2. 尚人

 眠れないままでいると、明け方に栄がシャワーを浴びて出ていく音が聞こえてきた。午前四時過ぎ、帰宅時間を考えれば仮眠というにも短すぎる。さすがにあれだけ釘を刺された後なので起き出すことはせず尚人はベッドの中で息を殺していた。

 それからしばらくうとうとして、尚人は八時過ぎに起き出す。もちろんベッドサイドのカレンダーにチェックを入れることは忘れない。

 途切れ途切れだったセックスが完全になくなって一年近く。ぎりぎり二十代のカップルにとってこれだけの期間一度も性行為がないのは、さすがに普通ではないような気がする。ただし元々こういった話題が得意でない上に同性カップルということもあり、尚人は誰にもセックスレスの悩みを打ち明けられずにいた。だから自分と栄の関係が普通なのか危機的状況なのかすら判断がつかない。

 尚人は、自分は男の割に性欲が薄い方だと思っていた。大学時代に付き合うようになった栄が初めての恋人で、男女含めて栄以外と体を重ねた経験はない。「あんたは草食系男子だから」と女友達からもからかわれるほどで、栄との関係でもほぼ受け身に徹してきたし、自分からセックスを求めたことは一度もない。頻繁な行為には負担を感じていた自分がセックスレスに悩もうとは、想像したこともなかった。

 体の渇きを覚えたのは行為の周期が一ヶ月を超えた頃だったろうか。当時も栄は仕事で忙しくしていて帰宅は終電間際になるのが普通だった。だが、学生時代からの夢を叶えて中央省庁でキャリア官僚として働く栄は守秘義務があるからと仕事の詳細まで話すことはしないものの言葉の端々に仕事への熱意があふれ、尚人の目には疲れよりも楽しさが勝っているように映った。だから、そんな栄に自分を優先するようにねだったり、こともあろうかセックスを要求することはひどくわがままでみっともないことだと我慢を続けた。

 普段よりいくらか早く帰宅した栄と晩酌をしながら観ていた深夜映画で突然生々しいベッドシーンが始まったことがある。すると栄は尚人の肩に腕を回し、耳元に口を寄せてつぶやいた。

「ごめん、最近ちょっと疲れててさ。仕事が落ち着くまでもうしばらく待って」

 尚人はこくこくと首を縦に振って了承した。しかしその後も栄の仕事は落ち着くことなどなく、セックスの頻度は下がるばかりだった。

 本格的なセックスレスに突入してもうすぐ一年になる。ここ最近はいつも疲れて苛立っている栄と一緒に過ごす時間は極端に減り、話しかけても不機嫌な反応に落ち込んで終わることが多い。こんな状況でベッドに誘うことなど考えられない状況だ。

 ――セックスがしたい。

 かつてからは想像できないような欲求について考えるようになったのは、思ったより強い性欲が自分の中に眠っていたからなのか。それとも恋人に求められないことを不安に思う気持ちの裏返しなのか。人肌を恋しがる気持ちは日々、おりのように尚人の体の中に溜まっていき、自慰の回数を増やす程度では治まるどころかむしろ悪化していった。

 玄関で新聞を取ってからリビングに向かうと、昨晩栄が脱ぎ捨てたままのスーツが散らばっている。ハンガーに吊るす気力もなかったからなのか、それともクリーニングに出しておけという意味なのかわからない。どうしよう。勝手に判断して間違えたら叱られるだろう。でも意図を聞いたら聞いたで呆れ顔で「何年一緒に暮らしてるんだよ」と嫌味を言われるに決まっている。

 とりあえず考えるのは後にして、テーブルの上に放置された缶ビールの空き缶を水で洗いゴミ箱へ。それから湯を沸かしてコーヒーを入れることにした。

 以前はコーヒーに凝って、わざわざ口の細い銅製のケトルを買って自家焙煎した豆を丁寧に淹れたり、直火式のエスプレッソメーカーを買ったこともあった。でも、栄と一緒に飲むのならともかく自分ひとりのために手間をかけるのは虚しくて、最近はもっぱらインスタントで済ませている。

 コーヒー粉末を入れたマグカップに電気ケトルで沸かした湯を入れて、ダイニングチェアに腰掛け新聞を広げる。栄の希望で保守寄り革新寄りそれぞれのクオリティペーパーに加えて経済紙の合計三紙を取っているが、実際のところ栄に家でゆっくり新聞を読む暇などほとんどない。もともと政治や社会情勢への関心が薄い尚人は、一紙を軽くめくるだけで十分だから、リビングにはほぼ手付かずの新聞がどんどん山になっていく。

 新聞を読み終えて、今日の仕事の予定を確認するためにスマートフォンのカレンダーを開く。昼前に勤務先の家庭教師事務所に顔を出して、打ち合わせと教材準備。本日最初の訪問先は不登校の女子中学生。新しいクラスに溶け込めず進級を機に学校に行けなくなってしまったという彼女は最初は九十分の授業のあいだ一度も口を聞かなかったが、教えはじめて一年経ついまでは顔色も明るく、好きなアイドルやアニメの話などよく喋るようになった。その後は小学生二人。

 大学時代に家庭教師のアルバイトをはじめた頃は高校生も教えていたが、いつからか物腰の柔らかさを理由に小・中学生の生徒を紹介されることが増えた。昨年大学院を退学して専業家庭教師になってからの尚人は、ほぼ小学生専任のような状態になっている。

 小学生の場合、家庭教師をつける家庭の多くは中学受験を想定している。大学受験以上に学校ごとの試験傾向にばらつきがありテクニカルな面が重視される中学受験の場合、高学年になればほとんどの子どもが専門の塾に通うから、尚人のような家庭教師を依頼する家庭は塾に加えての家庭学習サポートを期待している。その他に、お受験対策が本格化する前の中低学年の生徒に学習習慣をつけさせるために家庭教師をつける家庭も少なくない。

「今日の最後は、優馬くん、と」

 本日最後の夜七時からのコマは、先月から新しく教えることになった笠井かさい優馬ゆうまという少年の家に行くことになっている。

 優馬はまだ九歳の小学三年生。地方出身で高校卒業まで公立校一本だった尚人からすれば、そんな年齢から家庭教師をつけるなんて大げさに思える。しかも比較的授業料の安い大学生アルバイトと違って、新人とはいえ専業家庭教師の尚人の授業料は決して安くないのだ。

 すでに三度ほど授業を終えた印象だと優馬は歳の割に大人しく物分りが良く、授業に置いていかれている様子もない手のかからない生徒だ。毎回出迎えてくれる母親の真希絵まきえは思い描いていたような教育ママではないが、話していると言葉の端々から三年後の中学受験へのプレッシャーが感じ取れる。きっと、一度も会ったことのない優馬の父親が教育熱心なのだろう。

 予定の確認を終えてスマートフォンをテーブルに置く。そのときふと手が滑って、「no-use」と名付けたフォルダに指先が触れた。画面に展開されるのは、スマートフォン購入時にあらかじめインストールされているアプリのうち、使いもしないが仕様上削除もできないものをひとまとめにしておくために作ったフォルダだ。

 だがその中にひとつだけ、尚人が少し前に自らダウンロードしたアプリが紛れている。同性愛者専用の出会い系アプリ。不要フォルダに紛れさせたのは、そこならば誰かにスマホの画面を見られてもすぐには気づかれないだろうという浅はかな気持ちからだ。

 アプリをダウンロードしたときは本気ではなかった。一夜のみの相手を探して体を繋ぐ、そういう世界があることは知識として知っていたものの、自分とは縁のないものだと思っていた。だって、いくら夜の行為と縁遠くなっているにしても、尚人には栄がいる。賢くて仕事熱心で見た目もスマートな栄は自慢の恋人で、裏切る気などさらさらない。

 こういう世界もあるのかと興味本位でのぞいていただけのアプリはいつからか尚人にとって安定剤のような役割を果たすようになった。眠れない夜、肉体的に寂しさを感じる夜、アプリの画面に映し出されるたくさんのプロフィールを眺めながら、自分がその中の誰かと会うところを想像してみる。その気になればいつでも誰かの体温を求めることができる、そんなことを考えるとひとり寝の寂しさをもう少しのあいだ我慢できそうな気がした。

 だが、どんな薬も慣れれば少しずつ効き目が弱くなる。カレンダーにセックスレスのチェックを入れる日数が重なっていくにつれて、尚人は見知らぬ男たちのプロフィールを真剣に眺めるようになっていった。

「……あと、半月」

 思わず口に出してつぶやく。

 自分でもどこまで本気なのかわからないが、尚人はセックスレスが丸一年続いたら、一晩だけ見知らぬ相手を探そうと考えている。