1. 尚人

 玄関から物音が聞こえた。鍵を差し込む音、ドアノブが回る音。ドアが開き、閉じるのも完全にいつも通りのタイミング。同居する恋人の帰宅だ。

 ベッドの中で横になっていた相良さがら尚人なおとはゆっくり目を開けると充電ケーブルにつないだまま枕元に置いてあるスマートフォンに触れる。午前二時四十八分。最近でいえば、まだ早い方。

 ブランケットをめくるとひんやりとした部屋の空気が全身を包む。ベッドサイドに置いてあったパーカーを羽織り、スリッパに足を突っ込むと立ち上がった。

 漏れてくる明かりのまぶしさに目を細めながらそっとリビングへ向かう扉に手をかけた。ドアノブを引くと暖かい空気がふわりと広がり、そういえば恋人が帰宅したときに寒い思いをしないようエアコンを入れたままで寝室に入ったことを思い出した。

 恋人――谷口たにぐちさかえは、足音が聞こえているのは確かなのに外したネクタイをダイニングチェアに掛けながら尚人の方を振り向きもしない。ダークグレーのスーツに包まれた背中は疲れきっていて、また少し痩せたような気がする。

「お帰り栄。疲れただろう、何か食べる?」

 少し待っても振り返る気配がないので尚人の方から声をかけた。栄は上着を脱いでテーブルの上に投げると、かすかなため息をついてようやく尚人の方を向く。

「まさか、何時だと思ってるんだよ。ていうか別に起きてこなくていいし、エアコンも切って寝ろっていつも言ってるだろ」

 ああ、また苛立っている。尚人としては激務で深夜帰宅になった栄を少しでも労わりたくてやっているのだが、あまりに疲れていると、このような気遣いすら鬱陶しく思えるらしい。担当している法案の施行準備に追われているとかでここ最近多忙を極める栄は、不機嫌な態度をとることが多い。

 それでも恋人としては毎晩のようにタクシー帰宅と徹夜を繰り返す栄のことが心配だし、少しでも栄養や休息をとるための手伝いができないかと気を回したくなる。今日も、深夜に食べても胃腸に負担がかからない雑炊か煮込みうどんが作れるよう材料は冷蔵庫に準備してある。栄の好きな駅前の洋菓子店で買ったプリンだってある。

「でも、何も食べないのは……」

「仕事の合間にコンビニでおにぎり買ってきてもらって食ったから、いい」

 シャツの首を緩める仕草、ふっと目に入る喉仏に色気を感じるが尚人は見なかったふりをする。栄はそのまま冷蔵庫に向かうと、扉を開けてビールの缶を取り出した。

 食事はしなくとも、朝方の帰宅でない限り栄は必ず帰宅するとビールを一本開ける。たかが一本で酔っ払うほど弱い男ではないが、本人曰くほとんど儀式のようなものなのだという。リビングでビールを飲むと体が仕事から休息へと切り替わり、スムーズに眠れるような気がするのだと。

「そう。じゃあ風呂すぐ沸かすから」

 外はもう冷える。温かい風呂で少しでもゆっくりしてもらおうと給湯ボタンに駆け寄ろうとする尚人を、栄は厳しい口調で制止した。

「いいってば。今日は国会も当たってて、朝から幹部レクと随行があるんだ。始発で出るのに風呂なんか入ってる余裕あるわけないだろ。これ飲んだらソファでちょっと横になって、勝手にシャワー浴びて出かけるからおまえも寝てろ。ほら寝室行けよ」

 おまえも寝てろ、という言葉に優しい響きはない。まるで忙しい朝に尚人が顔を出すと鬱陶しいからと言われているような――いや実際にそれが栄の本音なのだろう。

「……うん」

 栄はどさりとソファに座りこむ。潔癖なところのある栄はシャワーを浴びずに寝室に入ることを嫌うから、帰りが遅くなり仮眠程度しかとれないときは必ずソファで眠る。

 同居をはじめた頃に一緒にショールームに行って生地から選んだソファはずいぶんとくたびれてしまった。まるで自分と栄の関係みたいだ、そんなことを尚人はぼんやりと考えた。

 リビングに立ちすくむ尚人に視線さえ向けず、ビールの缶をあおりながら栄はつぶやく。

「ったく、せっかくタクシーでいい感じに眠くなってたのに、喋ったら目が冴えてきただろ。だから起きてこられたら迷惑だって言ってるのに、どうしてくれるんだよ。こっちはおまえみたいな半自由業とは違うんだからさ」

 これ以上は、何を言っても何をやっても逆効果だ。尚人は「ごめん」と一言謝ると早足にリビングを後にした。ひどく惨めな気持ちだった。

 もちろん最近の栄のご機嫌からすれば、わざわざ深夜帰宅を出迎えれば気分を損ねる可能性が高いとわかっていた。普段から栄は「気にするな」「寝てろ」「何もしないでいい」と繰り返しているのに、それを承知で余計なことをしたのだから自業自得だ。

 だが、万が一にも出迎えを喜んでくれるのではないか、気遣いを受け入れてくれるのではないか、そんな期待を捨てきれなかった。馬鹿なことをして、予想通りの結果になっただけ。わかっているのに胸が痛んだ。

 自室に戻ると尚人はブランケットの中にもぐりこむ。ベッドにはまだ少しだけ自分の体温が残っていた。

 ずっと尚人の勉強部屋として使っていた六畳間に「寝室を分けよう」という恋人の一声でセミダブルのベッドが運び込まれたのは約二年前のこと。もともと二人で眠るためのダブルベッドを置いてあった部屋はその日から栄が一人で眠る部屋になった。

 栄はインテリアにもこだわる男で、このマンションで一緒に暮らすことを決めたときにはリビングのソファだけでなくあらゆる家具を精査するためいくつものショールームやアンティークショップを回った。栄の寝室にあるダブルベッドは北欧ブランドのフレームに有名メーカーのマットレスを置いたものだ。だが、尚人の部屋に新たに運び込まれたセミダブルベッドは通販サイトで注文された、量販店の廉価モデルだった。

「俺の帰宅が遅くなることが多いからナオも落ち着いて眠れないだろ。博論の準備とかでナオだって自分のペースがあるだろうし、お互いメリハリが大事だからな。忙しくて間に合わせになったけど、気に入ったベッドがあれば後で買い換えればいい」

 実際そのときの尚人は博士課程の単位を取り終わり、あとは論文を書くだけの状態になっていた。だから栄の申し出は寂しくはあったものの、恋人の優しさ故だと自分を納得させた。

 そんな流れで寝室を分けるようになり、最初の頃は週に二度ほどは栄の方からやってきていた。それが週に一度になり、月に一度になり――。

 だから今日も尚人は一人で眠る。

 仕事が多忙で平日は良くて終電、タクシー帰りも当たり前どころか職場に泊まって帰ってこない日もある。休みの日も土日のどちらかは出勤しているし、家にいてもパソコンとにらめっこしてばかりの恋人の体を本気で心配しているから、寂しいだなんて言えるはずはない。

 夜を数えるようになったのはいつからだろう。毎朝目を覚まして、サイドテーブルに置いたカレンダーにしるしをつける。「昨晩も、なかった」その事実を刻み込む。

 付き合いはじめてから八年。

 体の関係がなくなってからは、もう三百五十日を超えた。