのだから正直コウキには感謝しかない。それどころか今も――単に面白がられているだけのような気もするが、一応は長尾の幸せを祈ってこうしてはるか一万キロも離れた場所まで電話をくれるのだから。
*
「長尾ちゃん、元気? 家に帰ってテレビつけたらBSでウィンブルドンやってたから思い出しちゃって。ほら、オレ学生時代テニスやってたからさ」
電話口のコウキは相変わらず高いテンションでまくしたてる。
「テニス? 初耳だな」
「本当だって。今もたまにカレシと一緒にテニスしに行くことあるもん」
長尾が出会った頃のコウキは飲食店勤務の性に奔放な二十代の若者だったが、そのうち勤務先に客として通っていた飲食業経営者を首尾よく捕まえて、開店資金を出させて店をオープンさせた。しかしもちろんついてくるのは金だけではない。しっかりパトロン面されて、いつの間にやらしっかり首に縄をつけられている。
「コウキは相変わらず仲良くやってるんだな。もう五年くらい? 正直浮気もせず続くのがちょっと意外だよ」
手元の瓶が空になったので、長尾はスマートフォンを手にしたまま立ち上がり二本目のビールを取りに冷蔵庫に歩み寄った。
「うーん、年もとったし、前とは状況も違うしね」
下半身事情で揉めてもエリアや店や源氏名を変えれば逃げ切れる雇われ時代とは異なり、自分の店を持つ身で刃傷沙汰は望ましくない。それに、もちろん理由はそれだけではないはずだ。何度か一緒に食事をしたことのあるコウキの恋人はなかなかに魅力的かつ優秀そうだった。
「まあ、あんないい男もそうそういないだろうから、浮気する気にもなれないか」
「たまに店に初ものっぽい子が来ると、性癖はうずくんだけどね」
どこまで冗談だかわからないことを言ってコウキは笑う。だがきっと彼自身今の恋人に対しては心底惚れ込んでいる。
「確かにいい男だもんな……」
コウキの恋人の顔を思い浮かべ長尾は思わずそうつぶやく。賢そうで身のこなしもスマートで決して嫌いなタイプではない。ただ長尾の好みからすればやや雰囲気が軟派すぎるのだ。スーツはもう少し色や風合いが落ち着いている方がいいし、髪型もいかにもイケイケ経営者という感じで、成功した男特有の色気はあるものの爽やかさが足りない。
「ちょっと、長尾ちゃん! いくら男日照りだからって人の恋人に変な気起こさないでよ!」
「え? 誤解だって。俺のタイプとはちょっと違うし」
図星を突かれて思わずしどろもどろになる。だが、コウキとの友情をないがしろにしてまで奪うほどではないのは紛れもない事実だ。慌ててその旨を訴えると、コウキは安堵する一方で恋人を貶されたような気もするのか、複雑な心境の滲むため息を吐いた。
「『ちょっと違う』ね。長尾ちゃんは、どんな男紹介したっていつもそれだからなあ。まだ王子様願望というか、夢みたいな相手が降ってくるのを待ってるんだから乙女というか何というか。いくらゲイモテするからって自分が三十路のおっさんだって自覚してる?」
「な、ないよ。王子様願望なんて」
またいつもの説教モードがはじまった。親類縁者の「いい歳をして結婚はまだか」攻撃をせっかく誤解……いやある意味理解ある実家の母がブロックしてくれているというのに、結局同じ役割をコウキがきっちり担ってくれる。
確かに長尾本人も理想が高いことは自覚しているが、だからといって白馬の王子を待ち望むほど少女趣味ではない。だが、これまでに両手の指の数を超える男を長尾に紹介して、すべて「なんか違うんだよなあ」の声で却下されてきたコウキの恨みは尋常ではない。
「はあ? 過去に何人紹介したと思ってるの。そのたびにセンスがどーだ話し方がどーだって……。大体理想を百パーセント満たす相手なんかこの世にいるわけないんだから、物件探しと一緒で絶対に譲れない条件だけ決めたらあとは妥協しなきゃ」
自分で自分の演説に酔っているのか、話しながらもコウキの声にはどんどん熱がこもっていく。やばい。どこかでストップをかけないと無駄に友情に熱い男はこの調子で三時間だって話し続けてしまう。
「わかってる、わかってる。ちゃんとアドバイスきいて俺なりに努力はしてるから」
電話を取ったことをいまさら後悔しながら長尾はなんとかコウキの興奮を鎮めようと試みるが、相手もただでは黙らない。
「努力って具体的に何? 例のなんとかいうゲイタウンに相手探しに行くとか? もしかしたら長尾ちゃんの好みドンピシャの英国紳士がいるかもしれないし」
「……いや、さすがにそれはちょっと」
ロンドン中心部のソーホーと呼ばれる地域の一角は伝統的なゲイタウンとして有名だ。すぐ近くには劇場街や中華街、観光客の行き交う大通りに囲まれて、しかし界隈に一歩足を踏み入れれば突如アダルトショップやゲイバーが居並んで、明かにお仲間と思しき人々が歩いている。
だが出会いの手段がマッチングアプリや出会い系サイトにシフトしているのはどこでも同じで、ロンドンでもゲイバー自体は恋人探しの場とはいえなくなっているようだ。ガラス扉の向こうで踊り狂うボンテージ男をや派手なドラッグクイーンを目にしたとき、長尾はここは自分の来るべき場所ではないと悟った。
「結局そういって選り好みするんだな。ちょっとは現実見なきゃジジイになるまでそのままだよ」
まるで呪いをかけようとしているかのような言葉の、しかし長尾の心に引っ掛かったのは「現実」の一文字。
「現実」
「そう、現実」
いや、長尾自身は現実を見ていないどころか、ついさっきまでまさしくその「現実」について考えていたのだ。邪魔をしたのは他ならぬコウキからの電話。
「……そういえば、いたんだよ」
「え? 英国紳士?」
「違うよ」
見当違いの反応を長尾はすぐさま否定する。
「職場に今日から新しく赴任してきた人。産業開発省からの出向者」
そして長尾は今日出会ったばかりの谷口栄のことを思い浮かべた。
*
「ねえ、長尾さん。さっき経済部で見かけたんだけど、小郡さんの後任すっごいイケメンだった」
書類への押印を取りに来た女性職員、古村の目に浮かび上がるハートマークが見えた気がした。外務省の一般職採用の彼女は庶務や経理などの業務を担当するために大使館に派遣されている。まだ二十代も前半となれば仕方ないのかもしれないが、口にする話題の八割がたが「イケメン」に占められている。
最初に会ったときには制服を着た長尾を上から下まで吟味して「七十点」と、なんとも微妙な採点をした彼女は、後日私服で歩く長尾に道端で出くわし「六十五点」と言い直した。いわく当初は制服補正がかかっていたようだ。
女性からモテたいという欲は一切持っていないので彼女からどう言われようと何とも思わないが、面と向かって点数をつけられれば面白くはない。というわけで個人的には彼女のことをあまり好ましく感じてはいないのだがそれを表面に出すような子どもではない。
何より悔しいことに典型的なイケメン好きの古村は、男の顔の趣味「だけ」はいい。「最近はまってるんです~」と見せてくるアイドルや俳優の画像は常にどんぴしゃ長尾の趣味にも合致しているのである。よって目の保養となるイケメン情報を得るために、長尾は古村と程よく良好な関係を維持することにしていた。
で、話題は「小郡さんの後任」である。そういえば少し前に小郡と話したときにじき後任がやってくると言っていた。確か長尾より少し若いくらいで、優秀で、独身の男。名前はなんだったっけ。小郡は容貌までは口にしなかったし、長尾だって同僚の後任の、しかも男の容姿に興味を示すことが一般的でないことは理解していた。
「小郡さんの後任、もう着任したの?」
平静を装いつつ長尾の心は沸き立っていた。小郡だって十分な目の保養になっていたが、その後任はなんと古村のお墨付き。これは期待ができる。
「今日からです。朝一番に航空券の半券提出しにきたんですけど、思わず見惚れちゃいました。いや、確かに小郡さんも格好いいんですけど、ちょっと髪とか靴とか気合い入りすぎてる感じするじゃないですか。谷口さんはもっと天然っていうか育ちが良さそうっていうか……」
「はは、ひどいな。小郡さんが聞いたら泣いちゃうよ」
そういえば古村は何かと小郡のシャツの細いストライプが目に痛いとか、ワックスをつけすぎた髪がハリネズミのようだとか、爪先の尖った靴が気に食わないとか言っていたっけ。
しかし優秀で独身で天然系のイケメンとは。想像しようとしても頭の中でかたちにならない。まあいい、どうせこれから同じ建物の中で仕事をすることになるのだ。いつかはお目にかかるだろう。そう思ったとき、はっとドアの方に目をやった古村が長尾の袖口を引っ張る。
「あ、来た! じゃあ長尾さん、また」
「え? せっかくイケメンが来たのに?」
「駄目です、少しずつ慣らさないと目が潰れます。わたしイケメンは下手に触らず鑑賞して楽しむ主義なんで!」
よくわからないことを言いながら長尾が押印を終えた書類をひったくり、古村はさっとその場を離れていった。そして入り口の方には小郡と、その後ろに少し身長の高い――。
「あ、長尾さん!」
長尾の存在に気づくと小郡が手を振りながら近づいてくる。そして、一緒にいる男の姿がはっきりと目に入った。
すらりと背が高く、細身だが均整の取れた体つき。落ち着いた色柄だが仕立てが良く、しかし程よい流行を取り入れた隙のないシルエットのスーツ。やや長めのツーブロックの髪は嫌味なく自然にセットされていている。そして古村の言うとおり、いかにも爽やかで温厚そうな顔立ちは――王子然としていると表現したって言い過ぎにはならないだろう。
「小郡さん……」
まぶしい、というのが第一印象だった。だから長尾はその男の存在に気づかない振りで、とりあえず平静を装って小郡に話しかけてみた。
古村が「目が潰れる」といった意味が理解できる。もちろんイケメンといっても彫刻とかモデルとか、そういう現実離れした美しさではない。だが学校や職場にいれば必ずや人目を引き、陰で王子呼ばわりされる程度には特別な男だ。
「長尾さん、以前話した私の後任が着任したんです。歳も近いですし、仲良くしてやってください」
小郡が横によけると、まばゆい男が長尾の正面に立つ。
「谷口です。産業開発省から来ました。よろしくお願いします」
そう言って谷口と名乗った男は作りもののように爽やかな完璧な笑顔を向けてきた。長尾は目が眩みそうになるのをこらえて軽く会釈した。
「……どうも、長尾です。陸上自衛隊から派遣されています……」
緊張のあまり会釈というより敬礼のようになってしまったのは自衛隊員の習性だろうか。顔を上げると谷口は少し驚いたように長尾を凝視している。確かに、初対面で突然敬礼をされれば自衛官や警官、海上保安官といった特殊な職業の人間以外は驚くに決まっている。
「ほら谷口、長尾さんは自衛官だからさ! こういうときもピシッとしててさすがだよな」
「私、自衛官の方とお目にかかるのは初めてです」
小郡のフォローに納得してくれたのか、谷口の目から不審そうな色が消えるのを見て安堵するが、これ以上墓穴を掘るのが怖くて長尾は愛想笑いを浮かべるので精一杯だ。だがさすがは大きな経済連携協定の交渉にも携わった経験があるという小郡は、不自然に口ごもったままの長尾に動じることなくよどみなく会話をつなげた。
「大使館でも警備はともかく、駐在自衛官のいるところは少ないらしいから。しかも長尾さんみたいな若い人ってほとんど在外公館にはいないんでしたよね?」
「そ、そうですね。大体駐在は一佐……ええと参事官クラスが多いですから。在英大の場合は例外的に派遣数も多いから私のような若輩も」
そこまで言ったところで、谷口は再び笑顔を浮かべた。
「へえ、数少ないポストを射止めたということは、長尾さんはとても優秀な方なんですね。一緒に仕事ができて光栄です」
たとえ社交辞令であるにしても、こんな理想を具現化したような男がにこにこ笑って「優秀」などと褒めそやしてくる。とても現実とは思えない展開に完全に舞い上がった長尾は結局、通りいっぺんの挨拶以外、気の利いたことのひとつも言えなかった。さっきは古村のことを笑っていたが、実際に理想のイケメンを前にすれば人間は本当に眩しさに目が潰れてしまうのはどうやら万人に共通の反応であるらしい。
「まあ、館じゃ少数派の独身同士ということで、仲良くしてやってくださいよ。谷口はこんなキラキラした見た目してる割に仕事一辺倒で浮いた話のひとつもないんです」
からかうように付け加えた小郡に、少し顔を赤らめて谷口は「小郡さん、余計なことを言わないでください」と抗議した。本当ならその場で飲みにでも誘うべきだっただろうか。いや、初対面で個人的な誘いというのもきっと唐突すぎる。だって他ならぬ職場の先輩である小郡が「浮いた話のひとつもない」と保証しているのだ。
長尾はぴしっと背筋の伸びた美しい谷口の背中が遠ざかっていくのを夢見心地で眺めた。
*
「……で、それが『現実』?」
本日午前中の出来事を弾んだ声で伝えた長尾に対してなぜだかコウキの声は覚めている。あれだけ現実を見ろと口うるさく言われて、実際に理想どおりの男が現実にいたと報告しているのに一体何が不満だというのか。
「そう、顔とかスタイルとかっていうのはそりゃまあ一般人の中では抜けてるって程度なんだけど、雰囲気やセンスがね。身のこなしも品がいいし、話し方も穏やかで……」
やはりコウキのようなタイプには長尾の趣味は理解できないのか。かといっていくら趣味が似ているといっても古村相手に谷口の魅力を語り合うというのも難しい。友人の反応の悪さにだんだん長尾の意気も消沈していく。するとコウキはひとつため息をついてから、言った。
「だったら聞くけど、長尾ちゃん。その人『こっち』なの?」
「えっ?」
冷や水を浴びせるかのような指摘に長尾は驚愕の声をあげた。
そうだ、言われてみればそれは何より重要な問題だった。谷口栄があまりに理想のタイプだったので、長尾は自分が同性愛者という恋愛市場のマイノリティであることをすっかり忘れていた。いや、そもそも今日出会ったばかりの相手がいくら好みのタイプだからといって、別に恋愛だとか付き合いたいだとかそんなことを思っては――……いなかったと言えば嘘になるか。
「でも、独身なんだって。三十過ぎで」
その言葉はコウキへの返事というよりは、自分に言い聞かせているようなものだ。あれだけいい男で官僚で、いくら小郡の言うような仕事人間だとしてもノーマルな男であればどこかの女性にロックオンされているものではないか。だから長尾は内心で期待をしてしまっていたのだ。
「はあ? 長尾ちゃん新聞読まないの? 日本は晩婚化が進んでるんだよ! 今や男性の平均初婚年齢は三十一歳を超えてるんだから、その年齢で結婚してないだけでお仲間認定なんてありえない!」
猛烈な勢いで罵られて、そもそもおまえこそ新聞など読んでいたのかと聞き返したくなる。だが確かに、大使館の中には比較的妻帯者が多いが、世の中一般の三十過ぎで未婚というのはさして珍しい話ではない。
「でも……女っ気がないって」
「それだけ断言できるってことは、よっぽどの確信があるんだ。その人ゲイのオーラ出てたんだ」
嫌味のように念を押されてとうとう長尾は黙り込んだ。
確かに……二丁目で出会うようなタイプの「お仲間」の中には少し話せば同類には通じ合う程度のオーラというか波長のようなものを発しているタイプが多い。だが谷口からは男相手に媚びたり見定めたりするような空気は一切感じなかった。
「いや、まあさ。誰もがオーラ出してるわけじゃないし、特にクローゼットだと普通のノンケ以上にノンケっぽかったりするから希望はゼロじゃないかもしれないけど……ただ見定めるにしても同僚だったら用心深くしなきゃ」
完全KOといった様子で言葉を失っている長尾が哀れに思えてきたのか、コウキは打って変わって優しい言葉をかける。
確かにそのとおりで、谷口が完全なストレートであるか押せば少しは期待が持てるのか、そういった部分含めてすべては未知数だ。そして部署は違うとはいえこれからは同僚として同じ建物の中で仕事をすることになる。残された長尾の任期二年で十分かどうかはわからないが、もう少し時間をかけて確かめてみる他に方法はない。
「そうだな……とりあえず今度飲みにでも誘ってみる」
「言っておくけど、酔ったからっていきなり襲ったりするのはやめなよ」
「当たり前だろ! おまえみたいな猛獣と一緒にするな!」
そう言いながら改めて谷口の爽やかな笑顔を思い出す。続けて整ったあの顔が快楽の色に染まるところを想像して、あまりの申し訳なさにすぐさま想像を打ち消した。
「で、その王子様はどっちなの? がつがつ掘ってやりたい感じ? それとも優しく抱いて欲しい感じ?」
「……そんなこと、まだわかるわけないだろ」
欲望を見透かした友人の言葉にそっけなく返しながら、出会ったばかりなのに勝手な想像で汚して申し訳ないと長尾は記憶の中の谷口に謝罪した。でもまあ、抱きたいのか抱かれたいのかどっちかといえば――いや、それはもう少し彼を知ってからの判断だ。
少なくとも、赴任して一年ほどが経ちマンネリしはじめていた生活に新たな彩りが加えられたことに間違いはない。長尾は明日の出勤を待ち遠しく感じながら残ったビールを一気に飲み干した。