114. 尚人

「待って、未生くん」

 名前を呼んで駆け寄ると、未生はうんざりした様子で足を止めた。

「何だよ」

 衝動的に後を追ってはみたものの具体的に何を話すか決めていたわけではなく、尚人は口ごもる。

「あ、あの……」

 ただ確かなのは、ここで追わなければきっと未生は完全に気持ちを切り替え今度こそ本当に尚人のことなど忘れてしまうということ。家庭教師として家に通うことがなくなれば連絡先を知るすべもない。下手をすればもう二度と未生に会うことができないかもしれず、それだけは嫌だと思った。

「連絡先を、教えてもらえないかと思って」

 それが尚人にとって精一杯の言葉だった。

「は?」

 未生と会っていた頃に使っていた携帯電話は浮気がばれたときに破棄してしまった。あえて思い出さないよう努力していた番号は、もう記憶の奥に埋もれた、自分から捨てたくせにいまになって再び連絡先が知りたいだなんて勝手な言い分だとわかっている。それでも尚人は怪訝な顔をする未生相手に食い下がった。

「だって来月からはご家族と離れてひとりなんだろう? 僕はこんなで頼りないけど、一応君より年上の大人だし……もしも何か困ったことがあったら助けになれるかもしれないと思って」

 もっともらしい言い訳は先に進むにつれて小さくなる。未生の表情がどんどん険しくなるのを見て自信がなくなってくる。未生は本当にただ謝罪と報告をすれば満足だったのかもしれない。

 意気消沈した尚人が黙り込むと、未生は今日何度目かわからないため息を吐いて苛立ちを表明した。

「ったくもー」

 その声が自分に向けられているのは確実で、尚人は硬直してしまう。と同時にやはり何もかも自分のひとり相撲だったのだと思い胸の奥がひやりとした。冷たくて切れ味の鋭い刃物で心の奥底を撫でられたような、そんな気持ちだった。

 だが次の瞬間、未生はその場にしゃがみこんで頭を抱えてしまう。その姿はまるで駄々をこねる幼子のようだった。

「だからさ、何でそういうこと言うんだよ。尚人っていつもそうじゃん。彼氏のこと好き好きって言うくせに俺にも気まぐれに優しくして。こっちはこれ以上迷惑かけたくないからあきらめようとしてるのに」

 未生は地面に目をやったまま、でもその追及は明らかに尚人に向けられたものだ。自分より背が高く普段は見上げてばかりの未生のつむじを見下ろしながら、尚人はただ呆気にとられた。

 未生はいま、何と言った?

 あきらめるというのは、誰が、何を?

「えっと、未生くん?」

 尚人はおそるおそる腰を屈めてそっと未生の肩に触れる。振り払われることは覚悟していたが、未生は相変わらず地面を見つめたままで繰り返した。

「こんなんじゃあきらめがつかないって言ってるんだよ。尚人にはあいつがいるってわかってるのに」

 いくら鈍感な尚人でも、ここまで言われればその意味するところを理解する。

 ずっと自分が未生に惹かれているのは一方的な気持ちなのだと思っていた。未生が尚人に声をかけたのは「他人のもの」で「可哀想だったから」で、それ以上の何かが生まれるはずはないのだと。でも、いま未生が口にした言葉は――。

 未来なんて本当にあるのかはわからない。だって、足掻いてはみたもののいまも尚人の中には弱さと狡さが、未生の中にも幼さや傷がたくさん残っている。自分たちが恋をするにはきっと、ありとあらゆるものが足りない。

 でも、もしもこの先も少しずつ、尚人と未生が足並みをそろえて進んでいける可能性があるのだとすれば。尚人はそんな期待をどうしたって抱いてしまうし、その期待を捨てたくないと心から思った。だから一度深呼吸をして心を決めて、切り出した。

「えっと、まず君に言っておきたいんだけど、僕はもう栄とは暮らしていないんだ」

「……は?」

 未生が顔を上げる。

「去年の夏……もう半年くらい前の話。振られたっていうか、別れたっていうか」

 続く動きは早かった。立ち上がった未生は尚人の両肩をがっしりとつかんで揺さぶりながら、真っ青な顔で問い詰めてくる。

「嘘だろ。やっぱり俺のせいで!?」

 さっきまでの話を聞く限り未生は尚人がいまも栄と一緒にいるのだと信じきっていたようだから驚くのは仕方ない。あえて尚人が誤解を正さなかったのはまさしくこういう反応を予想していたからで、未生は彼が尚人と栄の仲を引き裂いたと勘違いして激しいショックを受けているようだった。

 尚人は未生を落ち着かせようとその腕をそっと握り、首を左右に振る。

「違うよ。一緒に住むのを止めようって言い出したのは栄だけど、ちゃんと話し合って僕も納得して別れた。確かに君とのことがきっかけになったのは事実だけど、未生くんが罪悪感を持つ必要なんかない」

 きちんと言葉が伝わるように、尚人はゆっくりと嚙んで含めるように言い聞かせる。だが未生は強張ったまま、ますます混乱を深める。

「――ちょっと待って、頭がついていかない」

 駅前のロータリーでうずくまったり肩をつかんで揺さぶったり、あからさまに奇妙な挙動を見せる二人を道ゆく人がちらちらと見ている。男同士の痴話けんかだと思われていてもおかしくないと感じた尚人は未生の腕を自分の肩から外すと、植え込みの脇の目立たない場所へ引っ張っていった。

 よっぽど動揺しているのか、されるがままについてきた未生の表情に多少の落ち着きが戻るのを待って、尚人は言葉を重ねる。

「僕と栄にとってお互いのことが必要な時期はずいぶん前に終わってたんだと思う。認めるには時間ときっかけが必要だっただけで」

 そこまで聞いてようやく未生は、尚人と栄の関係が穏便に終了したことを認める気になったようだ。青かった顔がゆるやかに血色を取り戻し、やっと表情も和らぐ。

「じゃあいま、尚人は?」

「ひとりで暮らしてるよ。丸ノ内線の中野富士見町の近く。古いマンションだけどのんびりした場所だし、しばらく歩けば緑地もある。けっこう気に入ってるんだ」

 未生は尚人と目を合わせないまま何やらひとりでもごもごとつぶやいている。尚人が未生を呼び止めたこと、栄と別れていまはひとりでいること、未生の連絡先を知りたがったこと――そういった情報をすべて考え合わせて、彼の中で何とか現状を整理しようとしているようだった。

 尚人は植え込みの縁に浅く腰掛けて未生の考えがまとまるのを待っていた。周囲は暗がり、でもいくらだって待つことはできる。そういえば帰りの時間を気にせずに未生と過ごすのはこれが初めてかもしれない。そんなことを考えて不思議な気持ちになった。

 やがて未生が尚人の方を向き直る。緊張した面持ちは背伸びするわけでもなければ幼稚な駄々をこねるわけでもない、ごくごく普通の青年のものだった。

「それってつまり――もしも俺が、もう一回ゼロからはじめさせてくれって言ったら……」

「それは嫌だな」

「はあ!?」

 決死の告白を最後まで言わせることすらせず尚人が否定すると、未生の顔がみっともなく歪んだ。その表情が面白くて尚人は思わず頰を緩める。

「確かに出会い方は最悪だったしいろいろなことがあったけど、僕はあの頃の自分があの頃の未生くんに会ったことを後悔なんかしたくない。だからゼロからなんて嫌だ」

 お互いにぼろぼろの状態で出会って、自分自身も周囲の人間も巻き込んで、傷つけて、それでもどうにかして正しいと思える道を探してきた。そのすべてに意味があったからこそ尚人は再び未生と会いたいと思って、未生もまたこうして尚人の手を取ろうとしている。尚人は心からそう信じていて、できることならば未生にもこの気持ちをわかって欲しいと願っている。

「栄には言われたよ。同情で未生くんのところに走るのならば、きっと同じ失敗を繰り返すって。僕もその通りだと思った。だから未生くんにはもう会わないって決めていたんだ」

 ちゃんと自分の価値を認めてひとりで立てるようになるまではもう恋はしないと言い聞かせてきた。弱い自分を変えたかったが、変わってしまえば未生にとっての尚人の魅力は消える。そうすれば完全にあきらめられるのだと思ったこともあった。

 でも、もし未生も変わったというのなら。いまの尚人で良いと言ってくれるのならば。

「可哀想でも惨めでもない僕でもいいと、本当に君は思うの?」

 改めて尚人が問いかけると、未生ははにかみながらうなずいた。

「最初は遊びのつもりだった。でも途中からは強がってたんだよ。尚人があいつのこと好きだ好きだっていうの見ているうちに、そのおこぼれでもいいから俺にも気持ちが向かないかなって思ってた」

「僕は、君に惹かれているって言ったらその瞬間に切られるんだとばかり思ってた。ひどい修羅場も目撃したし」

 二人は顔を見合わせて、どちらからともなく笑い出す。

 遠回りのようで、多分これが一番正しい道だった。狡くて臆病で、ただ傷つきたくなくて本当の気持ちは奥深く埋めて。でも惑って迷って、こうして再び向かい合うことができたいま。

 ひとしきり笑い合ってから、思わせぶりに咳払いして未生が急に真面目な顔をする。

「だったら尚人、俺と改めて――」

 言葉の先はわかっている。だからこそ未生よりほんの少しだけ大人である尚人は手を伸ばし、未生の唇に指を触れる。

「それは気が早いよ。だって僕たちまだお互いのことよく知らないだろう」

 そう言って微笑むと、満を辞しての告白をあしらわれた未生は再びわがままな子どもの顔に戻ってしまう。

「何だよそれ。じゃあどうすんの? お友達からはじめましょうって言えばいいわけ?」

 黙っていればすぐにでも抱きしめてキスしてきそうな未生を押しとどめて尚人は曖昧に首を振る。今度こそ間違えないように、今度こそ傷つけないように、だから続きはゆっくりと。

「……未生くん、今度暇なときにうちに来ない?」

 意気消沈する未生がやけに可愛く見えたので、フォローする意味を込めて尚人がそう言うと、未生は恨みがましさあふれる顔でにらみ返してきた。

「尚人、さっきから俺の言うことちゃんと聞いてる?」

 恋人になることを否定したかと思えば自宅に誘う、脈絡のない言動に未生が心から苛立っているのは間違いない。でも、出会って以来強引なことも意地悪なこともたくさんされてきたのだから、いま尚人がちょっとくらい仕返ししたって許されるはずだ。

「聞いてるって。大人になろうとして受験勉強頑張って、飲み慣れないコーヒーも頑張って飲んで。でも心配しないで、店内で言うのは憚られたけど、さっきの店のコーヒーはすごく不味かった」

 コーヒーの話など関係ないと言いたげな未生に向かって尚人は笑う。

「僕がコーヒーを淹れてあげる。きっと君でも美味しいって思えるような」

 大体コーヒーは苦くて不味いなどという考えは尚人からすれば偏見そのものだ。豆の種類、焙煎方法、ドリップのやり方によってコーヒーの味なんて千差万別だ。だから未生は尚人の部屋に来ればいい。月に一度でも毎週末でも、やって来ればその度尚人は未生にコーヒーを淹れてやる。そうして一緒に過ごしてくだらない話でもして、たまにはけんかでもして、少しずつでも恋に近づくことができるのならば。

 そんなことを思い浮かべて楽しい気分になったところで、未生がそっと尚人の耳元に唇を寄せた。

「それ飲めたら、俺は合格ってことになるの?」

 多分に色気を含んだ囁きに思わず背筋がざわめいて、動揺を悟られないよう尚人は未生の体を押しのけてポケットからスマートフォンを取り出した。

 まずは電話番号の交換と、そして今週末の予定から。

 そしていつかは、きっと。

 

(終)
2018.12.01-2019.06.09